パルメニデス――あるものはあり、ないものはない(存在・真理の道) — Epoché
古代 ソクラテス以前の哲学 約 19 分 本文 約 7,800 字 図 4・表 2 原典 1 節 この課の要点 道の選択・あるものの徴・死すべき者の思わくの 3 つ 道の選択 女神は、探究の道は「ある」と「ない」の二つしかないと告げ、「ない」の道を、知ることも言い表すこともできないとして退けます。「ある」と「ない」を混ぜる人間たちの道も退け、多くの経験から来る習慣に流されて目や耳を使うのでなく、ロゴス(言葉による吟味)で判定せよと命じます(断片 2・6・7)。 あるものの徴 「あるもの」は生じず、滅びず、分けられず、動かず、欠けるところがない、と女神は論じます。生成を退ける理由は、「ないものから生じた」とは言うことも考えることもできないからです(断片 8.1–49)。 死すべき者の思わく そのあと女神は、光と夜という二つの形から成る宇宙論を、「欺きに満ちた言葉の並び」として語ります。月は太陽の光で輝くという見方もこの部分の断片に残ります。この部分を前半とどう結びつけるかは、研究者の間で分かれています。 はじめに パルメニデスは、南イタリアのギリシア人の町エレアの人です。スタンフォード哲学百科事典(以下、百科事典)の二つの項目は、生まれを前 515 年ごろ、前 510 年ごろとします。没年は伝わっていません [3] [7] 。前 515 年ごろは、プラトンの対話篇『パルメニデス』の作り話の設定(65 歳ごろの彼がアテナイで若いソクラテスと語る)からの推定です [3] 。一方、『哲学者列伝』の著者ディオゲネス・ラエルティオスは、彼の盛りを前 504〜501 年とします(IX.23) [4] 。前 515 年ごろの生まれなら、盛りが 11〜14 歳になり、合いません。 ディオゲネスは、彼がクセノパネスに聴いたが従わなかったこと(IX.21)、エレアの法を定めたこと(IX.23、スペウシッポスに拠る)も伝えます [4] [3] 。書いたのは、叙事詩と同じ六脚韻の詩一つだけです(I.16) [4] [3] 。元は 800 行ほどで、約 160 行が引用で残ります [3] 。詩は、若者が馬車で「夜と昼の道の門」を通り、名を明かさない女神に迎えられる場面で始まります(断片 1) [3] 。断片の番号は、ディールスとクランツが編んだ断片集(DK)のものです [2] 。論証の中心の断片 8 は、後 6 世紀の注釈家シンプリキオスが書き写したので、ほぼ全部が残りました [1] [3] 。 前の課のヘラクレイトスは、対立がロゴスで結ばれ、絶えず移り変わる世界を語りました。この課では、「ある」とだけ言える道から生成も消滅も退ける、パルメニデスの詩を読みます。日本語で「真理の道」と呼び慣わされるこの道を、詩は「説得の道(真理に付き従う)」と呼びます(断片 2.4) [1] 。百科事典の項目「Parmenides」は「確信の道」と呼びます [3] 。 この課の問い 「ない」ものについて、私たちは本当に考えたり語ったりできるのでしょうか。できないとしたら、ものが生まれたり消えたりすることを、どう考えればよいのでしょうか。 この課のことば あるもの(ト・エオン) 「ある」という動詞の分詞に冠詞を付けた語。女神の論証で、生じも滅びもしないと示される対象の呼び名になります。 探究の道 何を手がかりに真理を探すかという筋道。女神は「ある」の道と「ない」の道を示し、人間たちのさまよう道と区別します。 徴(セーマ) 道しるべ、目印のこと。「ある」の道に立つ、あるものの性質の一覧(生じない、滅びない、動かない……)を指します。 思わく(ドクサ) 人間たちが、そう見えるままに信じていること。女神は「真の確信がない」と言いながら、これも学ぶべきだと告げます。 ロゴス ここでは、言葉で筋道を立てて確かめること。女神は、目や耳に頼る習慣ではなく、ロゴスで判定せよと言います。 真理の道――「ある」とだけ言えるなら、何が帰結するか 「ある」か「ない」か――探究の二つの道 教えを語るのは序歌の女神で、語り手の若者はふつうパルメニデス自身とされます。本文でも「女神は」を主語にします。女神はまず、考えるための探究の道は二つしかない、と告げます。「ある、そしてあらぬことはありえない」という道と、「ない、そしてあらぬことが必然だ」という道です(断片 2.2–5) [1] [2] [3] 。 後の道は、ないものを知ることも言い表すこともできないので、退けられます (2.6–8) [1] (図 1) 。 女神が示す探究の道 探究の道は、考えうるかぎり二つ (断片 2.2) 「ある」の道 あらぬことは ありえない 真理に付き従う 「ない」の道 知ることも言う こともできない (2.6–8) 退ける 断片 8:あるものの徴へ 人間たちの道(断片 6.4–9) 「ある」と「ない」を同じとも 同じでないともみなし、さまよう 退ける:ロゴスで判定せよ(断片 7) 図 1 女神が示す探究の道。考えうる道は「ある」と「ない」の二つで、「ない」の道はすぐに退けられます。下の破線の箱は、両方を混ぜる人間たちの道です。百科事典の筆者パーマーなどは、これを断片 2 の「ない」の道とは別の、第三の道と見ます。図でも上の二本とは線でつないでいません [3] 。 この筋道は、三つの段で追えます(段の分け方は本教材によります)。第一に、道は「ある」と「ない」の二つに限られます。第二に、「ない」の道は何も知りえないので退けられます。裏返せば、言われ考えられるものはあります(断片 6.1–2、次の段落で引用)。第三に、「ある」と「ない」を同じとも同じでないともみなし、「二つの頭」でさまよう人間たちのやり方も退けられます(6.4–9) [1] 。女神は、多くの経験から来る習慣に流されて目や耳や舌を使うな、と命じます。ロゴス、つまり言葉による吟味で判定せよ、というのです(断片 7.3–5、ディオゲネス IX.22 が引く) [1] [4] 。 題名の「あるものはあり、ないものはない」は、断片 6.1–2 などを言い換えたものです。女神はこう語ります。「言われ考えられるものは、あるのでなければならない。あることはありうるが、無はないのだから」(シンプリキオス 86.27–28・117.4–5) [1] 。1 行目は「あるものがある、と言い考えねばならない」とも読めます。プラトン『ソフィスト』では、作中の「エレアからの客人」が、パルメニデスの繰り返した言葉として断片 7.1–2 を引きます。「ないものがある、ということは決して押し通されはしない。探究するあなたは、この道から考えを遠ざけよ」(237a) [5] 。 教材の作例です。「空っぽの箱の中身を思い浮かべて」と言われても、浮かぶのは箱の内側や暗がりで、「ないもの」そのものではありません。論証の再現ではなく、女神の言葉を身近に感じる手がかりです。 なお、断片 2 の「ある」(ἔστι)には主語がなく、意味も読みが分かれます [3] 。「存在する」と取る読み(ラッセルの影響を受けたオーエン)、「何であるか」の「である」と取る読み(ムーレラトス、カード)、「必ずある」と取る読み(パーマー)です。本文では一つに決めず、かぎ括弧で書きます。 ここで間違えやすい 断片 2 の「ない」の道と、断片 6 の人間たちの道を、同じものとしないことです。後者は「ある」と「ない」を混ぜる道で、百科事典の筆者パーマーなどは第三の道と見ます [3] 。また、女神は「遠ざけよ」と命じもしますが、言いたいのは、ただ禁じることではありません。その道では何も知りえない、という理由のほうです。 あるものの徴――生じず、滅びず、動かない 「残る道はただ一つ、『ある』だけだ」と言って、女神は真理の話を始めます。この道の徴(道しるべ)は、あるものが生じず、滅びず、まるごと一つで、揺るがず、終わりがないことです(断片 8.3–4) [1] [2] [3] 。この一覧が論証の予告になります。 最も詳しく論じられるのは、 あるものは生じない という徴です。論証は五つの段で進みます(断片 8.6–21、シンプリキオス 145.6–22、段の分け方は本教材) [1] (図 2) 。第一に、あるものが生じたなら、どこから、どう育ったのかが問われます(8.6–7)。第二に、ないものから、とは言えません。「ない」は言えず考えられないからです(8.7–9a)。第三に、何の必要があって前でなく後に生じたのか、にも答えられません(8.9b–10)。 1 あるものが生じたとしたら どこから、どう育ったのか(8.6–7) 2 ないものから? 行き詰まる 言うことも考えることもできない(8.7–9) 3 なぜ前でなく後に? 行き詰まる そうさせる必要がない(8.9–10) 4 まったくあるか、まったくないか 中間はない(8.11) 5 生成は消え、消滅は聞かれない (8.21) 図 2 生成を退ける論証の順(断片 8.6–21)。仮定(破線)から、二つの問いで行き詰まり、太い枠の結論に至ります。 第四に、だから、まったくあるか、まったくないかのどちらかで、正義(ディケー)は生じることも滅びることも許しません(8.11–15)。第五に、生じたのなら今はなく、いつかあるだろうというのでも今はありません。こうして生成は消し去られ、消滅は聞かれないものになります(8.19–21) [1] 。 残りの徴の理由は表 1 のとおりで、たとえば分けられないのは、あるものがあるものに接しているからです(8.22–25) [1] [3] 。 この表で分かること: 生じない・一つ・揺るがないの三つの徴は、8.3–4 の予告どおりの順に論じられます。4 つ目の「欠けるところがない」が予告に対応するのは、8.4 を「完全な」と読むときだけです。どの理由も、「ない」は言えず考えられない、という点に戻ります。 徴 箇所 女神の挙げる理由 生じず、滅びない 8.5–21 ないものからとは言えず考えられない 分けられない(一つ) 8.22–25 どこも同じようにあり、多い所も少ない所もない 動かない(揺るがない) 8.26–31 必然が限りの縛めで抑えている 欠けるところがない 8.32–33・42–49 欠けていれば、すべてを欠くことになる 表 1 あるものの徴と理由(断片 8、シンプリキオス 145.1–146.22) [1] 。行の番号は DK によります [2] 。8.34–41 を 8.52 の後に移す説もあります [3] 。8.4 の結びは、ディールスの本文では「終わりがない」(ἀτέλεστον)で、「完全な」は校訂者の直しの読みです。 あるものの姿には、パルメニデス自身のたとえがあります。最も外の限りをもつあるものは「よく丸い球の塊に似て、中心からどの方向にも等しく釣り合っている」のです(8.42–44、シンプリキオス 146.15–17) [1] 。『ソフィスト』の客人も、この詩句を引きます(244e) [5] 。 「一つ」の意味も、読みが分かれます [3] 。第一は、ただ一つのものだけがあり、変化も多数も幻だとする厳格な一元論です(ガスリー)。第二は、あるものは一つの述語で言えるまとまりで、多数あってもよいとする「述語的一元論」です(カード)。第三は、必ずあるものは一つだが、たまたまあるものは多数あってよいとする読みです(パーマー)。 ここで間違えやすい 球のたとえから、「パルメニデスは宇宙を球形の物体だと主張した」と直ちに読むのは早すぎます。オーエンは、真理の部分は宇宙を球として描いていないとします [3] 。また、8.5 の「いま、すべてが一緒に」を、時間の外にある永遠の主張だと決めつけないことです。続く論証に照らして、途切れずにあることの主張と読む研究者もいます [3] 。 死すべき者の思わく――光と夜の宇宙論 この後半の始まりは、四つの段で追えます(段の分け方は本教材)。第一に、女神は真理についての信頼できる話を終え、ここからは人間たちの思わくを、 欺きに満ちた言葉の並び を聞きながら学べ、と言います(断片 8.50–52) [1] 。題の「死すべき者」は、この人間たちです。第二に、人間たちは二つの形に名を付けると決め、「そのうち一つは名づけるべきでなく、そこで迷った」とされます。一方はやわらかく軽い天の炎、他方は暗く密で重い夜です(8.53–59、シンプリキオス 180.1–7) [1] 。 第三に、すべては光と夜で満ちていて、両方は等しく、どちらにも無は与りません(断片 9、シンプリキオス 180.9–12) [1] (図 3) 。第四に、この後半は序歌で予告されていました。若者は、真理の揺るがない心と、真の確信のない人間たちの思わくの、両方を学ぶべきだというのです(断片 1.28–30、ディオゲネス IX.22 が引く) [4] [3] 。 真理の部分 あるもの(一つ) 生じず、滅びず 動かず、欠けない 論じ方:ロゴスで判定 信頼できる話(8.50) 思わくの部分 光と夜(二つの形) 混ざり、生まれ、 移り変わる宇宙 例:月は太陽の光で輝く 真の確信がない(1.30) 図 3 女神の教えの前半と後半。破線の箱は論じ方と中身の例を添えたもので、上の箱から導かれるものではありません。前半と後半の関係の読み方は、研究者の間で分かれます。 宇宙論は大半が失われ、残る断片は元の 1 割ほどとみられます。それでも、天の炎の働き、月、天の川、大地、生き物の生まれまで扱ったことが分かります [3] 。ディオゲネスは、大地が球形で中心にあると最初に言ったのは彼だとします(IX.21)。明けの明星と宵の明星が同じ星だと見抜いた、という著作家ファウォリノスの報告も載せ、「ピュタゴラスだとする者もいる」と併記します(IX.23) [4] 。 月をうたう一行も残ります。月は「いつも太陽の光線のほうを見つめている」というのです(断片 15、プルタルコス『月面に見える顔について』929B が引く) [6] 。月が太陽の光で輝くという見方は断片 14・15 に残り、後のエンペドクレスやアナクサゴラスの食の説明につながりました [3] 。 後半を前半とどう結びつけるかは、大きな争点です [3] 。第一は、感覚の世界は実在しないの