フリッカー――偏見は証言の信頼を不当に奪う(認識的不正義) — Epoché
現代 科学哲学と認識論 約 19 分 本文 約 7,800 字 図 4・表 2 原典 1 節 この課の要点 証言・解釈・徳の 3 つ 証言 聞き手が、話し手の集団への偏見のせいで、その言葉の信用を割り引く。これが証言の不正義の中心の場合で、話し手は知る者としての力において傷つけられる、とフリッカーは言う(『認識的不正義』2007、第 1 章)。 解釈 経験を言い表す言葉が社会に無いと、その経験は本人にも他人にも分かりにくい。「セクシュアル・ハラスメント」の語ができる前、怒った女性は「ユーモアが無い」と退けられた。言葉が欠けていたのは、女性が意味をつくる営みから締め出されてきたからだ、とフリッカーは言う(同、第 7 章)。 徳 聞き手は、信用の判断に入り込む偏見を打ち消す「認識の正義の徳」を育てるべきだ、とフリッカーは言う(同、第 4 章)。これに対し、個人の徳だけでなく、制度と仕組みを変える共同の責任が要る、とメディナやアンダーソンは論じる。 はじめに ミランダ・フリッカーは、イギリスの哲学者です。いまはニューヨーク大学で教え、知ることについての哲学(認識論)と倫理学をまたいで研究しています。「認識的不正義」という語は、フリッカーが 1998 年の論文で用い始めたものです [4] 。 主著は『認識的不正義』(2007 年)です。そこで、人が知る者として不当に扱われること(認識的不正義)を二つに分けました [2] [4] 。一つは、偏見のせいで言葉を信じてもらえない「証言の不正義」です。もう一つは、経験を言い表す言葉が社会に欠けているために、経験が分かってもらえない「解釈の不正義」です [1] [4] 。 「認識的」とは、知ることにかかわる、という意味です。フリッカーが指すのは、お金や権利の配り方とは別の不公平です。ある人を、知っていることを語る者として扱うかどうかが、言葉の中身ではなく、その人の属する集団で決まってしまうことです。 この課では、二つの不正義の仕組みを順に見たうえで、聞き手に何ができるのか、個人の心がけで足りるのかを考えます。 この課の問い 同じことを言ったのに、ある人の言葉はすぐ信じられ、別の人の言葉は聞き流されることがあります。会議で出した案が無視され、少し後に別の人が同じ案を出すと褒められることもあります。これはただの不公平でしょうか。それとも、その人を「知っている人」として扱わないという、特別な種類の不正なのでしょうか。もし不正なら、それはどんな仕組みで起こり、聞き手には何ができるのでしょうか。 この課のことば 証言 法廷の証言に限らず、人が人に「〜だ」と告げ、相手がそれを聞いて知ること。ニュースを読むのも証言によります。私たちの知識の多くは証言に頼っています。 信用 英語の credibility 。聞き手が、話し手の言葉をどれだけ本当だと受け取るかの度合いです。話し手が詳しいか、誠実かの見積もりで決まります。 証言の不正義 聞き手が、話し手の属する社会の集団への偏見のせいで、話し手の言葉の信用を割り引くこと。偏見とは、ある集団の人はみな「よく知らない」「嘘をつく」などと決めてかかる、根拠の無い型どおりの見方(ステレオタイプ)です。 解釈の不正義 経験を言い表し、分かってもらうための言葉や概念が社会に欠けているために、その経験が本人にも他人にも理解されにくいこと。 認識の正義の徳 聞き手が身につけるべき性向。身についた聞き方の中で、信用の判断から偏見の影響を打ち消すように働きます。徳とは、よい行いを自然にさせる、身についた性質のことです。 認識的不正義――言葉を信じてもらえないことは、なぜ不正なのか この編のゲティアの課では、ある人が何かを「知っている」とはどういうことかを、一人の知る者について問いました。けれども私たちが知っていることの多くは、人の言葉から得たものです。コードは、「S は P を知る」という分析の型が、目で見て確かめられる物の知識を手本にしたため、知る者として暗に男性を思い描いている、と批判しました [1] 。フリッカーは、誰の言葉が信じられ、誰の言葉が退けられるかに、社会の力の差と偏見が入り込むことを問題にします。この章では、証言の不正義、解釈の不正義、聞き手の徳とその限界を、順に読みます。 証言の不正義――偏見が言葉の信用を割り引く フリッカーが証言の不正義と呼ぶものの中心には、次のような場合があります。聞き手が、話し手の属する社会の集団への偏見のせいで、話し手の言うことの信用を割り引くのです(『認識的不正義』第 1 章) [1] [2] 。 探究は証言に頼る共同の営みなので、何を信じるかは、誰を信じるかに左右されます。誰を信じるかは、その人がどれだけ詳しく、責任をもって語り、信頼できるか、という見積もりで決まります [1] 。この見積もりに、性別や人種などの集団についての型どおりの見方が入り込みます。支配する側の集団は、抑えられた集団を「能力が無い」「不誠実だ」とする汚名のステレオタイプを作ります。自分たちに典型とされる特徴を知の権威のしるしに仕立て、そのしるしを得る機会、たとえば高等教育を独り占めします [1] 。 一人目が言う 偏見のステレオタイプ 女性だから 若いから 信用 低 高 この手順を逆にすれば 早くなります ふうん 部長 二人目が言う 信用 低 高 この手順を逆にすれば 早くなります なるほど、名案だ 部長 図 1 同じ言葉、違う信用――証言の不正義(『認識的不正義』第 1 章)。一つ目の絵では、若い女性の案に部長の信用のメーターが低く振れ、針の根もとに偏見の雲がかかっています。二つ目の絵では、背広の男性の同じ案にメーターが高く振れます。偏見が信用を割り引くという論点はフリッカーのもので [1] 、会議室の場面とメーターは本教材の作例です。 図の二人は、一字も違わない文を言っています (図 1) 。違うのはメーターの針だけで、針を動かしたのは言葉の中身ではなく偏見です。抑えられた集団の人は、自分の経験についてさえ語る資格が無いと見なされがちです(信用の不足)。特権のある集団の人は、他人の経験についてまで権威とされがちです(信用の過剰) [4] 。フリッカーが中心に置くのは不足の方ですが、積み重なる過剰も論じています(同書 20–21 頁) [2] 。 フリッカーは論文「 Silence and Institutional Prejudice 」(2012 年)で、実際の例を取り上げています [3] 。ロンドンで黒人の少年スティーヴン・ローレンスが殺されたとき、現場にいた友人のドゥウェイン・ブルックスに、駆けつけた警官たちは疑いの目を向けました。公式の調査報告によれば、警官たちは彼の話に身を入れず、犯人が最後に見えた場所を知る彼に、捜索への同行も求めませんでした(マクファーソン報告、1999 年、§5.11) [5] 。フリッカーは、警官たちがブルックスを信用できる目撃者と見なかったことを、偏見が信用を割り引いた証言の不正義の例とします [3] 。 信じてもらえなかった話し手は、ただ情報を受け取ってもらえなかったのではありません。知っていることを人に伝えるという、人として大切な力において不当に扱われるのです。フリッカーはこれを、知る者としての力において傷つけられる、と言います [4] 。ドットソンは、偏見による誤解を恐れて話し手が自分から口をつぐむ場合を、別の種類として加えました。 ここで間違えやすい 証言の不正義を「正しいことを言ったのに信じてもらえなかったこと」と取るのは誤解です。定義が問うのは、信用を割り引いた理由が、話し手の集団への偏見だったかどうかです [1] 。ですから、言った中身がたまたま誤りでも不正義になりうる、と本教材は読みます。もう一つの誤解は、悪意のある聞き手だけの問題と取ることです。偏見は気づかないうちに信用の判断に入り込み、抑えられた側の人まで、その見方を信じ込むことがあります [4] 。 解釈の不正義――経験を言い表す言葉が無い 解釈の不正義とは、共同体の持つ解釈の手立て、つまり語や概念のせいで、ある人の経験が分かりにくくされたり、誤解されたりすることです。それは、その人やその人の集団が、意味をつくる営みから締め出されてきたことによって起こります(『認識的不正義』第 7 章) [1] [2] 。 人は、自分に起きたことを社会で通じる語で理解し、伝えます。その語が無いと、本人にさえ何が起きたのかがはっきりしません。フリッカーは、その語が無いのは偶然ではない、と言います。言葉の使い方を形づくる学問・報道・出版・法の営みから、ある集団の人々が長く締め出されてきたからです [4] 。 名が共有される前 言葉をつくる場 この経験を 言う語が無い ? 冗談だろう 気にしすぎだよ 名が付いたあと 辞書の空白に 語が入る セクシュアル・ハラスメント 図 2 経験はあったのに、言う語が無かった――解釈の不正義(『認識的不正義』第 7 章)。一つ目の絵は名が共有される前で、経験はもつれた糸のまま届かず、辞書には空白があり、額には言葉をつくる場の男性たちが並びます。二つ目の絵では、語り合う輪の中で名が付いて糸がほどけ、辞書の空白が埋まります。締め出しの論点はフリッカーのもので [1] 、場面は本教材の作例です。 フリッカーの挙げる例は、「セクシュアル・ハラスメント」という語です (図 2) 。この概念が使えるようになる前、ただの不器用な口説きや冗談と見られた行いに怒った女性は、ユーモアが無い、神経が過敏だ、と退けられました [1] 。1970 年代のアメリカで、上司から繰り返し体に触れられ、性的な言葉を向けられて、職を辞めた女性がいました。辞めた理由を問われても、彼女はうまく言えませんでした。のちに女性たちが集まって経験を語り合い、それに名が与えられると、ばらばらに見えた出来事が、一つの不当な扱いとして見えるようになります [2] [4] 。 メイソンは、抑えられた共同体が自分たちの抑圧を言い表す手立てを持っていても、支配する側がそれを受け取らないなら、やはり解釈の不正義になる、と論じました。ポールハウスは、その無知が意図して保たれる場合を論じ、ドットソンは、それが手立ての受け取りを妨げる「寄与の不正義」になる、と論じます [1] (表 1) 。 この表で分かること: 認識的不正義は、聞き手が話し手を割り引く場面から、共同体の言葉の穴、さらに手立ての受け取りを拒む態度まで、いくつかの形に分けられます。 不正義の形 何が損なわれるか どこで起こるか 論じた人 証言の不正義 言葉の信用 聞き手が話し手を聞く場 フリッカー 口をつぐむ証言 語ること 誤解を恐れる話し手の側 ドットソン 解釈の不正義 経験を分かる手立て 共同体の言葉の穴 フリッカー 受け取られない手立て 抑圧を言う手立ての通用 支配する側の受け取り メイソン 寄与の不正義 手立ての受け取り 支配する側の意図した無知 ポールハウス・ドットソン 表 1 認識的不正義のいくつかの形。SEP の整理によります [1] 。 本教材の整理で言えば、証言の不正義では、特定の聞き手が特定の話し手を割り引きます。解釈の不正義では、誰か一人が悪いのではなく、共同体の言葉の手立てそのものに穴があり、そこに落ちる人がいます。 ここで間違えやすい 解釈の不正義を「その人の語彙が貧しい」「説明が下手」という問題と取るのは誤解です。言葉の穴は社会全体のもので、意味をつくる営みからの締め出しから生じています [1] 。もう一つの誤解は、語が無ければ経験も無かった、と取ることです。経験は前からあり、それを分かるものにする共有の語が欠けていたのです [4] 。 認識の正義の徳――聞き手は偏見を打ち消す フリッカーは、証言の不正義を正すために、聞き手が「認識の正義」という徳を育てるべきだ、と論じます(『認識的不正義』第 4 章) [1] [2] 。それは、他人の信用を見積もる、身についた第二の天性のような感受性に根ざした性向です。偏見のステレオタイプが信用の判断に及ぼす影響を、打ち消すように働きます [1] 。 私たちは、相手の言葉をどれだけ信じるかを、いちいち推論せず、一瞬の感じで決めています。偏見が入り込むのは、この身についた聞き方です。だから聞き手は、自分の判断に偏見が効いていないかに気づき、効いているなら割り引いた分を戻すように、聞き方そのものを育て直す必要があります (図 3) 。 ① 告げる 話し手が「胸が痛い」と告げる ② 見積もる 聞き手が一瞬で信用を見積もる。偏見が 入り込む所 ③ 気づく 割り引いた理由は言葉の中身か、相手の 集団か ④ 打ち消す 偏見の分を戻して聞き直す(認識の 正義の徳) ⑤ 認める 話し手を知る者として扱う ⑥ 仕組み 同じ問診票を使い、話す場に呼ぶ。 個人の徳だけでは足りない 図 3 信用の判断と、偏見を打ち消す聞き方(『認識的不正義』第 4 章ほか)。②〜④は SEP のフリッカーの徳の説明を本教材が段に分けたもので、②で偏見が入り込むと信用が割り引かれます。点線の⑥はメディナ・アンダーソンの批判にあたります [1] 。「胸が痛い」は本文の作例です。 本教材の作例で考えます。救急の窓口で、二人の患者が同じ「胸の奥が締めつけられるように痛い」と訴えます。一人目はすぐ検査に回されます。二人目は、相手の集団について「大げさに言う」と思い込んだ受付係に待たされます。受付係が「同じ言葉なのに、なぜ二人目を割り引いたのか」と自分に問い、理由が言葉の中身ではなく思い込みだったと気づいて、二人目も検査に回します。これが徳の働きです。医療で証言の不正義が論じられているのは事実で、SEP は、線維筋痛症について医師が語ることが、患者の女性たちへの思い込みのせいで退けられる例を挙げています [1] 。 徳の中身は広げられてきました。ジョーンズは、驚くような証言を聞いたとき、証人の信用と話のもっともらしさを別々に見積もるよう提案しました。証人を疑う自分の疑いにこそ疑う理由があるなら、信じない構えを取り下げよ、というのです。アルコフは、偏見を打ち消すだけでは足りず、抑えられた側の立場からの知に特権を認めるべきだ、としました。開かれた心や、信頼に値することを徳に挙