8.152 道徳感情論 — 相手の前提を、丸ごと認める — Epoché
この篇でできるようになること ★ 譲歩から入る 書き出しが読める。 ★ 日常の観察を積む 論の進め方が分かる。 ★ 想像をはたらきとして説明する 書き方が読める。 ★ 一人称複数 の使い方が分かる。 前提 : 8.151 まで。型は 3.48 まで。 読む前に ★ アダム・スミスといえば 『国富論』 です。 ★ 「見えざる手」の人 として知られています。 ★ その同じ人が、 十七年前に書いた本 の第一章がこれ です。★ そして、 「人は他人の幸せを必要としている」 から始まります。 ★ 食い違って見えるかもしれません。 ★ けれども、 同じ人が両方書いた のは事実 です。★ 12.18 知編 で 経済学の生まれ を扱います。 ★ 読むときの手がかりを置きます。 ★ この篇は we で書かれて います ——★ 一人称複数が 51 回 。 ★ I ではありません。 ★ 「私はこう思う」ではなく 「我々はこうする」 と書いています。 ★ 読む人を、 最初から仲間に入れて いるのです。 原文 原文は別の文書にあります(作品ページの「原文」)。本文は 1368 語、文は 40 本、一文の平均は 34.2 語、いちばん長い一文は 58 語です。 ★ 想像に関わる語が 16 回 出ます。★ この篇の要の語 です。 全訳 原文の全訳です。この課程のために、原文に沿って訳しました。番号は原文の段落の番号で、原文と行き来できます。 人がどれほど利己的だと考えられようとも、その本性には明らかにいくつかの原理があって、それが人に他人の運を気にかけさせ、他人の幸せを自分にとって必要なものにします。そこから何も得ず、ただそれを見る喜びを得るだけであってもです。この種のものに、哀れみ、あるいは同情があります。他人の不幸を目にしたとき、あるいはとても生き生きと思い描かされたときに、私たちがその不幸に対して感じる情です。私たちが他人の悲しみからしばしば悲しみを受け取ることは、証明するのに例を挙げる必要もないほど明らかな事実です。というのも、この感情は、人の本性のほかのすべての根もとの情と同じく、徳のある人や思いやりのある人だけに限られたものでは決してないからです。もっとも、そうした人たちは、それを最も細やかな感じやすさで感じるのかもしれませんが。最も凶暴なならず者、社会の法を最も平気で破る者でさえ、それをまったく持たないわけではありません。 私たちは、他人が何を感じているかを直に経験することがないので、その人がどのように心を動かされているかを思い描くには、同じような立場にいたら自分なら何を感じるだろうかと考えるほかありません。兄弟が拷問台にかけられていても、私たち自身が安楽にしているかぎり、私たちの感覚は、彼が何に苦しんでいるかを決して知らせてはくれません。感覚は、私たちを自分の身の外へ連れ出したことは一度も無く、連れ出すこともできません。彼の感覚がどのようなものかを少しでも思い描けるのは、想像によってだけです。しかもその能力にしても、もし私たちが彼の立場にいたら自分の感覚がどうなるかを思い浮かべさせる、という以外のやり方では助けになりません。私たちの想像が写すのは、自分の感覚の印象だけであって、彼の感覚の印象ではないのです。想像によって私たちは自分を彼の立場に置き、自分が同じ責め苦をすべて耐えているところを思い描き、いわば彼の体の中に入り込み、ある程度まで彼になります。そしてそこから彼の感覚についていくらかの考えを持ち、さらには、程度は弱いけれども、それとまったく似ていないわけではない何かを感じさえするのです。彼の苦しみは、このように私たち自身の身に引き寄せられ、私たちがこのようにそれを引き受けて自分のものにしたとき、ようやく私たちの心を動かし始めます。そして私たちは、彼が感じていることを思って震え、身ぶるいするのです。というのも、どんな種類であれ痛みや苦境の中にいることが、この上なく激しい悲しみをかき立てるように、自分がその中にいると思い描いたり想像したりすることも、その思い描き方が生き生きしているか鈍いかに応じて、同じ情をいくらかかき立てるからです。 これが、他人の不幸に対する私たちの共感の源であること、つまり、苦しむ人と想像の中で立場を入れ替えることによってこそ、私たちはその人の感じていることを思い描いたり、それに心を動かされたりするようになること、このことは、それだけで十分に明らかだと思われないなら、多くの分かりやすい観察によって示すことができます。ほかの人の脚や腕に、一撃が狙いを定められて今にも振り下ろされようとしているのを見ると、私たちは思わず身をすくめ、自分の脚や腕を引っ込めます。そして一撃が実際に下ると、私たちもそれをある程度感じ、打たれた人と同じように痛みを受けます。群衆は、ゆるい綱の上の綱渡り芸人を見つめているとき、思わず体をよじり、ひねり、釣り合いを取ります。芸人がそうするのを見て、自分がその立場ならそうしなければならないと感じるとおりにです。繊細な神経と弱い体質の人びとは、通りで物ごいがさらしているただれや腫れものを見ていると、自分の体の対応する場所に、かゆみや落ち着かない感じを覚えがちだと訴えます。そのみじめな人たちの不幸を見て彼らが抱く恐ろしさは、自分の体のほかのどこよりも、その特定の場所に作用します。というのも、その恐ろしさは、もし自分が本当に目の前のみじめな人たちであり、自分のその場所が実際に同じようなみじめなありさまで冒されていたら、自分は何を苦しむだろうかと思い描くところから生じるからです。この思い描きの力そのものが、彼らのか弱い体においては、訴えられているようなかゆみや落ち着かない感じを生むのに十分なのです。最もたくましい体つきの人でさえ、ただれた目を見ていると、自分の目にもはっきり感じられるほどの痛みをしばしば覚えると言います。これも同じ理由から来るものです。目という器官は、最も強い人においても、最も弱い人の体のほかのどの部分よりも繊細だからです。 また、私たちの共感を呼び起こすのは、痛みや悲しみを生むような事情だけではありません。主に関わっている人の中に、何かの対象から生じる情がどのようなものであれ、注意深く見ているどの見物人の胸にも、その人の立場を思うことで、似たしくみの情がわき上がります。私たちの心を引きつける悲劇や物語の主人公たちが救われたときの私たちの喜びは、彼らの苦境に対する私たちの嘆きと同じくらい本物です。そして彼らの不幸への共感は、彼らの幸福への共感より本物だというわけではありません。私たちは、困難のときに彼らを見捨てなかった忠実な友人たちに対する彼らの感謝の中に入り込みます。そして、彼らを傷つけ、見捨て、あるいは欺いた不実な裏切り者たちに対する彼らの憤りに、心からついていきます。人の心が感じ取れるあらゆる情において、そばで見ている人の情は、事を自分の身に引き寄せることで、苦しむ人の気持ちはこうであるはずだと想像するものに、つねに対応しているのです。 哀れみと同情は、他人の悲しみへの私たちの共感を表すのにあてられた言葉です。シンパシー(共感)は、もとの意味はおそらく同じだったのでしょうが、いまでは、それほど不適切にならずに、どんな情であれ、それへの私たちの共感を表すのに使うことができます。 場合によっては、共感は、ほかの人の中のある情を目にしただけで生じるように見えることがあります。情は、場合によっては、主に関わっている人の中でそれを引き起こしたものを知るより先に、一瞬のうちに、ある人から別の人へと注ぎ移されるように見えることがあります。たとえば、誰かの顔つきや身ぶりに強く表れた悲しみや喜びは、たちまち見ている人を、それに似た、つらい、あるいは快い情でいくらか動かします。笑っている顔は、それを見る誰にとっても陽気なものです。反対に、悲しげな顔つきは、憂うつなものです。 しかし、このことはどこにでも当てはまるわけではなく、どの情についても当てはまるわけではありません。情の中には、その表れがどんな共感もかき立てず、何がそれを引き起こしたのかを知るまでは、むしろ私たちを不快にし、その情に対して反発させるものがあります。怒っている人の荒れ狂うふるまいは、私たちをその人の敵に対してよりも、その人自身に対していらだたせることのほうが多いものです。私たちはその人が何に腹を立てたのかを知らないので、その人の事情を自分の身に引き寄せることも、それがかき立てる情に似たものを思い描くこともできません。しかし、その人が怒りを向けている相手の立場がどんなものか、そしてそれほど激怒した相手からどんな暴力にさらされるかもしれないかは、はっきりと見えます。ですから私たちは、その人たちの恐れや憤りにはすぐに共感し、彼らをそれほどの危険にさらしているように見える人に対して、ただちに反対の側に立ちたくなるのです。 悲しみや喜びの外に見える様子そのものが、私たちにいくらか似た情を吹き込むのだとすれば、それは、それらの様子が、私たちがそれを見ている人に何かよい運か悪い運がふりかかったという、おおまかな考えを思い起こさせるからです。そしてこうした情においては、それだけで私たちにいくらかの影響を及ぼすのに十分なのです。悲しみや喜びの作用は、その情を感じている当人のところで終わります。その表れは、憤りの表れとは違い、私たちが気にかけていて、その人と利害が対立する別の誰かの考えを思い起こさせることがありません。それゆえ、よい運や悪い運というおおまかな考えは、それに出会った人に対していくらかの気づかいを生みますが、腹を立てさせられたというおおまかな考えは、腹を立てさせられた人の怒りに対して何の共感もかき立てません。どうやら自然は、この情に入り込むことにはより気が進まないように、そしてその原因を知らされるまでは、むしろそれに反対の側に立つように、私たちに教えているようです。 語釈 帯の外の語は 91 語です。★ compassion (哀れみ)・ sensibility (感じやすさ)・ vivacity (生き生きしていること)が要 です。★ 体に関わる語も多い ( rack ・ sores ・ ulcers )——★ この篇が 体の反応 を証拠にしているから です。 語(品詞) 意味 注 acquainted en 形 〜を知っている( be acquainted with ) The two merchants became acquainted after years of trading at the same market. その二人の商人は、同じ市場で何年も取引したのち、知り合いになりました。 adversary en 名 相手 The old wrestler faced a formidable adversary in the final match. その老いたレスラーは、最終試合で手強い相手と対戦しました。 agonies en 名 苦しみ(複数) The wounded soldier endured his agonies without a single complaint. その負傷兵は、一言の不平も言わずに自分の苦しみに耐えました。 agreeable en 形 感じのよい The old inn's quiet garden proved most agreeable to weary travelers. その古い宿の静かな庭は、疲れた旅人たちにとって最も感じのよいものでした。 analogous en 形 似たしくみの The old machine's gears worked in a way analogous to a windmill. その古い機械の歯車は、風車に似たしくみで動いていました。 antecedent en 形 先立って( antecedent to ) In the old sentence, the pronoun's antecedent was easy to find. その古い文では、代名詞の先行詞は見つけやすいものでした。 apt en 形 〜しがちな The nervous colt was apt to bolt at any sudden noise. その神経質な子馬は、どんな突然の物音にも逃げ出しがちでした。 attentive en 形 よく気を配る The attentive nurse noticed the smallest change in her patient's breathing. そのよく気を配る看護師は、患者の呼吸のごくわずかな変化にも気づきました。 averse en 形 気が進まない The old sailor was averse to sailing on a Friday. その老いた船乗りは、金曜日に出航することに気が進みませんでした。 befallen en 動 身に起きた No one knew what misfortune had befallen the missing fishing boat. 行方不明の漁船にどんな不運が身に起きたのか、誰も知りませんでした。 beggars en 名 物ごいをする人びと The kind baker often gave bread to the beggars near the market gate. その親切なパン屋は、市場の門の近くの物ごいをする人びとによくパンを与えました。 chearful en 形 快活な。 cheerful の古い綴り compassion en 名 思いやり She treated every wounded soldier with the same quiet compassion. 彼女はすべての負傷兵を同じ静かな思いやりで扱いました。 correspondent en 形 対応する The old clerk kept a correspondent set of records for every shipment. その老いた書記官は、あらゆる積荷に対応する記録の組を保管していました。 countenance en 名 顔つき His calm countenance gave n