ミル――他人に害を与えない限り人は自由である(危害原理・質的功利主義) — Epoché
近代 功利主義と社会思想 約 26 分 本文 約 10,500 字 図 7・表 2 原典 2 節 この課の要点 質・判定・危害の 3 つ 質 快楽は量だけでなく質でも比べられる。ほかの物の値踏みでは質と量を見るのに、快楽だけを量で測るのはばかげている、とミルは言う(『功利主義』第 2 章)。 判定 二つの快楽の質の上下は、両方を知る人の選好で決まる。満足した豚より不満足な人間、満足した愚か者より不満足なソクラテスの方がよい。豚や愚か者は自分の側しか知らないからだ(第 2 章)。 危害 社会が個人に力をふるってよいのは、他人への害を防ぐためだけである。自分だけに関わることでは、個人は自分の身体と心の主権者である。ミルはこれを抽象的な権利でなく、最も広い意味の功利で根拠づける(『自由論』第 1 章)。 はじめに ジョン・スチュアート・ミル(1806〜1873)は、イギリスの哲学者です。父ジェイムズ・ミルは、前の課で読んだベンサムの友であり、仲間でした。息子は、功利主義を広める次の世代の担い手になるよう、幼いころから父の監督の下で学びました。3 歳でギリシア語を始め、12 歳までに古典の多くを読み終えていました [1] 。 ところが 20 歳のころ、ミルは「精神の危機」に陥ります。目指す改革がすべて今すぐ実現したら、自分は幸せなのか、と自分に問うと、心ははっきり「いいえ」と答えた、とのちに『自伝』で振り返っています [1] 。ミルはロマン派の詩に支えを見いだし、社会の改革だけでなく、感情を育てることも大切だと考えるようになりました [1] 。 この課では、ミルの二つの著作を読みます。一つは『功利主義』(1863 年に単行本)です。ミルはベンサムの功利主義を受け継ぎながら、快楽には量だけでなく質の違いがある、と論じました [1] [2] 。もう一つは『自由論』です。社会が個人に力をふるってよいのは他人への害を防ぐためだけだ、という原理を示しました [1] [3] 。 この課の問い 詩を読む喜びと、ただ満腹になる喜びは、強さと長さが同じなら、同じ値打ちなのでしょうか。また、みんなの幸福のためなら、社会は一人の生き方にどこまで口を出してよいのでしょうか。 この課のことば 快楽の質 快楽の量(強さや長さ)とは別の、その快楽がどんな種類かによる値打ち。ミルは、知性や感情と想像、道徳の感情の喜びを、高い質の快楽に数えます。 有能な判定者 比べる二つの快楽を、両方とも経験し、味わえる人。ミルは、二つの快楽の質の上下を、こうした人たちの選好で決めます。 多数者の専制 民主的な社会で、多数の人々が、法律だけでなく世論や習慣を通して、違う考えや生き方を押さえつけること。 危害原理 社会が個人に、本人の意に反して力をふるってよい唯一の目的は、他人への害を防ぐことだ、という原理。本人のためになる、というだけでは理由になりません。 パターナリズム 本人のためを思って、本人の意に反して口を出したり強いたりすること。親が子に「あなたのため」と言って決めてしまうのが身近な例です。 質的功利主義――喜びは量だけで比べられるのか 前の課で読んだベンサムは、快と苦の量を見積もり、幸福を増やす傾向で行いを判定しました。この考えには、昔から強い非難がありました。快楽より高い目的が無いと言うのは、豚にふさわしい教えだ、というのです [2] 。ミルは『功利主義』第 2 章で、功利性の原理を守ったまま、この非難に答えます。そのための考えが、快楽の質です [1] 。 量だけでなく質――豚の教えという非難にどう答えるか 非難は古いものです。快楽を人生の目的とする教えは、エピクロスの学派の昔から、豚にふさわしい教えとして軽蔑されてきた、とミルは書きます(『功利主義』第 2 章) [2] 。エピクロスの学派は、人間を貶めているのは非難する側の方です、と言い返してきました。非難は、人間には豚と同じ快楽しか無いと決めつけている、というのです [2] 。もし人間と豚の快楽の源がまったく同じなら、豚に足りる生き方の決まりは人間にも足りることになり、非難はもう悪口ですらなくなります [2] 。 ミルはこの言い返しを引き継ぎます。獣の生と比べられて屈辱を感じるのは、獣の喜びでは、人間の考える幸福が満たされないからです。人間には、動物の欲より高い能力があります。それを満たさないものを、人は幸福とは呼びません [2] 。 では、心の喜びは体の喜びより、なぜ上なのでしょうか。これまでの功利主義の書き手は、心の喜びの方が長く続き、安全で、費用もかからない、という付き物の利点で説明してきました。ミルはそれを認めたうえで、快楽そのものの性質に理由を置くこともできる、と言います [2] 。 量だけで比べる 量と質で比べる 物差しは強さや 長さなどの量 量に加えて喜びの 種類の高さ 菓子の一時間と 小説の一時間 同じ二つの一時間を 比べる 量が同じなら 値打ちも同じ 量が同じでも高い 種類が上のことも 左はベンサム、右はミル(『功利主義』第 2 章)の 見方です。 図 1 同じ二つの一時間を、ベンサムの量の物差しとミルの質の物差しで比べた図です(本教材の整理)。菓子と小説は本教材の作例です。 ミルの言い方はこうです。ほかの物を値踏みするときは質も量も考えるのに、快楽の値踏みだけは量で決まると考えるのはばかげています(第 2 章) [1] [2] 。ベンサムの考えでは、二つの経験の快楽の量が同じなら、値打ちも同じでした。ミルはここから離れます [1] (図 1) 。教材の作例で言えば、甘い菓子を食べ続ける一時間と、難しいが面白い小説を読み終える一時間です。その場の楽しさの強さは、菓子の方が大きいかもしれません。それでも小説の喜びの方が、種類として高いことがある、とミルは考えます。値段だけでなく品質も見て物を選ぶのと同じように、喜びにも品質がある、というのです(本教材のたとえ)。 ここで間違えやすい 質的功利主義を、「体の喜びは悪く、知的な喜びだけがよい」という禁欲の教えと取らないようにしましょう。ミルは体の喜びも快楽として認め、その間に質の上下があると言うだけです。また、高い快楽を勉強の喜びに限るのも狭すぎます。ミルは、受け身で得る喜びより、活動の中で得る喜びの方が質が高いとも見ています [1] 。 有能な判定者――両方を知る人が、どちらを選ぶか では、快楽の質の違いとは何でしょうか。ミルの答えは一つです。二つの快楽の両方を経験した人のすべて、またはほとんどすべてが、道徳の義務感と関わりなく、はっきり一方を選ぶなら、それがより望ましい快楽です(第 2 章) [1] [2] 。両方をよく知る人が、不満が多く伴うと知りながら一方を選び、もう一方をどれだけ多く与えられても手放さないなら、選ばれた方は質で上だと言ってよい、とも言います [1] 。 ① 二つの快楽 比べたい快楽 A と B を並べる ② 判定者に聞く A も B も経験し、味わえる人に尋ねる ③ 一方を選ぶか 義務感と関わりなく、ほぼ全員が はっきり選ぶか ④ 質の高い快楽 選ばれた方が上。意見が割れれば多数に 従う 図 2 快楽の質を決める手順(本教材の整理)。『功利主義』第 2 章の判定者の考えを、上から順の段に並べました。 質の上下は、理屈で先に決めるのではなく、両方を知る人の選好で確かめる、ということです (図 2) 。判定者の意見が分かれたら、多数の判断に従います。二つの苦痛のどちらが鋭いかも、両方を知る人に聞くしかありません。量の判定もそうなのだから、質の判定をそれに任せてよい、とミルは言います [2] 。教材の作例で言えば、ピアノを習い続けた人は、弾けるまでの苦しさも、通して弾けたときの喜びも、ただ聞く楽しさも知っています。その人が「苦しくても弾く方を取る」と言うなら、聞く楽しさしか知らない人の判断より重い、ということになります。 高い快楽を知る人が、ときに低い快楽を選ぶことはあります。ミルによれば、それは性格の弱さから、手近な善を選ぶだけです。若いころの高い志を失う人も多いのですが、それは高い快楽を味わう力が、仕事や付き合いの中で育てられずに枯れたからだ、とミルは言います。高い感情の力は、敵意だけでなく養分の不足でもすぐ枯れる、柔らかな若木のようなものだというのです [2] 。 ただし、少しの高い快楽が、どれだけ多くの低い快楽にもまさる、とミルが考えたと読む研究者もいます。しかしミルは、質が上だと言える十分な条件を述べただけで、質と量をどう量り合わせるかはほとんど語っていない、と SEP は整理します [1] 。 ここで間違えやすい 「有能な判定者」を、学者や上流の人など、特別な身分の人のことだと取らないようにしましょう。ミルが言うのは、比べる二つを両方とも経験し、味わえる人です。また、道徳的に立派だから選ぶ、という意味でもありません。ミルは、義務感と関わりなく選ぶ、と断っています [2] 。 満足と幸福は違う――不満足なソクラテスと満足した豚 獣の快楽を存分に与えると約束されても、下等な動物に変えられることを承知する人はほとんどいない、とミルは言います。賢い人は愚か者に、教養ある人は無知な人になろうとしません。愚か者の方が自分の境遇に満足している、と言われてもです [2] 。 この嫌がる気持ちは、誇りとも、自由と独立への愛とも呼べます。けれども最もふさわしい名は尊厳の感覚で、誰もが何らかの形で持っている、とミルは言います [2] 。高い能力を持つ者は、幸福になるのに多くを必要とし、苦しみにも多くの所で触れます。それでも、自分がより低いと感じる生き方に沈みたいとは、本当には願いません [2] 。 満足した豚 満足 空の餌桶 不満足なソクラテス 不満足 ? パンと杯 図 3 『功利主義』第 2 章の豚とソクラテスの比べを絵にしたものです(比べは本人の比喩、絵は本教材の描き方)。一つ目は、空の餌桶の横で満ち足りて寝そべる豚で、思い浮かべるのは餌のことだけです。二つ目は、パンと杯を脇に置いて考え込むソクラテスで、食べる喜びも、考える問いも、両方を知っています。 ここでミルは、幸福と満足を分けます (図 3) 。楽しむ力が低い者ほど、その力を満たしやすく、高い力を持つ者は、どんな幸福も不完全だと感じます。それでも、満足した豚より不満足な人間の方がよく、満足した愚か者より不満足なソクラテスの方がよい、とミルは言います。豚や愚か者の意見が違うのは、自分の側しか知らないからです(第 2 章) [2] 。腹いっぱいの豚は泥の中で満ち足り、ソクラテスは答えの出ない問いに眉を寄せています。どちらの生がよいかを決めるとき、ソクラテスの判断の方が重いのは、ソクラテスが食べて満ちる喜びも、考える喜びも、両方を知っているからです。この一節は、原典を読むの章で詳しく読みます。 質を量より重く見るなら、ミルは快楽そのものでなく、人柄の完成や人の開花に値打ちを置いているのではないか、という読み方があります。他方、快楽の感じ方そのものに値打ちの違いがあると言えば、快楽を値打ちの元とする立場の内にとどまれる、という読み方もあります。SEP は後者に傾きます [1] 。 ここで間違えやすい 「不満足なソクラテスの方がよい」を、「人はいつも不満足であるべきだ」「苦しむほど偉い」と取らないようにしましょう。言われているのは、高い能力を持つ者は満たされにくいが、だからといって幸福が小さいのではない、ということです。また、この一文を、ミルが功利主義を捨てた証拠と見るのも行き過ぎです。ミルは、質の区別は功利性の原理と両立すると言っています [2] 。 自由論――社会は個人にどこまで力をふるってよいのか 第 1 章で見たように、ミルは、人が自分の高い能力を使うことに、幸福の大きな部分を見ました。では、みんなの幸福のためなら、社会は一人の生き方を決めてよいのでしょうか。社会が貴族の支配から民主的な形に変わると、王に代わって、多数の人々が力を持つようになります。ミルは『自由論』で、この新しい力から個人を守る線を引こうとしました [1] 。 多数者の専制――法律より深く、魂まで縛る力 昔の自由の争いは、支配者の力から臣民を守ることでした。人民が自ら治めるようになると、人民が自分の力を縛る必要は無い、と思われました。しかしミルによれば、「人民」とは実際には、最も多い部分か、最も活発な部分のことです。その多数が、少数を押さえつけることがあります。これが多数者の専制です(『自由論』第 1 章) [3] (図 4) 。 ① 王の専制 支配者の力から臣民を守ることが自由の 争いだった ② 人民の自治 人民が治めるなら、その力は縛らなくて よいと思われた ③ 多数者の専制 多数が法律と世論・習慣で少数を 押さえる ④ 線を引く 危害原理(次の節) 図 4 『自由論』第 1 章が描く、自由の問題の移り変わり(本教材の整理)。点線の段は、次の節で見る答えです。 ミルが恐れたのは、法律による強制だけではありません。社会そのものが専制者になるとき、その手段は役人の行いに限られない、とミルは言います。世論や習慣による強制は、政治の圧政ほど重い罰を伴いません。けれども逃げ場が少なく、生活の細部に深く入り込み、魂そのものを奴隷にします [1] [3] 。だから役人の専制から身を守るだけでは足りず、支配的な意見と感情の専制からも守られなければならない、というのです [3] 。集団の意見が個人の独立に干渉してよい限界を見つけ、それを守ることは、政治の専制から身を守るのと同じくらい欠かせない、とミルは言います [3] 。その限界が、次の節で見る危害原理です。 教材の作例で考えてみます。ある町では、法律ではどの服を着てもかまいません。それでも、一人の若者が町の誰とも違う服で歩くと、近所の人は眉をひそめ、陰でうわさをし、店の主人は口をきかなくなります。罰金も牢屋もありませんが、若者はやがて皆と同じ服しか着なくなります。ミルが恐れたのは、こうした目に見えにくい力です。ミル自身も、ハリエット・テイラーとの長い交際をめぐって世間の目にさらされ、多くの友人と疎遠になりました [1] 。 ここで間違えやすい ミルを、民主政に反対した人と取らないようにしましょう。ミルは自ら下院議員にもなり、