ベルクソン――生きられた時間は測れない持続である(持続・生の飛躍) — Epoché
近代 生の哲学と実存思想 約 18 分 本文 約 7,400 字 図 4・表 2 原典 1 節 この課の要点 数と質・持続・飛躍の 3 つ 数と質 数えるとは、違いを無視して同じ単位とみなし、空間に並べることである。羊の群れは数えられるが、意識の状態は並ばずに溶け合う、数えられない質的多様性である(『試論』第 2 章)。 持続 意識が前の状態を抱えたまま今と溶け合わせる、メロディーの音のような流れが、持続(生きられた時間)である。時計の針を見るとき、私たちは持続を測っているのではなく、同時に起こることを数えているにすぎない(『試論』第 2 章)。 飛躍 生命の進化は、目標に向かう計画でも、部品の組み合わせでもない。初めの一つの勢いが、砲弾が破片に割れるように、植物と動物、本能と知性へと分かれながら新しい形を作り続ける(『創造的進化』第 2 章)。 はじめに アンリ・ベルクソンは、1859 年にパリで生まれたフランスの哲学者です。少年時代は数学に秀でていましたが、高等師範学校では文科に進みました。高校で教えながら書いた学位論文が、1889 年の『意識に直接与えられたものについての試論』(以下『試論』)です。英語では『時間と自由』の題で知られ、サルトルが自分を哲学に引き寄せた本だと語ったものでもあります [1] 。 1900 年からはコレージュ・ド・フランスで教え、1907 年の『創造的進化』で広く名を知られました。1927 年度のノーベル文学賞を受けたのは 1928 年のことです [1] 。 この編では、ショーペンハウアーが世界の底に盲目の意志を見、ニーチェが生をもとに価値を問い直すのを読んできました。ベルクソンもまた、頭で組み立てた世界像の下にある、生きたものそのものへ戻ろうとします。ただ、その入口は「時間」です。 時計の一時間は、六十の同じ分に分けて数えられます。ベルクソンは、このように並べて数えられる時間と、私たちが生きている時間とは種類が違う、と考えました。前者は空間を借りて作った時間で、後者を彼は 持続 と呼びます。本課では、この持続の考えを、生命の進化に広げた「生の飛躍」まで読みます。 この課の問い 時計は一時間を六十の同じ分に分けて数えます。でも、退屈な一時間と夢中になった一時間は、本当に同じ「一時間」でしょうか。数えられない時間とは何でしょう。そして、その時間の考え方を生き物の進化全体に広げると、何が見えてくるのでしょうか。 この課のことば 持続(デュレ) フランス語 durée の訳。意識の状態が切れ目なく移りながら、前のものを抱えたまま溶け合っていく、生きられた時間です。時計で並べて数える時間と区別されます。 量的多様性 数えられる多さ。一つひとつを互いの外に置き、違いを無視して同じ単位とみなし、空間に並べて数えます。羊の群れの数や、時計・暦の時間がこれに当たります。 質的多様性 数えられない多さ。違うものが並ばずに溶け合い、一つの全体として育っていきます。持続はこの多様性です。 等質的な空間 どこを取っても同じで、中身を問わない入れ物としての場。物を並べ、区切り、数えるための場です。 生の飛躍(エラン・ヴィタール) élan vital の訳。生命を初めから押し出し、植物と動物、本能と知性へと分かれながら新しい形を生み続ける、一つの根の勢いです。 直観 物の外を回って分けて組み立てる知性のやり方を逆にし、事柄の内に身を置いてつかむこと。ベルクソンはこれを共感とも呼びます。 持続と生の飛躍――生きられた時間は、なぜ時計で測れないのか この章では、まず数えられる多さと数えられない多さを分け、次にメロディーと時計の針で持続を確かめ、最後に持続の考えを生命の進化に広げた生の飛躍を読みます。 二つの多様性――羊の群れは数えられるが、心の状態は数えられない 『試論』第 2 章は、数とは何かという問いから始まります。数とは単位の集まりですが、それだけではありません。その単位どうしが同じだとみなされていることが要ります [2] 。羊飼いは一頭ずつの羊を見分けられます。それでも群れを「五十頭」と数えるとき、毛の巻きや顔つきの違いは脇に置かれ、群れの一頭という共通の働きだけが残ります (図 1) 。 数えるには、もう一つ条件があります。羊がすべて全く同じだとしても、それぞれが別の場所にいなければ群れにはなりません。数えるとは、心の中であれ、一つずつを空間に並べて置いていくことです [2] 。SEP の解説は、このとき牧場が美しいことも、羊が厳密には同じでないことも無視され、実用の関心から、中身を問わない等質的な空間が使われる、とまとめます。暦や時計も、同じ形の時間だといいます [1] 。 数える(羊の群れ) … 50 同じ一つを空間に並べる 違いを無視して数える 聞く(メロディー) ド レ ミ 前の音を抱えて溶け合う 図 1 数えられる多さと、数えられない多さ(『試論』第 2 章の羊の群れとメロディーを本教材が絵にしたもの)。一つ目の絵では、違う羊が同じ四角になって並びます。二つ目の絵では、音が並ばずに太い帯へ撚り合わさります。 こうして数えられる多さを、SEP は 量的多様性 と呼びます。これに対し、違うものが並ばずに溶け合い、一つの全体として育っていく多さが質的多様性です [1] 。ふつう私たちは、違いがあれば並びもある、と考えます。質的多様性には、違いがあって並びがありません。ベルクソンは「いくつかの」という言い方さえ、数を思わせるのでふさわしくないと言います [1] 。 本教材の作例で確かめてみましょう。教室の椅子を数えるとき、背もたれの傷や座面の色の違いは問われません。どれも「一脚」として、教室の別々の場所を占めていることだけが使われます。では、朝から夕方までの気分の移り変わりを「いくつ」と数えられるでしょうか。眠気が期待に変わり、期待が少しの不安を含み、不安がやがて安心に変わります。それぞれは違いますが、どこで一つが終わり次が始まるのかは決められません。ベルクソンが質的多様性と呼ぶのは、こうした多さです。 なぜこの区別が要るのでしょう。SEP によれば、『試論』はカントへの応答です。カントは時間と空間を混ぜたので、人の行いも自然の因果で決まるとしか考えられなくなった、とベルクソンは見ました。そこで時間と空間を分け直し、意識に直接与えられたものを時間的なもの、つまり持続として示します [1] 。持続の中には出来事の並びが無く、機械的な因果も無い、というのです [1] 。自由の論は『試論』の続く章で展開されますが、本課では触れるだけにします。 ここで間違えやすい 「質的多様性」を「数えきれないほど多い」という意味に取らないようにしましょう。数が大きすぎるのではなく、一つずつ切り離して並べられないので、数えるという扱いが合わないのです。また、ベルクソンが数や数学を否定したわけでもありません。物質と空間を扱うには、数えることが正しく働くと考えています [1] 。 持続――メロディーの音は、前の音を抱えたまま溶け合う ベルクソンは、持続の考え方には二つある、と言います。一つは混じりけのない持続、もう一つは空間の観念がこっそり入り込んだ持続です [2] 。混じりけのない持続とは、自我が「生きるにまかせる」とき、つまり今の状態と前の状態のあいだに切れ目を入れないときに、意識の移り行きがとる形です。前の状態を忘れる必要はありません。思い出しながら、点の横に点を置くように並べず、今と一緒に組み立てればよいのです [2] 。この箇所は、原典を読むの章で訳して読みます。 たとえはメロディーです。よく知っている曲を思い出してみましょう。ドの次にレ、レの次にミと、音は順に鳴ります。けれどもミを聞くとき、ドとレは消えたのではなく、ミの響きの中に溶け込んでいます(ドレミの例は本教材の作例です)。だから一音だけを必要以上に伸ばすと、私たちが気づくのは長さそのものではなく、曲全体の質の変化だ、とベルクソンは言います [2] (図 2) 。 時計の時間 持続 同じ単位が一つずつ 外に並ぶ 違いながら互いに 溶け合う 外には今の針の 位置だけ。過ぎた 位置は残らない 過去を抱えたまま 今に引き伸ばす 数える・測る(物と 空間には正しく 働く) 数えられない。 内側から生きられる 左は空間を借りた時間、右は生きられた時間です。 図 2 時計の時間と持続の違い(本教材の要約)。上から、並び方・過去の扱い・測り方の順です。時計の針と同時性の話は『試論』第 2 章によります。 では時計は何を測っているのでしょう。文字盤の上で振り子に合わせて動く針を目で追うとき、私の外の空間には、いつも針のただ一つの位置しかありません。過ぎた位置は何も残っていません。このとき私たちは持続を測っているのではなく、同時に起こることを数えているだけだ、とベルクソンは言います [2] 。過ぎた位置を一本の線のように並べて「何分たった」と言えるのは、私の内で、過去を抱えて今と溶け合わせる持続が働いているからです。 SEP は、この持続を記憶と結びつけます。持続は過去を保ち、今へ引き伸ばします。だから意識のどの瞬間も、前の瞬間と全く同じにはなりません [1] 。SEP は、火曜は日曜と月曜を抱えているので月曜とは違う、という例を添えています。また、私たちはふだん心の状態に名前をつけ、一つずつ並べて語ります。それは暮らしに役立ちますが、持続の姿を覆います。持続は、記号を通さずに直接与えられているのです [1] 。 ベルクソンは後の論文「形而上学入門」(1903 年)で、持続を思い描くための像として、テープを巻き取る二つの糸巻き、色の帯、引き伸ばされるゴムひもを挙げます。糸巻きは過去が増え続けることを、色の帯は違いの多さを、ゴムひもは分けられない動きを示します。しかしどの像も止まった絵なので、純粋な動きである持続を写しきれない、とベルクソンは念を押します [1] 。 ここで間違えやすい 持続を「楽しい時間は短く、退屈な時間は長く感じる」という話だと取らないようにしましょう。それはなお、時計で測った長さを物差しにしています。ベルクソンが言うのは、生きられた時間は、そもそも長さとして並べられる量ではなく、質の移り行きだということです。また、持続を「時間が止まった永遠の今」と取るのも逆です。持続はいつも動き、元に戻らない流れです [1] 。 生の飛躍――生命は、一発の砲弾が破片に割れるように分かれていく ベルクソンは、この時間の考えを生命の進化に広げます。それが 1907 年の『創造的進化』です。まず退けられるのは二つの見方です。機械論は、どの発展も前の状態に含まれていたとみなすので、本当に新しいものが生まれる余地をなくします。伝統的な目的論も、終わりの姿が初めから決まっているとみなす点で、同じく「全体が与えられている」とします [1] 。目的に当たるものがあるなら、それは終わりではなく初めにある、とベルクソンは考えます [1] 。 第 2 章の初めには砲弾のたとえがあります。生命が、大砲から撃たれた一つの弾のように一本の道をたどるなら、行き先はすぐ分かるでしょう。ところが生命は、すぐに破片に割れ、その破片がまた割れていく砲弾に似ている、とベルクソンは言います [3] (図 3) 。割れ方は、中の火薬の力と金属の抵抗の両方で決まります。生命も、内の勢いと物質の抵抗によって分かれていきます。第 2 章はこの勢いを「根源の飛躍( élan originel )」と呼び、よく知られた「生の飛躍( élan vital )」の語は第 3 章に見えます [3] 。 割れ続ける砲弾 止まる破片 内の力(火薬) 物質の抵抗(金属) 植物 本能(ハチ・アリ) 知性(人間) 一本の弧ではない 図 3 『創造的進化』第 2 章の砲弾のたとえを本教材が絵にしたものです。砲弾のたとえは本人の例で、破片の先の生き物と止まる破片は本教材の描き方です(植物・本能・知性の分かれは第 2 章の論)。 分かれた向きは、まず植物と動物です。植物は動かずに光から養分を作り、動物は食べ物を探して動き回ります [1] 。動物の側はさらに分かれ、本能は昆虫、とりわけハチやアリの膜翅類で、知性は人間で最もよく育った、とベルクソンは見ます [3] (表 1) 。知性はもともと、人工の物、とりわけ道具を作るための道具を作る力だと定義されます。人間は「ホモ・サピエンス」より「ホモ・ファベル(作る人)」だというのです [3] 。 この表で分かること: 同じ一つの飛躍から分かれた三つの向きは、どれも生命の解き方ですが、向かう相手とやり方が違います。人間の知性は物には強く、生命そのものには弱いのです。 生命の向き よく育った例 向かう相手 やり方 植物 草木 光と空気 動かずに養分を作る 本能 ハチ・アリ 生きたもの 生まれつきの器官を使う 知性 人間 物 道具を作り分けて組む 表 1 『創造的進化』第 2 章の論を本教材が表にしたものです [1] [3] 。行の言葉は本教材の要約です。 だから知性は、物を分けて組み立てるのは得意でも、生命の流れをつかむのは苦手です。生命を知りたがる唯一の種が、それをつかめない種でもある、という逆説を SEP は指摘します [1] 。ただし本能と知性は、純粋な形で別々にあるのではありません。どちらも同じ持続に根をもつ傾向で、互いに少しずつ混じり合っています [1] 。だから知性の縁にも本能の名残があり、私たちは知性を自分に逆らわせ、生命の内に身を置き直すことができます。これが直観です [1] 。生命の一つさは、終わりに置かれた目標ではなく、初めに与えられた勢いの側にあるのです。もっとも、ラッセルは、直観の主張は私たちを蜂にしようとするものだ、と皮肉りました [1] 。 ここで間違えやすい 生の飛躍を、進化をあらかじめ決めた計画(設計図)と取らないようにしましょう。ベルクソンは終わりの目標を決めておく目的論を退けており、飛躍は初めの勢いであって、行き先は決まっていません [1] 。また「砲弾」は、生命の分かれ方を思い描くためのたとえで、進化の仕組みの科学的な説明ではありません。 原典を読む 第 1 章の二つ目の節で見た箇所を、フランス語の原文から訳して読みます。 ベルク