パトナム――心は働きによって定まる(機能主義・多重実現) — Epoché
現代 心の哲学と技術の哲学 約 18 分 本文 約 7,400 字 図 4・表 2 原典 1 節 この課の要点 反論・働き・広がりの 3 つ 反論 痛みが一つの種類の脳の状態と同じなら、痛みを感じうる生き物すべてに同じ物の種類が無ければならない。だが人・鳥・タコの神経は大きく違う。だから心脳同一説は、確かに野心的で、ほぼ確実に誤りだ、とパトナムは論じた(「心理学の述語」1967)。ただし共通の作りが見つかる見込みを頭から否定したのではなく、経験の仮説として見込みが薄いと評した。 働き 代わりにパトナムは、心をチューリング機械になぞらえ、心の状態を、入力・出力・ほかの状態とのつながりで決まる機械表の状態とした。ほかの状態も含むので、ふるまいの傾向だけで心を説く行動主義の難しさを避けられ、同じ表は違う作りの上でも動く。 広がり 多重実現の考えは、心理学のような学問は物理学に還元されないという議論に広がった。一方で、神経科学は種をまたぐ連続を前提にしている、同じ種類と数えるのが早すぎる、という反論があり、パトナム自身ものちに機能主義を疑った。 はじめに ヒラリー・パトナム(1926〜2016)は、アメリカの哲学者です。心の哲学では、心をチューリング機械になぞらえる早い時期の 機能主義 を出し、同じ心の種類が違う物の作りで成り立ちうるという多重実現の考えを持ち込んだ人として知られます [1] [3] 。 前の課のライルは、心を体の中に住む見えない幽霊とみる見方を退けました。では、心の状態とは何なのでしょうか。1950 年代の終わりに力を持っていたのは、痛みは脳のある種類の状態と同じだとする心脳同一説でした [1] 。心を脳の作りそのものとみる、すっきりした答えです。 パトナムは、この答えが狭すぎると考えました。痛みを感じうるものは、人だけではないからです。タコの神経は人とまるで違いますし、作られたロボットにも、いつか痛みがありうるのかもしれません。そこでパトナムは、心の状態を決めるのは、何でできているかではなく、何をしているか、つまりどんな働きをしているかだ、と答えました [2] [3] 。 この課では、同一説への反論、機能主義、多重実現の広がりと反論を順に読みます。 この課の問い 人も、タコも、遠い星から来た生き物も、作られたロボットも、けがをすれば身を引き、その場から逃げようとするかもしれません。けれども体の中の作りはまるで違います。それでも、みな同じように「痛い」と言えるのでしょうか。 この課のことば 機能主義 心の状態が何であるかは、それが何でできているかではなく、心の全体の中で果たす働き(役割)で決まる、とする立場です。働きとは、感覚から受け取るもの、ほかの心の状態、ふるまいとの、原因と結果のつながりのことです。 多重実現 同じ一つの心の種類(たとえば痛み)が、人の脳の状態、タコの神経の状態のように、まったく違う物の種類によって成り立つことです。「実現する」は、ここでは「その役を実際に担う」くらいの意味です。 心脳同一説 心の状態の種類は、それぞれある種類の脳の状態と同じものだ、とする説です。痛みは、ある種類の神経が興奮していることにほかならない、と考えます。 チューリング機械 数学者チューリングが考えた、理想の計算機の模型です。指示の一覧(機械表)だけで、その働きのすべてが決まります。 機械表 「いまこの状態で、この入力を受けたら、次はこの状態に移り、これを出力する」という指示の一覧です。同じ表は作りの違う計算機の上でも動かせます。 機能主義と多重実現――心は何でできているかで決まるのか、何をするかで決まるのか この課程のデカルトの課で読んだように、デカルトは心を考えるが広がらないものとし、体と別のものであることを第六省察で論じました。同じ編の前の課のライルは、心を体の中の見えない幽霊とみる見方そのものを、カテゴリー錯誤として退けました。では、心を体の外の別のものとしないなら、心の状態とは何なのでしょうか。この章では、同一説への反論、心をチューリング機械とみる機能主義、多重実現の広がりと反論を、順に読みます。 痛みはどこにでもある――心脳同一説への反論 1950 年代の終わりには、心の状態の種類は脳の状態の種類と同じものだ、とする 心脳同一説 が力を持っていました [1] 。痛みとは、ある種類の神経が興奮していることにほかならない、という考え方です。パトナムは論文「心理学の述語」(1967)で、この説に正面から異を唱えました [2] [3] 。 パトナムが目を向けたのは、痛みを感じうる生き物の幅の広さです。人、ほかの霊長類、ほかの哺乳類、鳥、爬虫類、両生類、そしてタコのような軟体動物も、痛みを感じていると考えるのが自然です [3] (図 1) 。同一説が正しいなら、これらすべてに共通し、痛みが起こるたびにちょうど対応する一つの物理・化学の種類が無ければなりません。これは同一説が成り立つための欠かせない条件です [3] 。 中身は違っても、同じ働き 痛い 痛い 痛い 神経の網 腕に散らばる神経 基板とチップ 痛みの役 痛みの役 痛みの役 太い矢印:入力(けが) 細い矢印:出力(しかめる・逃げる) 入力と出力に加え、ほかの状態との つながりも同じだと仮に置きます ロボットの痛みは観察でなく仮定です 窓の中身の描き方は本教材の作例です 図 1 人・タコ・ロボットが、それぞれ違う中身で同じ痛みの役を担う様子です(本教材の絵)。胸の窓の中身は三者でまったく違いますが、けがという入力、身を引くという出力、ほかの状態とのつながりが同じなら、機能主義では三者とも痛みの状態にあります。ロボットの痛みは仮定であって、観察された事実ではありません。 SEP の著者は、生物学の事情がこの条件に逆らうと補います。神経の作りは生き物によって、とくに回路の水準で大きく違います。似た環境に適応するうちに、近い親戚でない生き物どうしが、似た働きを別の作りで手に入れることもあります(収斂進化) [3] 。ただしパトナム自身は、タコと哺乳類の目が別々に似た形へ進んだ例を挙げつつ、共通の作りが見つかる見込みを頭から否定してはいません [2] 。同一説は経験で確かめる仮説として出されていたので、パトナムはそれを、確かに野心的で、ほぼ確実に誤りだ、と評したのです [3] 。 話は地上の生き物にとどまりません。早い時期の同一説は、心と脳の同一を自然の法則によるものとしていました。それなら、自然の法則のもとでありうるどの痛む生き物も、その脳の状態を持てなければなりません。SEP の著者は、ここからケイ素でできたアンドロイドや電子のロボットのような、ありうる痛みの担い手が議論に入ってきたと整理します [3] 。実際に違う作りで実現されていること( 多重実現 )と、違う作りで実現されうること(多重実現可能性)の区別も、ここから生まれました [3] 。 論証の形に直すと、こうなります。ある心の種類が違う物の種類で実現されうるなら、その心の種類はそのどれか一つと同じではありえません。同一説はすべての心の種類について言われた一般の説だったので、批判する側は、そうした心の種類を一つ見つければ足ります [3] 。前提を認めれば、結論は必ず出ます。 ここで間違えやすい パトナムが、心は体と別の物でできている、と言ったと取らないようにしましょう。退けられたのは、心の種類と脳の状態の種類を一つずつ対応させる説(型の同一説)です。一つひとつの痛みの出来事が、そのときの何らかの物の状態であることまでは否定していません。のちにフォーダーは、この立場を、個別の出来事についての物理主義として整理しました [3] 。 心をチューリング機械とみる――入力・状態・出力 では、痛みを決めるのは何なのでしょうか。パトナムの答えが 機能主義 です。機能主義によれば、ある状態が痛みであるのは、その中身の作りによるのではなく、心の全体の中で果たす役割によります。役割とは、感覚から受け取るもの、ほかの心の状態、ふるまいとの、原因と結果のつながりのことです [1] 。 パトナムは、この役割を計算の模型で表しました。心を持つどの生き物も、チューリング機械、つまり理想の計算機とみなせる、というのです [1] 。その働きは、「いま状態 S にあって入力 I を受けたら、次の状態に移り、出力 O を出す」という形の指示の一覧( 機械表 )で決まります。心の状態は、この機械表の状態と同じものとされます [1] 。パトナム(1967)は、次の状態が一つに決まる機械ではなく、表が状態と入力ごとに次の状態と出力の確率を定める機械を、心の模型としました [1] [2] 。 例で見ましょう。SEP の著者は、雨が降るという信念を、予報を見たら傘を持って出る傾向とは捉えません [1] (図 2) 。予報を見て、しかもぬれたくないと思っているなら傘を持って出る傾向として捉えるのです [1] 。機械表で書けば、同じ入力でも、ぬれたくないという欲求があるときと無いときでは現在の状態が違うので、別の行になります。行が違うから、出てくるふるまいも違うのです。 行 1 行 2 現在:雨を信じる +ぬれたくない 現在:雨を信じる (その欲求なし) 入力:予報「午後は 雨」 入力:予報「午後は 雨」 出力:傘を持って 出る 出力:傘を持たずに 出る 同じ表は、脳の上でもシリコンの上でも動かせます (作りを選ばない)。 図 2 機械表の 2 行です(本教材の整理)。ぬれたくないという欲求があるかないかで現在の状態が違うので、別の行になります。表は行ごとに、次の状態と出力の確率を定めます(パトナム 1967)。傘の例は SEP によるもので、パトナムの論文にはありません。 ここに、行動主義との違いがあります。行動主義は、心の状態をふるまいの傾向だけで説こうとしました。機械表の状態は、入力と出力だけでなく、そのときの機械の状態とのつながりでも決まります。こうして機能主義は、多くの人が行動主義にとって致命的と見た難しさを避けられます [1] 。また、同じプログラムが作りの違う計算機の上で動くように、同じ機械表も、脳の上でもシリコンの上でも動かせます。この模型は、多重実現と自然になじむのです [1] 。 役割だけで決まるなら、理屈の上では、物でない状態がその役を担うことさえ排除されません。機能主義は公式には唯物論とも二元論とも両立しえます。それでも、その役を担えるのは事実上物の状態だろうと考える唯物論者に、とくに好まれました [1] 。 ここで間違えやすい 機能主義を、心は文字どおり今のパソコンと同じ仕組みで動く、という主張と取らないようにしましょう。言われているのは、心の状態が入力・出力・ほかの状態とのつながりで決まり、その点で機械表の状態に似ている、ということです。のちの多くの機能主義者は、機械表の状態が心の全体の状態であることを嫌い、心理の理論の中の役割で心の状態を定める別のやり方をとりました [1] 。 多重実現の広がりと反論――ネズミ捕りも働きで決まる 多重実現の考えは、パトナムの手を離れて広がりました。ブロックとフォーダー(1972)は、物の作りの上で多様に実現されることは、ネズミ捕りのようなふつうの道具にもよく見られる、と指摘しました [3] (図 3) 。ばねで挟む板、粘着の板、戸が閉まる箱(三種は本教材の具体化)は作りが違っても、ネズミを捕らえる働きをするので、みなネズミ捕りです。二人は、心の種類を働きの種類とみるのが、説明にちょうどよい抽象の度合いだと論じました [3] 。 作りは違っても、捕らえる働きは同じ ネズミ捕り ネズミ捕り ネズミ捕り ばねで挟む板 粘着の板 戸が閉まる箱 作りで「ばね仕掛けの板」 と決めると…… 中央と右が抜け落ちる ネズミ捕りの例はブロックとフォーダー 三種の罠と台所の場面は本教材の作例 図 3 作りの違う三つのネズミ捕りが、どれもネズミ捕りである様子です(本教材の絵)。「ばね仕掛けの板」と作りで定めると、粘着の板や箱の罠が抜け落ちます。ネズミ捕りの例はブロックとフォーダー(1972)によりますが、三種の罠の選び方と台所の場面は本教材の作例です。 フォーダー(1974)は、多重実現から学問の自立を論じました。心理学の種類を物理学に結ぶ橋の一方は、ありうる物の実現を「または」でつないだ長い並びになり、それは物理学の自然な種類ではないので、心理学は物理学に還元されない、というのです [3] 。 一方で、反論も出ました (表 1) 。キム(1992)やビクル(1998)は、マカクザルの視覚を調べて人の視覚を知る神経科学の研究が実を結ぶのは、種をまたいで仕組みが強くつながっているからだ、と論じます [3] 。ザングウィル(1992)やシャピロ(2000)は数え方を問いました。人とタコは感覚と運動の作りが違うので、同じ痛みと数えるのは早すぎるかもしれません。色だけが違うコルク抜きを違う実現と数えないように、働きに効く違いだけを数えるべきだ、とシャピロは言います [3] 。 この表で分かること: 多重実現は同一説への強い論拠とされましたが、神経科学・数え方・感じの質・パトナム自身の考え直しから、それぞれ違う向きの反論を受けています。 反論(誰の) 何を問うか 多重実現への向き 神経科学の連続(キム・ビクル) 種をまたぐ研究はなぜ実るのか 多重実現は思うほど広くない 種類の数え方(ザングウィル・シャピロ) 本当に同じ種類の心か 同じ種類と数えるのが早い 感じの質(ブロックら) 働きが同じなら感じも同じか 働きだけでは心は決まらない 計算の柔らかさ(パトナム 1988) 同じ心は同じ計算の状態か 多重実現が機能主義に返る 表 1 多重実現への主な反論です。中身は SEP の二つの項目の整理によります [1] [3] 。 いちばん大きな転回は、パトナム自身から来ました。『表象と実在』(1988)で、同じ心の種類が、同じ計算の状態にない仕組みにもありうる、と論じたのです。多重実現は、守ってきた理論そのものに返ってきました [3] 。 ここで間違えやすい 多重実現が機能主義を決定的に証明した、と取らないようにしましょう。同一説を退けるだけでは、機能主義が正しいとは決まりません。働き