プラトン――正しい人は魂の三部分が調和している(魂の三分説・正義) — Epoché
古代 ソクラテスとプラトン 約 21 分 本文 約 8,900 字 図 4・表 2 原典 1 節 この課の要点 分割・類比・正義の 3 つ 分割 『国家』第 4 巻の作中のソクラテスは、同じものが同じ点で同時に反対のことをしないという原理(436b)から、渇いていても飲むまいとする人の中には、飲めと促すものと止めるものの二つがあると論じる(439b–d)。さらにレオンティオスの話(439e–440a)と子ども・動物の怒りの例(441a–c)から気概を立て、魂を理知・気概・欲望の三つに分ける。 類比 作中のソクラテスは、正義を大きく見やすい国家で先に探し(368c–369a)、守護者・補助者・生産者の三つの階層の在り方から知恵・勇気・節制・正義を見定めたうえで、同じ形を魂の三部分に当てはめる(441c–442d)。この類比がどこまで成り立つかは、研究者の間で議論がある。 正義 作中のソクラテスは、正義とは各部分が自分のことをし、理知が治め気概がそれを助け、三つが調和した内の秩序だとする(441d–e、443c–e)。そういう魂は健康な体のようだから正しい人のほうがよく生きる、と論じ始め、第 8・9 巻で証明を重ねる。 はじめに プラトンは、古代アテナイの哲学者です。生年には幅があり、SEP は前 429 年ごろの生まれ、前 347 年の没とします [3] 。若いころにソクラテスと出会い、その死の後、ソクラテスを主な話し手とする対話篇を数多く書きました。プラトン自身は対話篇に話し手として登場しません。そのため、作中のソクラテスの説を、そのまま本人の説と読んでよいかは慎重に考える必要があります [3] 。 この課で読む『国家』は、正義とは何か、正しい人は不正な人より幸せか、を問う長い対話篇です。舞台はポレマルコスの家で、その父ケパロスもその場にいます(328b) [2] 。作中のソクラテスは、グラウコンとアデイマントスの兄弟らと語り合います。この課では主に第 2 巻・第 4 巻・第 9 巻を読み、魂を三つの部分に分ける説と、それに基づく正義の定義をたどります [1] 。 この編のソクラテスの課では、誰も悪いと知りながら進んで悪をなすことはない、という考えを見ました。『国家』の作中のソクラテスは、渇いているのに飲まない人や、自分の欲望に怒る人の例から、魂の中で部分どうしが争うことを認めます [1] 。そのうえで、正義を、外に見える行いより先に、魂の中の秩序として定めます。この転回が、この課の中心です。 この課の問い 誰にも見られず、どんな不正をしても罰を受けないとしたら、それでも正しくあることを選ぶ理由はあるでしょうか。正義が、人から褒められるためでなく、その人自身にとって良いものだと言えるなら、それは人の中の何がどうなっていることなのでしょうか。 この課のことば 魂(プシュケー) ギリシア語で「いのち・こころ」。考える・怒る・欲しがるといった働きの持ち主です。『国家』はこれを三つの部分からなるものとして描きます。 理知的部分(ロギスティコン) 「推し量る」部分。何が魂全体にとって良いかを見積もり、知恵を愛します。 気概(テューモス) 怒り・負けん気・恥を知る心の部分。名誉や立派さに向かいます。訳書によっては「激情」などと訳されます。 欲望的部分(エピテューメーティコン) 飲み食いや性愛など、体の欲求の部分。それを満たす金銭も好むので、「利得を愛する部分」とも呼ばれます。 対立の原理 同じものが、同じ点で、同じものに対して、同時に反対のことをしたりされたりはしない、という原則(436b)。魂を分ける議論の土台です。 自分のことをする 各人・各部分が、生まれつき向いた自分の仕事をし、他の仕事に手を出さないこと。作中のソクラテスは、これを正義とします。 魂の三分説と正義――正しい人の中では何が起きているのか 前の課では、『国家』第 7 巻の洞窟の比喩から、教育とは魂全体の向きを変えることだという考えを見ました。では、向きを変えられる「魂」とは、どんな作りをしているのでしょうか。話は第 2 巻にさかのぼります。 グラウコンは、石座を手の内側へ回すと姿が消える指輪の話を持ち出します(359b–360d) [2] 。見られず罰されないなら、正しい人も不正な人と同じことをするだろう、というのです。ただしグラウコンは、自分はこの説を信じていないと断り、世の多くの人の考えを力いっぱい代弁して、ソクラテスに正義の擁護を求めます(358b–362c) [1] [2] 。作中のソクラテスはこれに答えるため、国家と魂を並べて、正義の在りかを探します。 渇いていても飲まない人――なぜ魂を三つに分けるのか 出発点は「対立の原理」です。作中のソクラテスは、同じものが、同じ点で、同じものに対して、同時に反対のことをしたりされたりはしない、という原則を立てます(436b) [1] [2] 。立ったまま手を動かす人や、軸を止めたまま回るこまは、一見この原則に反します。しかし、止まっているのは体や軸で、動いているのは手や円周です。反対のことは別の部分で起きている、と作中のソクラテスは片づけます(436c–e) [2] 。 次に渇きを見ます。渇きそのものは、ただ飲み物に向かう欲求で、良い飲み物を選ぶ判断までは含みません(437d–439a) [2] 。それでも、渇いているのに飲もうとしない人が「大勢、しばしば」いることを、グラウコンも認めます(439c)。弓を引く人は、片手で弓を押し、もう一方の手で引き寄せます。同じ手が同時に押して引くのではありません。それと同じく、飲めと促すものと、それを止めるものは魂の中の別のものだ、と論じられます(439b–d) [2] (図 1) 。 渇いていても飲まない 止める(理知) 促す(欲望) 促すものと止めるものは別 (『国家』439b–d) 見たい、でも見たくない さあ見ろ、不幸な奴らめ 城壁 死体 怒り(気概) 見たい(欲望) 怒りが欲望と戦う(439e–440a) 図 1 『国家』第 4 巻 439b–440a の二つの場面を描いた本教材の図解です(人の姿や場の細部は補ったものです)。上の絵では、渇いた人の中で、飲めと促す欲望と止める理知が逆向きに引き合います。下の絵では、レオンティオスの中で、怒り(気概)が死体を見たい欲望と戦います。気概と理知の区別は、この後の 441a–c で示されます。 止めるものは推し量ること(ロギスモス)から生まれ、引くものは受動や病を通して来ます。そこで前者を理知的部分、後者を欲望的部分と名づけます(439d) [2] 。SEP は、手術を控えて飲食を止められている人を思い浮かべてもよい、と例を添えます [1] 。怒りは欲望の仲間かもしれない、とグラウコンが応じると(439e)、作中のソクラテスはアグライオンの子レオンティオスの話を出します。処刑役人のそばの死体を見たい欲望としばらく戦い、ついに負けて駆け寄り、「さあ見ろ、不幸な奴らめ」と自分の目を叱ったという話です(439e–440a) [2] 。怒りはときに欲望と、別のものとして戦う、というのです。 ただし、この話だけでは、怒りが理知と別のものだとまでは言えません。作中のソクラテスは、欲望が理知に逆らうとき気概は理知の味方になると述べます(440a–b)。さらに、分別のない子どもや動物にも怒りがあること、胸を打って自分の心を叱るオデュッセウスを描いたホメロスの一節を挙げて、気概と理知を分けます(441a–c) [2] 。こうして魂は三つの部分からなるとされます。SEP によれば、部分を概念の上だけの区分と見る読みと、それぞれが考え欲する主体のように見る読みとがあり、ちょうど三つと言えるかにも疑問が出されています [1] 。 ここで間違えやすい 三つの部分を、今日の「理性・感情・欲望」の分類と同じものと取らないでください。SEP によれば、作中のソクラテスは各部分に、考えも感情も欲求も認めています [1] 。理知も知恵を愛し、欲望も何が満たすかを見積もります。また、気概がいつでも正しい側に立つわけでもありません。悪い育ちで損なわれることがあると留保されています(441a) [2] 。第 10 巻では、体を離れた魂は単純なものかもしれない、とも述べられます(611a–612a) [2] 。三分説は、体とともに生きる魂についての説です。 国家と魂の類比――三つの階層と三つの部分、四つの徳 なぜ国家から始めるのでしょうか。作中のソクラテスは、小さな文字を読むより、同じ文字が大きく書かれた所を先に読むほうが易しい、とたとえます。正義も、個人より大きな国家の中のほうが見やすいだろう、というのです(368c–369a) [2] 。SEP は、正しい国家が栄えることは相手も認めやすいので、まず国家で正義と繁栄のつながりを示し、それを人の場合の手本にする作戦だと読みます [1] 。 国家を作り始める所で、作中のソクラテスは、人には生まれつき向き不向きがあり、一人が一つの仕事をするほうが、よりよく、より多く作れると論じます(369e–370c) [2] 。言葉の上で作られた国家には、全体のために考え治める守護者、それを助けて国を守る補助者、農夫や職人などの生産者の三つの階層があります。知恵は守護者に、勇気は補助者にあり、節制は、誰が治めるべきかについて全体が一致していることです(427e–432a) [2] 。そして正義は、各階層が自分のことをし、他の仕事に手を出さないことだとされます(433a–b) [1] [2] 。 国家 魂 守護者:知恵 理知的部分:知恵 補助者:勇気 気概:勇気 生産者 欲望的部分 節制は全体の一致、正義は各々が自分のことをすること (国家 433a–b/魂 441d–e)。 図 2 国家の三つの階層と魂の三つの部分の対応です(本教材の整理)。同じ段の箱どうしが対応します。節制と正義は、どの一つの箱にも属さない全体の在り方です。 同じ形が魂にも当てはめられます (図 2) 。知恵は、理知が各部分と全体にとって何が有益かを知っていること。勇気は、気概が快楽や苦痛の中でも、恐れるべきものについて理知の告げることを保つこと。節制は、三つの部分が理知の支配に同意していること。正義は、三つがそれぞれ自分のことをすることです(441c–442d) [2] 。四つの徳の対応を表にまとめます (表 1) 。 この表で分かること: 国家の三つの階層と魂の三つの部分は、同じ形で四つの徳に対応づけられます。節制と正義は、一つの階層や部分ではなく全体の在り方です。 国家の階層/魂の部分 国家での役 魂での働き その徳 何を愛するか(第 9 巻) 守護者/理知的部分 全体のために考え治める 全体の益を知り導く 知恵 学びと知恵 補助者/気概 守護者を助け国を守る 理知の味方として怒る 勇気 勝利と名誉 生産者/欲望的部分 食べ物や道具を作る 体の欲求を満たす (節制に加わる) 利得と金銭 全体(節制) 誰が治めるかで一致 理知の支配に同意 節制 ―― 全体(正義) 各々が自分のことをする 各部分が自分の役を守る 正義 ―― 表 1 国家の側は 427e–434c、魂の側は 441c–442d、愛するものは 581a–c によります [2] 。 作中のソクラテスは、魂の正義を定めた後で、「靴職人は靴を作り、ほかの仕事はしない」という最初の取り決めを、正義の影のようなもの(エイドーロン)だったと振り返ります(443c) [2] 。外から見える分業は手がかりにすぎず、本当の正義は内側にある、という言い換えです。ただし SEP は、類比の根拠の述べ方が箇所によって揺れると指摘します。同じ語には同じ説明が当てはまるからだと言う所(434d–435a)、全体の性質は部分から来ると言う所(435d–436a)などです [1] 。類比がどこまで成り立つかは、ウィリアムズの論文などで論じられてきた問題です [1] [5] 。 ここで間違えやすい 節制を、欲望の部分や生産者だけの徳と取らないでください。節制は、知恵や勇気のように一つの階層にあるのではなく、全体に行き渡って、治める側と治められる側の一致を作るものです(431e–432a) [2] 。また、魂についての説と、人を生まれつきの向きに応じた役に就かせる国家の制度とを、同じ一つの主張と取らないことも大切です。理想の国家の制度は、この編の次の課で扱います。 正義は内の秩序――なぜ正しい人のほうが幸せなのか 問いの出発点は第 2 巻にあります。グラウコンは善を、それ自体のために愛されるもの、それ自体のためにも結果のためにも愛されるもの、結果のためだけに愛されるものに分けます。作中のソクラテスは正義を、その両方のために愛される類に入れます(357b–358a) [1] [2] 。そこでグラウコンは、評判や報いを取り去っても、正しくあることそれ自体が当人に良いと示してほしい、と求めました(358b–362c) [2] 。 作中のソクラテスの答えは、正義を、人から見える行いでなく、魂の中の状態として定めることでした。正しい人は、各部分に互いの仕事をさせず、自分で自分を整え、音階の高い音・低い音・中の音を合わせるように三つを調和させて、多から一になります(443c–e) [2] 。そのうえで、財産を作るときも体の世話をするときも、この調和を保ち育てる行いを正しい行い、壊す行いを不正な行いと呼びます(443d–444a) [2] 。不正とは、部分どうしの内乱です。 では、なぜその状態が当人に良いのでしょうか。第 4 巻では、健康な体と病んだ体の類比で見通しが示されます。正義と不正は魂の健康と病気にあたり、魂が乱れたまま生きるのは、体が病んだまま生きるよりもさらに生きるに値しない、とグラウコンも認めます(444c–445b) [2] 。第 8・9 巻では証明が三つ重ねられます(543c–580c、とくに 576b–580c/580c–583a/583b–588a) [1] [2] 。一つ目では、無法な欲望に支配された僭主のような人が、隷属と混乱、後悔と恐れに満ちた姿で描かれます(577c–578a) [2] 。SEP は、正しい人は自分の望むことができ、後悔や恐れから離れている点で幸福に近い