ガダマー――理解は先入見と伝統から始まる(解釈学的循環・地平の融合) — Epoché
現代 解釈学と批判理論 約 17 分 本文 約 6,900 字 図 4・表 2 原典 1 節 この課の要点 循環・先入見・融合の 3 つ 循環 テキストを読む人は、最初の手がかりから全体の意味を前もって見込み、読み進めながらその見込みを直していく。部分と全体のこの往き来は理解をゆがめる欠陥ではなく、理解の成り立ちそのものだ、とガダマーは言う(『真理と方法』第 2 部)。 先入見 先入見は、もとは「先に下される判断」で、理解を閉ざすのではなく、理解されるものへ私たちを開く。先入見を全部捨てよという啓蒙の要求も一つの先入見で、権威と伝統も知の源になりうる。ただし先入見はときにゆがめるので、対話の中で試し直される。 融合 理解は自分の歴史の中の位置(地平)から始まるが、そこに閉じ込められはしない。テキストや相手と出会うとき、二つの地平が融け合って新しい意味の広がりができる。この過程に終わりは無く、理解を確かにする決まった方法も無い、とガダマーは言う。 はじめに ハンス=ゲオルク・ガダマーは、マールブルクでハイデガーに学んだ 20 世紀のドイツの哲学者で、主著『真理と方法』(1960 年)で広く知られます [1] [2] 。 この本が扱うのは、 解釈学 と呼ばれる分野です。解釈学は、もとは聖書の読み方の規則の学で、のちにテキストの解釈一般へ広がり、ディルタイはこれを、人文学(精神科学)を自然科学に並ぶ学として基礎づける方法の学にしました [1] 。 ガダマーは、この問いの立て方そのものを組み替えます。手がかりは、人は自分で選んだのではない状況の中にすでにいる、というハイデガーの考えです。ガダマーはこの「すでに」をテキストや過去を理解する場面に持ち込み、理解は白紙からでなく、すでに持っているものから始まる、と考えました [1] 。 この課では、解釈学的循環、先入見の見直し、地平の融合の三つを読み、原典を読むでは『真理と方法』の読みの見込みを論じる所を要約で読みます。 この課の問い 古い手紙や外国の小説を読むとき、私たちは白紙の頭ではなく、「たぶんこういう話だろう」という見込みと、自分の育った時代や国の言葉の感覚を持って読んでいます。思い込みを全部捨てなければ、正しく理解できないのでしょうか。それとも、思い込みこそが理解の入口なのでしょうか。 この課のことば 解釈学 テキストや芸術作品、人の言葉を理解し解釈することについての学です。もとは聖書の読み方の規則の学で、のちにテキストの解釈一般、人文学の方法の学へと広がりました。 解釈学的循環 部分は全体の見通しから理解され、全体は部分を通して理解される、という往き来のことです。ガダマーは、これを理解そのものの成り立ちと見ました。 先入見(せんにゅうけん) ドイツ語の Vorurteil。ふつうは「偏見」の意味で使われますが、ガダマーは、もとの意味の「先に下される判断(前判断)」に戻して、理解に欠かせないものと見ました。 地平の融合 地平とは、自分の歴史の中の位置から見渡せる意味の広がりです。理解する人の地平と、テキストや相手の地平が出会い、どちらも元のままではない共通の広がりができることを、地平の融合と言います。 作用史的意識 テキストや出来事は、後の歴史の中で読み継がれ、作用を及ぼし続けます。理解する人自身がこの作用を受けていると自覚している意識のことです。 適用 理解したことを、いま自分の置かれた状況に当てはめることです。ガダマーは、適用は理解の後の付け足しではなく、理解そのものの一部だと考えました。 理解の始まり――私たちは白紙から読めるのか この章では、部分と全体の往き来としての理解、先入見と伝統の見直し、過去と現在の出会いとしての理解を、順に読みます。 解釈学的循環――全体を見込み、読みながら直す 一冊の本の中の一つの文の意味は、本全体の流れから分かります。ところが本全体の意味は、一つ一つの文を読むことでしか分かりません。部分は全体から、全体は部分から理解される、というこの往き来を 解釈学的循環 と言います。ガダマー以前の解釈学でも、中心にあった考えです [1] 。 ハイデガーは、この循環を、テキストを読む規則から、あらゆる理解の成り立ちへと組み替えました。ある絵を理解しようとするなら、少なくとも「布の上の絵の具の跡」だというくらいには、すでに分かっていなければなりません。そうでなければ、それを理解すべきものとして見ることさえできないからです [1] 。ガダマーはこの考えを、理解されるものを前もって仮に捉える構え(理解の「先行構造」)として受け継ぎました [1] 。 ガダマーによれば、テキストを読む人は、最初の手がかりが見えたとたんに全体の意味を見込みます。読み進めて見込みが合わなくなれば、それを直します。理解とは、この見込みと直しのくり返しだ、というのです(『真理と方法』第 2 部) [2] 。見込みには、読むものが筋の通った一つの全体だ、という直すことのできる前提も含まれます。ガダマーはこれを「完全性の先取り」と呼びます [1] 。 本教材の作例で確かめましょう (図 1) 。祖母の遺品の箱から、古い手紙が出てきます。書き出しは「長いあいだご無沙汰しております」。読む人は、近況の便りだろうと見込みます。ところが三行目に「あの日の駅のことは、もう忘れてください」とあります。見込みが合わなくなり、読む人は、別れの手紙かもしれないと改めます。そう思って読み直すと、一行目の「ご無沙汰」も、会わずにいた月日の重さを語る言葉に見えてきます。 全体を見込み、読みながら直す 全体の見込みが変わり、前の部分も変わる 近況の便り? 一行目を読む 近況と見込む 別れの手紙? 三行目で止まる 見込みを改める 月日の重さだった 一行目へ戻る 意味が変わる 読み進める(部分) 図 1 解釈学的循環を、手紙の場面で絵にしたものです(本教材の作例)。読み進める中で全体の見込みが変わり、変わった見込みが、すでに読んだ一行目の意味まで変えます。見込みと直しの往き来はガダマーの論点です [1] 。 部分(三行目)が全体の見込みを変え、変わった全体が部分(一行目)の意味を変えました。見込みを持たずに読むことは、はじめからできなかったのです。ただし、大事なのは、思いつきの見込みではなく、テキストが語ることがらに合う見込みを作ることです [2] 。 ここで間違えやすい 解釈学的循環を、結論を前提に入れてしまう論理の誤り(循環論法)と取らないでください。これは証明の手順の話ではなく、理解がいつも見込みから始まり、ことがらに照らして見込みを直していく、という動きの話です。また、見込みから始まるのだからどう読んでもよい、と取るのも誤りです。思いつきの見込みを退けていくことこそが、理解の務めだとされます [2] 。 先入見の復権――思い込みは理解の入口になる ドイツ語の Vorurteil は、ふつう「偏見」「根拠の無い思い込み」の意味で使われます。けれども、ラテン語の prae-judicium にさかのぼる、もとの意味は「先に下される判断(前判断)」でした。その判断は、正しいことも誤っていることもあります。SEP によれば、この中立の意味はルネサンスの間に失われました [1] 。ガダマーはこの語を、もとの意味に戻して使います。本教材は、悪い意味の「偏見」と区別するために「先入見」と書きます。 ガダマーは、先入見は私たちを閉ざすのではなく、理解されるものへと開く、と論じます [1] 。手紙の例でも、「近況の便りだろう」という先立つ判断があったから、三行目の言葉が「合わない」と目に付きました。先入見は、理解の中で表に出て、問いに付され、直されます。この点で、先入見の働きそのものが、解釈学的循環の一つの形になっています [1] (図 2) 。 ① 先入見 すでに持っている、先に下される判断 ② 全体の見込み 最初の手がかりから全体の意味を見込む ③ 読み進める 見込みをテキストの中身と突き合わせる ④ 合わない所 なじみの無さに出会い、先入見が表に 出る ⑤ 見込みを直す 直した見込みを持って②へ戻る 確定した最後の理解 この往き来に終わりは来ない 図 2 先入見から始まる理解の往き来です(本教材の整理)。⑤から②へ戻る輪が解釈学的循環で、悪い循環ではなく理解の動きです。点線の段は、たどり着く終点が無いことを示します。見込みと直しの往き来、終わりが無いことは本人の論点です [1] 。 ここからガダマーは、啓蒙を批判します。先入見を一つ残らず捨てよ、という要求そのものが、一つの先入見だというのです(『真理と方法』第 2 部) [2] 。そして、権威と伝統も、正しい知の源になりうると考えます [1] 。他人の判断を受け入れることは、相手が自分よりよく知っていると認める判断に基づくなら、理性を捨てることではありません [2] 。 本教材の作例です。初めての山で、山小屋の主人に「午後から崩れるから、昼までに下りなさい」と言われます。空には雲一つ無く、自分で確かめる手立てもありません。それでも下りるのは、何十年もこの山を見てきた人が自分よりよく知っている、と判断したからです。もし主人の言葉が何度も外れれば、登山者はその判断を改めるでしょう。 ガダマーも、先入見がときに理解をゆがめることは認めます。時代の隔たりが、問題のある先入見を見分ける助けになる、と彼は述べました。けれども SEP の著者は、理解の中の対話のやり取りこそが、そうした先入見を表に出して作り直す場だと読むほうがよい、と言います [1] 。この見直しは、とくにハーバーマスから、思想の上での保守主義のしるしだと批判されました。ガダマー自身は、啓蒙の行き過ぎへの正しい揺り戻しと見ていました [1] 。 ここで間違えやすい ガダマーが「どんな先入見も正しい」「伝統には黙って従え」と言った、と取らないでください。先入見はときにゆがめるので、見分けて直していくことが理解の務めとされます [1] 。権威を認めることも、相手がよく知っていると判断する理性の働きに基づきます。また、ガダマーが見直したのは差別の意味での偏見ではなく、理解に先立つ判断という構えです。 地平の融合――過去は現在との出会いの中で理解される 理解が先立つかかわりから始まるなら、理解はいつも歴史の作用を受けています。ガダマーは、自分がこうして歴史の作用を受けていると自覚する意識を、 作用史的意識 ( wirkungsgeschichtliches Bewußtsein )と呼びました [1] 。 この状況を言い表すのが 地平 ( Horizont )という語で、自分の歴史の中の位置から見渡せる意味の広がりのことです。理解はいつもある地平の内で起こりますが、地平に閉じ込められはしません。他者と出会うとき、先入見と同じく自分の地平も問い直されるからです [1] 。 ガダマーは、理解を、対話の相手とことがらについて合意に至る過程、つまり共通の地平を作る過程と見ます。だから理解は 地平の融合 ( Horizontverschmelzung )の過程だというのです [1] (図 3) 。そこでは、なじみのものとなじみの無いものが互いに働きかけ、どちらも元のままではいません。しかもこの過程に終わりはなく、自分の歴史の位置が隅々まで見通せるようになることもありません [1] 。 出会う前 見えるのは自分の地平の内まで 点線:伝統のつながり いまの読む人 古い書物 出会った後 二つの地平が融け合う 外の点線:終わりは無い 読む人も変わる 読まれ方も変わる 図 3 地平の融合を絵にしたものです(本教材の絵)。「出会う前」では、読む人に見えるのは自分の地平の内までです。ただし二つの地平は初めから伝統でつながっており(点線)、離して描いたのは作図の便宜です。「出会った後」では二つの地平が融け合い、外の点線のように、その広がりに終わりはありません [1] 。 理解には、いまの状況への当てはめ( 適用 )も欠かせません。過去の解釈でさえ、いまの関心から始まります [1] 。ガダマーは、条文をいまの事件に当てはめる法の解釈を、その手本として挙げます(『真理と方法』第 2 部) [2] 。本教材の作例で言えば、百年前の条文を、当時は無かった技術の争いに当てはめるとき、裁判官は条文の意味を、その当てはめの中で具体的に理解します。 理解は、作者の心の中を再現することでも、決まった手順で最後に確定することでもありません。それゆえ、理解や真理に至る方法や技術は無い、とガダマーは論じます。人文学を自然科学に並ぶ方法で基礎づけようとした従来の試みは、根本で道を誤っていた、というのです [1] (表 1) 。 この表で分かること: 解釈学は、テキストを読む規則の学から、人文学の方法の学を経て、ハイデガーとガダマーで理解そのものの成り立ちの学に変わりました。ガダマーは方法による基礎づけを退けます。 解釈学の形 何の学か 循環とは 目指すもの シュライアマハー・ディルタイ 解釈の方法・規則の学 部分と全体の解釈の依存 人文学を学として基礎づける ハイデガー 理解の成り立ちをあらわにする 理解はすでにことがらに向かう 理解の構造をあらわにする ガダマー 理解そのものの哲学 先入見を試し直す往き来 方法に頼らない対話の理解 表 1 解釈学の三つの形です。中身は SEP の整理により [1] 、表への並べ方は本教材によります。 ここで間違えやすい 地平の融合を、いまの自分の考えを過去に読み込むこと、あるいは同じ意見に落ち着くこと、と取らないでください。どちらも元のままではない、新しい意味の広がりができるのです [1] 。また、方法は要らないと言ったのでもありません。方法の役割には限りがあり、対話としての、状況の中の理解が先にある、と SEP は読みます [1] 。 原典を読む 第 1 節で見た解釈学的循環を、『真理と方法』のその所で読みます。ガダマーは 2002 年に没し、著作は日本で保護期間内にあるため、本教材は原文を訳さず、原語の引用もしません。以下は本教材の言葉による要約で、訳ではありません。 ガダマー『真理と方法』第 2 部より 見込んで読み、読みながら直す 第 2 部で解釈学的循環と先入見を論じる中の、読む人が