主権国家体系――中心のない国際社会 — Epoché
国際と日本 国際政治 約 29 分 本文 約 12,900 字 図 4・表 2 資料 1 節 この課の要点 主権・無政府・日本の 3 つ 主権 領域の中の最高の権威。対内と対外の二つの面があり、近代のヨーロッパから世界に広がった 無政府 国々の上に上位の権威が無い状態。自助と力を見る見方と、規範と国際社会を見る見方がある 日本 1952 年の平和条約の発効で独立を回復し、1956 年に国連に加盟した はじめに 国の中では、約束を破られたら裁判所に訴え、暴力を振るわれたら警察を呼ぶことができます。けれども、隣の国の工場の煙が国境を越えて流れてきても、こちらの国の役所が隣の国の工場に立ち入って取り締まることはできません(条約などの取り決めが無い場合の、本教材の作例)。では、国と国の間で約束が破られたら、誰に訴えればよいのでしょうか。国際関係の基本の条件は、国々の上に、より上位の権威が無いことだとされます。この状態を無政府状態(アナーキー)と呼びます [1] 。 この課は、その「中心のない」世界の成り立ちを、主権という考え方から読み解きます。SEP(スタンフォード哲学百科事典)の項目によれば、主権のもっとも一般的な定義は「領域の中の最高の権威」です [1] 。国々は、それぞれの領域では最高の権威を名乗りながら、互いの上には誰も置いていません。そうした主権国家の集まりが国際体系をつくり、国々はその中で同盟し、交易し、戦争をし、講和します [1] 。 無政府状態と聞くと、混乱と暴力の世界を思い浮かべるかもしれません。けれども、この語が指すのは「上に立つ権威が無い」という仕組みで、「混乱している」という様子ではありません(本教材の整理)。SEP の項目も、ホッブズを読み解きながら、主権国家は条約を結んで関係の法的な土台を作れると述べています。ただし同じ所で、国際の規則はしばしば力の争いを抑えられないことにもホッブズは気づいていたようだ、と付け加えています [2] 。国際連合(国連)の加盟国は、2011 年に 193 になりました [3] 。 日本にとっても、主権は遠い話ではありません。日本国との平和条約は 1952 年 4 月 28 日に発効し、連合国軍による占領が終わって、日本の独立が回復しました [4] 。この課の最後の節では、この出来事を「主権の承認」という目で読み直します。 この課で考える問いは三つです。一つ目は、主権とはそもそも何かという問いです。二つ目は、主権を持つ国家の集まりがいつ、どのようにできたのかという問いです。三つ目は、国々の上に誰もいないとき、国々の関係を何が支え、どこまで秩序がありうるのかという問いです。どれにも一つの決まった答えがあるわけではないので、学者の間で見方が分かれる所は、見方を並べて示します。 この課は国際政治の部の入口です。ここで押さえる主権と無政府状態は、後の『リアリズム』『リベラリズム』『コンストラクティヴィズム』の課で、それぞれ違う読み方をされます。まずは、どの理論にも共通する土台のことばを、典拠に即して確かめていきましょう。 この課の問い 国の上に立つ政府が無い世界で、国々の関係はどのように成り立ち、どこまで秩序を保てるのでしょうか。 この課のことば 主権 領域の中の最高の権威。その土地で、ほかのどの権威よりも上に立つ「最終の決める権利」のこと 領域性 どこに住んでいるかで、どの権威に従うかが決まるという原理。民族や宗教の帰属とは一致しないことがある 対外主権 外の国にその統治へ干渉させない地位。国内での最高の権威(対内主権)と同じ主権の二つの面 無政府状態(アナーキー) 国々の上に、より上位の権威が無いこと。混乱や無秩序という意味ではない 承認 ほかの国が、ある国を国家として、またその主権を認めること 内政不干渉 ほかの国の国内の事柄に干渉しないという決まり。国連憲章では、国連が国の国内管轄の事項に干渉する権限を持たないと定める(第 2 条 7 項)。何が禁じられる「干渉」に当たるかは、条文の言葉だけでは決まらない 主権国家体系――国々の上に政府が無い世界はどう動くか この章では、主権の中身(第 1 節)、主権国家体系の成り立ち(第 2 節)、「中心が無い」ことの意味(第 3 節)、主権の承認と制約(第 4 節)を順に見ます。 主権とは何か――領域の中の最高の権威 SEP の「主権」の項目で、フィルポットは主権の一般の定義を「領域の中の最高の権威」とまとめ、後の定義の多くはその変種だとしています [1] 。もっとも、一部の学者は、安定した本質的な主権の概念があるのかを疑っています [1] 。ここでは、この定義の三つの部品である「権威」「最高」「領域」を順に見ていきます。 一つ目は権威です。主権の持ち主は、強制する力、つまり相手に、そうでなければしないことをさせる力を振るうだけではありません [1] 。哲学者ウルフの言い方では、権威とは「命令する権利と、それに対応して従われる権利」で、要は「権利」、すなわち正統性です [1] 。主権の持ち主は、互いに認め合われた正統性の源、たとえば自然法・神の委任・世襲の法・憲法、さらには国際法から権威を得ます [1] 。現代では、どこでも何らかの法の体系がその源になっているとされます [1] 。銃で脅して金を出させる強盗は、相手を従わせる力を持ちますが、従われる権利は持ちません(本教材の作例)。これが力と権威の違いです。 二つ目は最高性です。主権の持ち主は、その管轄の下にあるすべての権威より上にあります [1] 。フィルポットは、米国の憲法がペンシルベニア州の政府より上にあるのは、この最高性のためだと例を挙げています [1] 。中世には、封建の法や教会法などの法的な根拠を持つ権威がたくさんありましたが、その根拠が最高性を与えることはごくまれでした [1] 。初期近代の国家が持ち、中世の教皇・皇帝・王・司教、多くの貴族や封臣が欠いていたのが、この「領域の中の最高の権威」です [1] 。日本国憲法も第 98 条で、憲法を国の最高法規とし、それに反する法律などは効力を持たないと定めています [5] 。 三つ目は領域性です。領域性とは共同体の構成員を定める原理で、構成員であることは、境界の中に住んでいることから生じます [1] 。これは民族や宗教のような帰属意識と一致するとは限りません。主権国家の境界は一つの「人民」や「民族」を囲むとは限らず、いくつもの帰属意識を含むことがあり、民族自決や失地回復の運動がそれを示しています [1] 。領域性ともっとも対照的なのは、権威の仕組みが特定の土地とまったく結びつかない、移動する部族です [1] 。 対内主権 対外主権 向き:境界の中 向き:境界の外の者 中身:管轄の下の すべての権威より上 中身:外の者は 統治に干渉できない 支え:法の体系 (現代) 支え:外の者による 承認 例:米国の憲法が 州の政府より上 例:平和条約での 日本の主権の承認 図 1 対内主権と対外主権(SEP「主権」の整理を本教材が図にした)。二つは一つの主権の二つの面です。左右の行は同じ項目の順です。 主権には「対内」と「対外」の二つの面があります。ただし、これは別々の二種類の主権ではなく、同時にいつもある一つの主権の二つの面です [1] 。主権の権威は境界の中で行使されますが、外の者に対しても行使され、外の者は主権者の統治に干渉してはならない、とされます [1] (図 1) 。国際法で主権と言うときは、たいてい対外主権を指します [1] 。 フランスのボダンは、国が内戦で裂かれていた 1576 年に『国家論』を書き、主権の概念を広く論じた最初のヨーロッパの哲学者とされます [1] 。ボダンとイングランドのホッブズは、ともに主権者を法の上に置きました。ただしボダンは、主権を行使する者も自然法と神の法には縛られるが、どんな人の法もそれを裁くことはできないと考えました [1] 。今日では、立憲の政治のもとで、法の体系を通じて統治する人民を主権者とする型が、世界でもっとも広く正統と認められています [1] 。 主権は最高でなければならないのに、「絶対的でない主権」はありうるのでしょうか。フィルポットによれば、主権が絶対的かどうかは、最高性の程度ではなく、主権の及ぶ事柄の範囲の問題です [1] 。たとえば EU の多くの加盟国は、防衛では主権を持つ一方、通貨・通商政策・多くの社会福祉の政策は、EU 法に定めるとおり EU の機関と協力して運営しています [1] 。これに対し、ジェイムズのように、主権は有るか無いかのどちらかで、部分的には存在しえないと論じる学者もいます [1] 。 ここで間違えやすい 「主権=強い力」と考えるのは誤りです。主権の要は、相手を従わせる力ではなく、従われる権利としての権威です [1] 。1933 年のモンテビデオ条約も、国家は法的に平等で、各国の権利はそれを確保する力によるのではなく、国際法上の人格として存在するという事実だけによる、と定めています [6] 。 ウェストファリアから世界へ――主権国家体系の成り立ち 主権国家は、いつ、どのようにして生まれたのでしょうか。歴史家ストレイヤーによれば、英国とフランスは 1300 年ごろまでに主権国家によく似たものになり、王が境界の中で最高性を持っていました [1] 。神聖ローマ皇帝カール 5 世も、帝国の中では主権者でなく、諸侯や貴族は皇帝の手の及ばない権能を保っていました [1] 。 転機は宗教をめぐる争いでした。1555 年のアウクスブルクの和議は、「領主の宗教がその地の宗教」という定式で、ドイツの諸侯が自分の領域で自分の信仰を強いることを認めました [1] 。しかしこの取り決めは不安定で、争いが戦争を繰り返させ、三十年戦争に至りました [1] 。戦争は 1648 年のウェストファリアの講和まで終わりませんでした [1] 。 フィルポットは、ウェストファリアで二つの点が変わったとみます。一つ目に、国家がヨーロッパで事実上ただ一つの実質的な国制上の権威の形になりました。オランダとスイスは争われない主権を得て、帝国のドイツの諸国は帝国の外と同盟する権利を得ました [1] 。教会の世俗の権能も国家の主権に挑めないところまで削られ、教皇インノケンティウス 10 世は講和の条約を「無効で、不正で、永久に意味も効力もない」などと激しく非難しました [1] 。二つ目に、宗教をめぐる介入が、まったく無くなったわけではないものの、きわめてまれになりました。体系が広がるにつれて介入の禁止も一般化し、国際体系の基礎の規範になったとされます [1] 。1648 年以後、国家が対外主権の主な担い手となり、他国の統治への干渉は正統でないものとなった、というのがこの見方です [1] 。 ただし、この「ウェストファリア起点」の物語には異論があります。まず、講和の条約のどこにも、主権国家体系や、国家を正統な単位とすることは定められていません [1] 。フィルポット自身も、ウェストファリアは体系を無から作ったのではなく、要素は数世紀かけて積み重なり、講和の後にも中世的な例外がいくつか残ったと認めています [1] 。さらにクラズナーやオジアンダーらは、ウェストファリアの神話は解体して捨てるべきだと論じます。彼らは一般に、国家の重要な要素はずっと前からあり、上からの主権の制約もずっと後まで残ったと強調します [1] 。フィルポットは 2001 年の著作で通説を擁護していますが、どう見られ続けるかは学者の長い目での合意が決める、と述べるにとどめています [1] 。 起点がどこであれ、主権国家体系の基本の形は、その後の 3 世紀で世界に広がりました。フィルポットによれば、広がりは 20 世紀半ばのヨーロッパの植民地帝国の衰退で頂点に達し、このとき国家は、地球の陸地のすべてを覆った初めての政体の形になりました [1] 。 加盟国の数(か国) 0 50 100 150 200 1945 1955 1965 1975 1985 1995 2005 193 日本の加盟 出典:国際連合「Growth in United Nations membershi p」(国連の加盟国の推移) 定義:国際連合の加盟国の数(国連の頁が年ごとに示す加 盟国の総数)(単位 か国)/対象 国際連合の加盟国(原 加盟国と、その後に加盟を認められた国)/時点 1945〜2 011 年の各年(2011 年の南スーダンの加盟まで)/除外 加盟国でない国・地域は数えない。数の変わらない年は前 の年の数を置いた 図 2 国際連合の加盟国の数(1945〜2011 年)。国際連合「Growth in United Nations membership」による。頁は数の変わった年だけを載せるので、載っていない年は前の年の数を置いています。 その広がりは、国連の加盟国の数にも表れています (図 2) 。加盟国は、1945 年の原加盟国 51 から、2011 年に南スーダンが加わって 193 になりました [3] 。1960 年には 1 年で 17 か国が加わり、加盟国は 99 になっています [3] 。1992 年にもアルメニア・カザフスタン・スロベニアなど 13 か国が加わり、179 になりました [3] 。加盟国が 1950 年代後半から 60 年代に大きく増えた時期は、植民地帝国の衰退の時期と重なって見えます。ただし、このグラフが示すのは国の数の動きだけで、加わった国がもとは植民地だったかどうかは示していません(本教材の読み)。 今日、主権の規範は国連憲章に書き込まれています。フィルポットは、第 2 条 4 項が「政治的独立と領土保全」への攻撃を禁じ、第 2 条 7 項が介入を厳しく制限していることを挙げます [1] 。条文は「資料で確かめる」の章で読みます。 ここで間違えやすい 「1648 年に主権国家体系ができた」と年号だけで覚えるのは危険です。講和の条約には主権国家体系を定める文言が無く [1] 、要素は前から積み重なり、後にも一部の例外が残りました [1] 。ウェストファリアは、長い移り変わりの中の一つの節目として、しかもその位置づけに異論のある節目として理解しておきましょう [1] 。 中心のない社会―