パスカル――人間は考える葦である(繊細の精神・賭け) — Epoché
近代 大陸合理論 約 17 分 本文 約 6,800 字 図 4・表 2 原典 1 節 この課の要点 尊さ・知り方・賭けの 3 つ 尊さ 人間は自然の中でいちばん弱い葦にすぎず、一滴の水でも死ぬ。だが宇宙が人間を押しつぶしても、人間は自分が死ぬことを知っており、宇宙は何も知らない。だから人間の尊さはすべて考えることにあり、「よく考えるよう努めよう。これが道徳の原理である」とパスカルは書く(『パンセ』L200/B347)。 知り方 順に証明する幾何学の精神と、一目で全体を見て取る繊細の精神は別の働きで、一方に長けた人が他方に長けるとは限らない、とパスカルは書く。最初の原理は理性でなく心で感じ取られるとも言う。形而上学による神の証明には、ほとんど価値を認めなかった。 賭け 神がいるかいないかを理性は決められないが、人はもう船に乗っているので賭けざるをえない。勝てばすべてを得、負けても何も失わないので、神がいるほうに賭けよ、とパスカルは書く(L418/B233)。SEP の筆者クラークは、この議論は信じる者の側から書かれ、信じない人に救いとなる信仰を生ませるものではない、と読む。 はじめに ブレーズ・パスカル(1623〜1662)は、フランスの数学者・自然学者で、キリスト教の思想家です。学校には通わず、数学に通じた父から家で教育を受けました [1] 。若くして円錐曲線の論文を書き、計算機を作り、水銀柱を使った真空の実験で名を上げました。フェルマとの手紙では、賭けの見込みの計算を論じています [1] 。 同じ 1654 年の 11 月 23 日の夜、パスカルは宗教的な回心の体験をしました。その覚え書き『メモリアル』を上着に縫い込み、死ぬまで持ち歩いたことが知られています [1] 。この後、彼は数学から離れ、ジャンセニスムを弁護し、キリスト教を弁護する本の覚え書きを書きためました。覚え書きは死後に『パンセ』(「考えたこと」の意味)として出版されました。 覚え書きの読む順は残されず、編者ごとに並べ方と番号が違います [1] 。この課では、断章の番号を、ラフュマ版(L)とブランシュヴィック版(B)の二つで示します。番号を確かめられなかった断章は、番号を付けずに引きます。 この編のデカルトの課で読んだデカルトは、疑いえない「考える私」から出発し、理性で神の存在まで証明しようとしました。二人は 1647 年 9 月にパリで会い、真空の実験について話しています [1] 。パスカルも考えることを人間の尊さとしましたが、理性だけで神と人間を知り尽くせるとは考えませんでした。 この課の問い 宇宙の中でちっぽけな人間は、何によって尊いのでしょうか。そして、理性では決められない神の問いに、人はどう向き合えばよいのでしょうか。 この課のことば 考える葦 パスカルの言葉。人間は自然の中でいちばん弱い一本の葦にすぎないが、考える葦である、という意味です。弱さと尊さを一度に言い表します。 幾何学の精神 少数のはっきりした原理から、一歩ずつ順に結論を導く心の働き。数学の証明のような進み方です。 繊細の精神 暮らしの中に散らばる、数が多く細やかな手がかりを、一目で見て取る心の働き。人の顔色を読むときの働きに近いものです。 心(クール) パスカルの言う、理性の推論とは別の知る働き。空間や数のような最初の原理は、証明でなく心で感じ取られる、と彼は考えました。 賭け 神がいるかどうかは理性では決められないが、人はどちらかに賭けざるをえない、という『パンセ』の議論。いるほうに賭けるのが得だ、と説きます。 ジャンセニスム オランダの神学者ヤンセンの考えに始まるキリスト教の一派。人間の本性は堕落で損なわれ、救いはただ神の恵みによる、と説きます。 考える葦――弱い人間は、何によって尊く、何によって神に向かうのか パスカルは第一級の数学者・自然学者でしたが、回心の後は、人間とは何か、神にどう向き合うかを、断章の形で書きためました。この章では、考える葦としての人間の尊さ、幾何学の精神と繊細の精神の違い、神がいるほうに賭ける議論、の三つを順に読みます。 考える葦――宇宙より弱く、宇宙より尊い パスカルの最もよく知られた一文から始めましょう。「人間は自然の中でいちばん弱い一本の葦にすぎない。だが、それは考える葦である」(『パンセ』L200/B347) [2] 。弱さと尊さが、一つの文の中で裏返されています。 まず弱さです。人間を押しつぶすのに宇宙全体が武器を取る必要はなく、ひと吹きの蒸気、一滴の水で足りる、とパスカルは続けます [2] 。言われているのは、自然の力の前で人間の命がどれほど脆いか、ということです (図 1) 。 宇宙:押しつぶす力はあるが、何も知らない 一滴の水でも死ぬ いつか自分も死ぬ 人間:弱いが、自分が死ぬことを知っている 葦・蒸気・一滴の水は本人のたとえ 見つめる人と吹き出しは本教材の描き方 図 1 「考える葦」を絵にしたものです(本教材の絵)。嵐の夜空の下で、一本の葦は一滴の水でも折れそうにしなっています。そばに立つ人は、葦と空を見上げながら、いつか自分も死ぬことを知っています。宇宙は押しつぶす力を持ちますが、そのことを何も知りません。 それでも人間は尊い、とパスカルは言います。宇宙が人間を押しつぶすとき、人間は自分が死ぬことを知っています。宇宙のほうは、自分が人間に勝っていることを何も知りません。尊さを分けるのは力の大きさではなく、 知っているかどうか です。だから私たちの尊さはすべて考えることにある、とパスカルは結びます [2] 。 別の断章では、同じ考えが空間の言葉で言い直されます。空間によっては宇宙が私を点のように包むが、考えによっては私が宇宙を包む、というのです(L113/B348) [2] 。広がりで比べれば人間は点にすぎませんが、考えることでは宇宙をまるごと思い描けます。 惨めさについても、パスカルは同じ形で語ります。人間は自分が惨めだと知る点で偉大であり、木は自分が惨めだと知らない、と書いた断章が残ります。王でないことを嘆くのは、王座を奪われた王だけです。王位を失ったペルセウスを人々は不幸と見ましたが、任期を終えたローマの執政官パウルス・アエミリウスを不幸と見る人はいませんでした。嘆きは、本来あるはずのものを失ったしるしだ、というのです。 そこでパスカルは、「よく考えるよう努めよう。これが道徳の原理である」と書きます(L200/B347) [2] 。ここで考えることは、知識を積む技術ではありません。自分の弱さと死を見つめて生きる、という努めです(本教材の読み方)。 ここで間違えやすい 「考える葦」を、人間は考える力で自然を支配できるから強い、という意味に取らないようにしましょう。パスカルの力点は逆で、人間は力ではまったく宇宙にかなわず、そのうえで、知っていることだけが尊さだと言います。また「考える」を、デカルトのような確かな知の土台の意味に取るのも早すぎます。パスカルが言うのは、自分の惨めさと死を知ること、そしてよく考えて生きる努めです(本教材の読み方)。 幾何学の精神と繊細の精神――順に証明する心、一目で見て取る心 パスカルは『パンセ』の断章で、人の心の二つの働きを区別しました。 幾何学の精神 は、少数のはっきりした原理から、一歩ずつ証明を積み上げます。その原理は日常からかけ離れているので目を向けにくいのですが、いったん見れば見落としません。一方、繊細の精神の原理は、誰の目の前にもあります。ただ、とても細やかで数が多いので、一つも見落とさない鋭い目が要ります。この種の事柄は、順に推論するのでなく、一目で見て取らねばならない、とパスカルは書きます (図 2) 。 幾何学の精神 定義 原理 証明1 証明2 結論 少ない原理から順に一歩ずつ 一本道で、順に進む 繊細の精神 多くの細かな手がかりを一目で 大丈夫 手がかりが同時に集まる 図 2 幾何学の精神と繊細の精神を絵にしたものです。二つの精神の区別はパスカル本人のもの、場面は本教材の作例です。一つ目は、定義から結論まで一本道で進む証明の場面です。二つ目は、笑顔・握った手・伏せた目・冷めたカップの手がかりが、見ている人の目に一度に集まる場面です。 二つの働きは互いに欠けやすい、とパスカルは言います。幾何学者は、原理をきちんと定めてからでないと動けないので、繊細の事柄では的を外します。繊細な人は一目で判断するのに慣れているので、無味乾燥な定義から始めることに耐えられません。 教材の作例で考えてみましょう。数学の得意な人が、証明問題なら定理を順に当てはめて見事に解きます。けれども、友人の「大丈夫」という返事が本当に大丈夫なのかは、声の調子、目の動き、いつもとの違いといった小さな手がかりを、一度に感じ取らないと分かりません。これを「前提 1、前提 2、ゆえに」と書き出そうとすると、かえって見誤ります。 幾何学そのものにも限りがあります。パスカルは小論『幾何学的精神について』(1655 年) [1] で、すべてを定義し証明することはできず、証明はどこかで、それ以上は証明できない最初の言葉と原理に行き着く、と論じました。そうした最初の原理は、理性でなく心で知られる、とパスカルは考えます。「心には、理性の知らない理由がある」という言葉も、『パンセ』に残されています。 この見方は、神を知る道にも及びます。デカルトたちとちがって、パスカルは理性の論証で神の存在を証明できるとは考えず、形而上学による証明にはほとんど価値がないと書きました [1] 。「デカルト、無用で不確か」と書きとめた断章も伝わります。 ここで間違えやすい 繊細の精神を、理屈のない勘や気分のことだと取らないようにしましょう。繊細の精神にも原理はあり、それが細やかで多いので、推論の順に並べられないだけです。また、パスカルが幾何学の精神を退けたと取るのも誤りです。彼自身が第一級の幾何学者であり、言っているのは、二つが別の働きで、向く事柄が違う、ということです。 賭け――神がいるほうに賭けて、失うものは何か 『パンセ』で最も長い断章の一つが、いわゆる「賭け」です(L418/B233) [1] [2] 。パスカルはまず、神はいるか、いないか、と問います。神は無限で、部分も限りもありません。だから理性は、ここで何も決められない、とパスカルは言います。投げた硬貨が表か裏か、と同じです [2] 。 それでも賭けねばならない、とパスカルは続けます。それは自分で選べることではなく、「あなたはもう船に乗っている」のです [2] 。教材のたとえで言えば、港に立って乗るかどうかを選べるのではなく、船はすでに沖に出ています。問いは「賭けるかどうか」ではなく、「どちらに賭けるか」になります。硬貨と船に乗っているという言葉はパスカル本人のもの、港や沖の場面は本教材の展開です。 では、どちらに賭けるのが得でしょうか。賭け金は、限りある一つの生です。神がいれば、得るのは無限に幸せな無限の生です。神がいなければ、失うのは限りあるものだけです。勝てばすべてを得、負けても何も失わないのだから、ためらわずに神がいるほうに賭けよ、とパスカルは書きます [2] (表 1) (図 3) 。この損得の比べ方は、フェルマとの手紙で賭けの数学を考えたことと結びついています [1] 。 この表で分かること: 神がいるほうに賭ければ、負けても失うのは限りあるものだけで、勝てば無限を得ます。賭けないという道はありません。 選ぶ道 神がいるなら 神がいないなら いるほうに賭ける 無限に幸せな生を得る 限りあるものを失うだけ いないほうに賭ける 無限の幸せを失う 限りあるものを得るだけ 賭けない(保留) 選べない:もう船の上 選べない:もう船の上 表 1 賭けの損得の表(本教材の整理)。中身は『パンセ』L418/B233 に拠ります [2] 。 神はいるか、いないか 理性は決められない。だが 賭けないことはできない いるほうに賭ける いれば無限を得る。 いなくても失うのは 限りあるもの いないほうに賭ける いれば無限を失う。 いなくても得るのは 限りあるもの 図 3 賭けの分かれ道(本教材の整理)。左右どちらの道も、神がいる場合といない場合で結果が分かれます。得るものが無限なら、いるほうに賭けよ、というのがパスカルの結論です。ただしクラークの読みでは、これは信じる者の側から書かれた議論で、信仰そのものは賭けで生まれません [1] 。 理屈では賭けるべきだと分かっても、信じられない人もいます。パスカルはその人に、信じた人たちがしたように、聖水を受け、ミサをしてもらうなど、信じているかのように振る舞うことから始めよ、と勧めます [2] 。 この議論をどう読むかについては、いくつもの再構成があります [3] 。SEP の筆者クラークは、この議論はすでに神を信じ、その信仰を神の恵みと考える人の側から書かれた、と読みます。示せるのは、信じることが不合理でないということだけで、救いとなる信仰を信じない人に生ませることはできません。パスカルの神学では、信仰は神からの賜物だからです [1] 。また、同じ計算はほかの宗教の神にも当てはまる、という批判があり、ディドロの『哲学断想』がその例とされます [3] 。 ここで間違えやすい 賭けを、神がいることの証明だと取らないようにしましょう。パスカルは、理性は神がいるかどうかを決められない、という所から始めています。示そうとしているのは「いるほうに賭けるのが得だ」ということだけです。また、パスカルがこの計算で人を信仰に導けると考えた、と取るのも早すぎます。クラークの読みでは、パスカルにとって信仰は神の賜物で、推論や賭けでは生み出せません [1] 。 原典を読む 第 1 章の一つ目の節で見た「考える葦」の断章を、続けて読みます。原文はフランス語で、本教材が訳しました。 パスカル『パンセ』L200/B347 人間は考える葦である 『パンセ』の最初の版(ポール・ロワイヤル版、1670 年)では、この断章は「人間の偉大さ」の章に置かれています。弱さから尊さ、生き方へと進む 8 つの文です。 1 人間は、自然の中でいちばん弱い一本の葦にすぎない。だが、それは考える葦である。 2 人間を押しつぶすのに、宇宙全体が武器を取る必要はない。 3 ひと吹