オッカム――不要な存在を増やしてはならない(唯名論・オッカムの剃刀) — Epoché
中世 スコラ哲学 約 16 分 本文 約 6,700 字 図 4・表 2 原典 1 節 この課の要点 生涯・普遍・剃刀の 3 つ 生涯 フランシスコ会士として、オックスフォードで『命題集』を講じたが教授の資格は取らず、ロンドンで主な著作を書いた。異端の訴えでアヴィニョンに呼ばれ(断罪はされず)、清貧をめぐって教皇ヨハネス 22 世と対立し、1328 年に逃れて皇帝の保護のもとミュンヘンで政治の著作を書いた。 普遍 存在するのは個物だけで、普遍は心の中の概念、つまり取り決めによらず自然に多くを表示し、多くについて述語になる記号である。概念そのものも心の中の一つの個である。スコトゥスの共通本性も、物の中に普遍を残すものとして退ける(『論理学大全』第 1 部 第 14〜16 章)。 剃刀 理性・経験・聖書の権威の裏づけがないかぎり、余分なものを立てない、という方法の用心。よく引かれる「存在を必要以上に増やしてはならない」という文は、考え方はオッカムのものだが、その形では著作に見当たらない。オッカムはこれで量や関係の「もの」を削り、実体と性質だけで説明した。 はじめに オッカムのウィリアムは、14 世紀前半のイングランドのフランシスコ会士です。1287 年の末か翌年の初めに、サリーのオッカム村に生まれたとされます [1] 。オックスフォードで 1317 年からペトルス・ロンバルドゥスの『命題集』を講じましたが、神学の教授の資格は取らずに終わりました。そのため「尊敬すべき初学者( Venerabilis Inceptor )」と呼ばれます [1] 。主著の『論理学大全』は、1323〜25 年ごろに書かれました [1] 。 その後、異端の訴えでアヴィニョンに呼ばれましたが、断罪はされませんでした。清貧の問題で教皇ヨハネス 22 世と対立して 1328 年に逃れ、ミュンヘンで政治の著作を書いて 1347 年に没しました [1] 。 この課で読むのは、それより前の、ロンドンでの論理学の仕事です。この編のスコトゥスの課で見たように、スコトゥスは、個物の中に多くのものに共通する本性があると考えました。オッカムは、言葉と記号の分析で、こうした物の側の共通のものを退けます。 この課の問い 世界に本当にあるのは、この猫、あの猫という一匹ずつの猫だけではないでしょうか。だとすれば、「猫」という一般の言葉は何を指しているのでしょうか。そして、ものごとを説明するのに、私たちはどこまで「もの」を立てる必要があるのでしょうか。 この課のことば 普遍 「人間」「猫」のように、多くのものについて述語になるもの。オッカムはこれを、心の外のものではなく、多くのものを表示する記号だとします。 個物 この猫、ソクラテスのように、ただ一つしかないもの。オッカムは、存在するものはすべて個物だと考えます。 唯名論 普遍は心の外にはなく、心の中の概念と、それを表す言葉としてだけある、という立場。ラテン語の「名前( nomen )」から来た呼び名です。 心の言葉 書かれた語や話された語の奥にある、思考そのものの言葉。その単位が概念です。 自然的な記号 取り決めによらず、自然に何かを表示する記号。煙が火を示すように、犬の概念は誰の心でも犬を表示します。 オッカムの剃刀 説明に必要のないものを立てない、という方法の用心。理性・経験・聖書の権威のどれかの裏づけがなければ、余分なものの存在を認めません。 普遍と剃刀――世界にあるのは個物だけか 13 世紀のトマスやスコトゥスは、多くのものに共通するもの(本性)が、何らかの仕方で物の側にあると考えました。14 世紀のオッカムは、論理学と言葉の分析を使って、それを根元から退けます。この章では、普遍は記号であること、共通本性への批判、剃刀の原則とその使い方を、順に読みます。 普遍は記号――多くを指す、心の中の概念 オッカムの普遍論は、言葉の分析から始まります。主著『論理学大全』は三部に分かれ、第 1 部は命題を作る部品である「名辞」を扱います [1] 。普遍を論じるのは、その第 1 部の前半、第 14〜17 章です [3] 。 オッカムは、言葉に三つの層があると考えます。紙に書かれた語、口で話された語、そして心で考えられた概念です。書かれた語は話された語に従い、話された語は概念に従います [1] (図 1) 。概念は名詞・動詞のような文法の区別を持ち、組み合わさって心の中の命題を作ります。この「心の言葉」を細かく組み立てて使った最初の哲学者が、オッカムだとされます [1] 。 書かれた語 cat・猫。話された語に従う (取り決め) 話された語 キャット・ねこ。概念に従う (取り決め) 心の概念 思考の言葉。取り決めによらず自然に 表示する 個物 タマ・ミケ・クロ。概念は三匹すべての 述語になる 猫であること 心の外の普遍。オッカムは立てない 図 1 言葉の三つの層と、その先の個物(本教材の整理)。書かれた語は話された語に、話された語は概念に従います。点線の段は、オッカムが立てない「心の外の普遍」です。 三つの層の違いは、表示のしかたにあります。英語では dog、フランス語では chien と言うように、話された語や書かれた語は、人々の取り決めで何かを表示します。取り決めを変えれば、表示するものも変わります。これに対して、犬の概念は取り決めによらず自然に犬を表示し、誰も好きなように変えることはできません [1] 。オッカムは、煙が火を、病人のうめきが痛みを示すことになぞらえて、この自然な表示を説明しています(『論理学大全』第 1 部 第 14 章) [2] 。 では、普遍とは何でしょうか。オッカムによれば、普遍とは、多くのものについて述語になる記号のことです [1] [2] 。猫たちの中に「猫であること」という普遍のものがあるのではありません。一匹ずつの猫と、その一匹一匹について「これは猫だ」と言える「猫」の概念があるだけです [1] 。 ここで大事なのは、普遍の概念そのものも一つの個だという点です。オッカムは太陽の例を使います。太陽は地上の多くのものを生じさせるので「普遍的な原因」と呼ばれますが、それ自体は一つの物です。同じように、概念は心の中の一つのものであり、多くのものの記号だという点でだけ普遍と呼ばれます(同 第 14 章) [2] 。オッカムは初め、概念を心が思い描く特別な対象( fictum )と考えていました。『論理学大全』の頃には、多くのものを一度に考える知性のはたらきそのものだとする説に移っています [1] 。 ここで間違えやすい 唯名論を「一般の言葉は何も指さない、ただの音だ」という説と取らないようにしましょう。オッカムにとって「猫」の概念は、実在する一匹一匹の猫をすべて表示します。否定されるのは、猫たちとは別にある「猫であること」というものだけです。また「自然的な記号」は、概念を生まれつき心に持っているという意味ではありません。取り決めによらずに表示する、という意味です。 共通本性への批判――物の中に普遍はない 普遍が心の概念だとすれば、心の外にあるものはどうでしょうか。オッカムの答えは、存在するものはすべて個物だ、というものです [1] 。 注意したいのは、その退け方です。オッカムは、普遍のものを立てる理由が足りないから剃刀で削る、とは言いません。当時の実在論は、そもそも自分と矛盾しているか、哲学者が真と認める別の主張と両立しない、と論じます [1] 。『論理学大全』第 1 部 第 15 章は、その論証を並べた章です [2] 。 最初の論証はこう進みます。どの実体も、一つの物であるか、多くの物であるかのどちらかです。一つの物なら、それは数において一つの個です。多くの物なら、多くの個物か、多くの普遍かです。多くの個物なら、一つの実体が何人もの人間だということになります。多くの普遍なら、その一つ一つに同じ問いを立て直すことになり、きりがありません [2] 。そもそも、ある個の実体を普遍と呼べるなら、ソクラテスを普遍と呼んではいけない理由もなくなります [2] 。 本教材の作例で確かめましょう。三匹の猫、タマ・ミケ・クロがいます。ある型の実在論は、三匹の中に数において一つの「猫であること」が宿っている、と考えます。オッカムに言わせれば、世界にいるのは三匹だけで、四つめの何かはいません。三匹が似ているのは、それぞれがもともとそういう猫だからです。そして心には、三匹すべてを表示する「猫」の概念が一つあります。 スコトゥス オッカム 物の中:共通本性と このもの性 物の中:個物だけ 二つは形相の上で 区別される 中間の区別を 認めない 普遍は知性が 本性から作る 普遍は心の概念 (記号)だけ 似るのは同じ本性を 持つから 似るのはそれ自体で 似るから オッカムの批判は剃刀ではなく、筋が通らないという 論証によります。 図 2 スコトゥスとオッカムの、物の中にあるものと普遍の置き場所の違い(本教材の整理)。 スコトゥスの共通本性は、この作例の実在論とは違います。スコトゥスは共通本性を、数において一つの物とは考えませんでした。本性は個物の中で「このもの性」と結びつき、二つは別の物ではないが、形相の上では区別される、とされます (図 2) 。オッカムは続く第 16 章でこの説を取り上げ、退けます [2] 。実際には一つなのに区別がある、という中間の区別を認めれば、結局は物の中に普遍を残すことになる、というのがオッカムの見方です。 ここから、個物を個物にする特別な原理も要らなくなります(本教材の整理)。どの物も、はじめから個物だからです。では、個物どうしが似ているのはなぜでしょうか。共通のものを分け持つからではありません。それぞれが、それ自体で本質的に似ているからだ、とオッカムは考えます [1] 。 ここで間違えやすい オッカムが普遍を「剃刀で」切り落とした、と取るのは誤りです。普遍については、実在論は筋が通らないという論証で退けました。剃刀を盛んに使うのは、次の節の範疇の削減です [1] 。また、スコトゥスを「普遍がそのまま物の中にあると言った人」と読むのも粗すぎます。共通本性は、それ自体では普遍でも個でもないとされていました。 剃刀――必要なしに多くを立ててはならない オッカムの名を最も広く知らせたのは、「オッカムの剃刀」と呼ばれる原則です。ふつうは「存在を必要以上に増やしてはならない」という形で引かれます。ただし、考え方は確かにオッカムのものですが、この言い回しそのものは、彼の著作には見当たりません [1] 。 中身は、方法の上の用心です。ほかの点で同じなら、多くのものの存在を立てる主張よりも、少ないもので済む主張を取れ、というのです [1] 。オッカムがいちばん詳しく述べた形では、例外の条件まで示されます。理性(自明の前提からの推論)、経験、誤りのない宗教の権威(聖書)のどれかが裏づければ、より多くを立ててかまいません。どれもなければ、そのものの存在を認めません [1] 。 オッカムがこの原則を盛んに使うのは、アリストテレスの十の範疇を減らすときです。範疇とは、実体・量・性質・関係など、存在するものの種類の一覧です。オッカムは、言葉の種類としては十あっても、心の外のものの種類は実体と性質の二つだけだと考えました [1] (表 1) 。 この表で分かること: 言葉の種類(範疇)は十あっても、心の外のものとして立てるのは実体と性質だけで、ほかの範疇の語は実体と性質を別の仕方で表示すると言い換えられます。 範疇 例の文 心の外に立てるもの 言い換え 実体 これは猫だ この猫 (そのまま) 性質 ソクラテスは白い ソクラテスとその白さ (そのまま) 量 机は 2 メートルだ 机とその部分 部分の外に部分がある 関係 ソクラテスはプラトンに似る 二人と二人の白さ 二人とも白い 表 1 範疇の削減の例。量と関係の行は SEP の整理によります [1] 。実体と性質の行は本教材が補った例です。 たとえば「机は 2 メートルだ」は真の文です。けれども、それを真にするのに、机とは別の「長さ」というものは要りません。机が、部分の外に部分があるという仕方で広がっていれば足ります [1] 。関係も同じです。『論理学大全』第 2 部 第 11 章でオッカムは、「ソクラテスはプラトンに似ている」が真であるには、ソクラテスが何かの性質を持ち、プラトンも同じ種類の性質を持てばよい、と言います。二人とも白ければ、ほかに何も加えなくても二人は似ています [1] (図 3) 。 削る前 「類似」というもの 剃刀 白さ ソクラテス プラトン 剃刀:必要なしに多くを立てない 削った後 (立てない) 二人とも白い ソクラテス プラトン それだけで似ている 図 3 「ソクラテスはプラトンに似ている」を真にするのに要るもの(本教材の絵。二人と白さは本人の例)。上の絵では、二人の頭上に「類似」というものが吊られています。下の絵では剃刀でそれが削られ、二人とその白さだけが残りますが、二人が似ているという事実はそのままです。 大切なのは、オッカムが「似ている」「長い」という文を偽だと言ったのではない点です。二つの文は真です。否定したのは、それらを真にする別の「小さなもの」が、二人やその白さに加えてあることだけです [1] 。ただし、三位一体・受肉・聖体という神学の事柄については、信仰の理由から関係のものを認めました。自然の理性だけなら、それを立てる理由はない、とします [1] 。 ここで間違えやすい 剃刀を「いちばん単純な説が必ず正しい」という真理の基準と取らないようにしましょう。剃刀は、裏づけがないうちは余分なものを認めない、という用心です。理性や経験の裏づけがあれば、多くを立てる説のほうを取ってよいのです [1] 。 原典を読む 第 1 章の一つ目と二つ目の節で見た主張を、本人の章の筋で読みます。 オッカム『論理学大全』第 1 部 第 14〜15 章 普遍は心の外のものではない 第 14 章は「普遍」という語とその反対の「個」を、第 15 章は普遍が心の外のものではないことを論じます。下の文は本教材の要約で、原文の文の順や言い回しには従っていません。 1 普遍とは、多くのものについて述語になる記号のことです。 2 それは心の中の一