カント――道徳は理性が自分に与える法則である(定言命法・自律) — Epoché
近代 カント 約 17 分 本文 約 7,200 字 図 4・表 2 原典 1 節 この課の要点 意志・法則・自律の 3 つ 意志 無条件に善いのは善い意志だけである。同じ正直な売り方でも、損得から出たものは義務に適うだけで、義務から出たものにだけ、カントは道徳の値うちを認める(『基礎づけ』第 1 章)。 法則 道徳の命令は「〜したいなら」の条件がつかない定言命法である。自分の格率が普遍的な法則になることを同時に意志できるか、で行いを試す(第 2 章、4:421)。 自律 人間性を単に手段としてだけでなく常に同時に目的として扱え、という言い方と、意志が自分に普遍的な法則を与える、という言い方は、同じ法則を表すとされる。道徳の権威は外からでなく、自分の理性から来る(第 2 章、4:432)。 はじめに 前の二つの課では『純粋理性批判』を読み、経験を超えるものを理論の理性で知ることには限界がある、という話を見ました。自由も、理論の理性では知ることのできないものの一つでした。 けれども、何をすべきかを問う場面でこそ理性は力を持つ、とカントは考えました。その考えをまとめた小さな本が、1785 年の『人倫の形而上学の基礎づけ』(以下『基礎づけ』)です [3] 。 この課では、善い意志と義務、定言命法とそれで行いを試す手順、人間性と自律の順に読み、最後に偽りの約束の段落を本教材の要約で確かめます。 箇所は、アカデミー版全集の巻と頁で「4:421」(第 4 巻 421 頁)のように示します [2] 。日本語の書名には『道徳形而上学の基礎づけ』という訳し方もあり、本の紹介ではそちらの題で挙げます [4] 。 この課の問い 前の二つの課で、カントは、経験を超えるものを理論の理性で知ることには限界があり、世界全体を問うときには理性が自分と対立する、と論じました。では、何をすべきかという問いにも、理性は答えられないのでしょうか。損得や気持ちに左右されず、どんな人にも、いつでも当てはまる「べし」はあるのでしょうか。あるとすれば、それは誰が誰に命じるのでしょうか。 この課のことば 善い意志 結果や才能や幸運によらず、それ自体で、無条件に善いと言えるただ一つのもの。カントは『基礎づけ』をこの言葉から始めます。 格率(マキシム) 人が行うときに、実際に従っている自分の方針。「こういうときには、これのために、こうする」という形をとります。 仮言命法・定言命法 仮言命法は「健康でいたいなら、食べすぎるな」のように、目的を前提にした条件つきの命令です。定言命法は、どんな目的を持つかに関わりなく、理性のある意志を持つというだけで当てはまる命令です。 完全義務・不完全義務 完全義務は、自分の気持ちの都合で例外を認めない義務で、「決してしない」の形も「必ずする」の形もとります。不完全義務は、ある目的を自分の目的とし、「ときに、ある程度はする」と求める義務です。 人間性 自分で目的を立て、理性で自分を導く力など、人を人にしている特徴のまとまり。これを常に同時に目的として扱え、とカントは言います。 自律・他律 自律は、意志が自分に法則を与え、それに従うこと。他律は、快や幸福や他人の命令など、意志の外のものが意志に法則を与えることです。 定言命法と自律――損得にも気持ちにもよらない「べし」はあるか 何をすべきかを問う場面では、理性は自分で法則を立てることができる、とカントは考えます [1] 。 善い意志と義務――同じ正直でも、なぜしたかで値うちが変わる 『基礎づけ』第 1 章は、強い一文から始まります。この世界の中でも外でも、無条件に善いと考えられるものは、善い意志のほかにない、というのです(4:393) [2] 。頭のよさや勇気、富や健康も、使う意志が悪ければ、ひどく悪いものになりえます。善い意志は、成しとげたことによってではなく、意志することそのものによって善い、とカントは言います。不運のために何一つ実らなくても、それ自体で値うちを持つ宝石のように輝く、とまで書きます(4:394) [2] 。 では、善い意志はどこに現れるのでしょうか。カントは、義務に適う行いと、義務から出た行いを分けます。カント自身の例です。ある商人は、事情にうとい客にも子どもにも、ほかの客と同じ値で売り、ごまかしません。この売り方は義務に適っています。けれども、それが「ごまかしが知れたら客が離れる」という損得から出たのなら、義務から出たのではありません(第 1 章) [2] (図 1) 。 一つ目の商人 ごまかしが知れたら 客が減る パン 3 銭 義務に適う(損得から) 二つ目の商人 誰にもごまかさないのが 当然だ パン 3 銭 義務から 図 1 外から見れば同じ行いです(『基礎づけ』第 1 章の商人の例による本教材の絵)。一つ目の商人は損得から、二つ目の商人は義務から、同じ値でパンを売り、子どもに正しいおつりを渡します。違うのは頭の中の考えだけで、子どもにはどちらも見えません。パンや値段、吹き出しの言葉は本教材の描き方です。 外から見れば、二人の商人の行いは同じで、客には区別がつきません。違うのは、なぜそうするかという方針、つまり格率です。カントは、生まれつき思いやりがあり、人を喜ばせるのが楽しい人の親切も取り上げます。それは義務に適い、ほめられてよい行いですが、その気持ちだけから出ているなら、まだ道徳の値うちを持たない、とカントは言います(第 1 章) [2] 。 本教材の作例で言い換えます。拾った財布を交番に届ける人が二人いるとします。一人は謝礼が欲しくて、もう一人は持ち主に返すのが当然だと思って届けます。財布は同じように持ち主に戻りますが、カントが道徳の値うちを認めるのは二人目の行いです。 カントはここから、義務とは法則への尊敬から行う必然性だ、と定めます(第 1 章) [2] 。行いの値うちは、それで得たい結果ではなく、行いを決めた格率にあります。結果も気持ちも根拠から外すと、残るのは「法則一般に適う」という形だけです。これが次の節の定言命法につながります。 ここで間違えやすい カントが、行いの結果はどうでもよく、思いやりの気持ちは道徳の邪魔だと考えた、と取るのは誤りです。言われているのは、道徳の値うちの根拠が結果や気持ちにはない、ということです。カントは後の『人倫の形而上学』で、共感の気持ちを育てることを間接の義務とも述べています(徳論 §35、6:457) [5] 。また、義務から行う人は嫌々行う人だ、と取るのも急ぎすぎで、喜んで行うことと義務から行うことは両立しえます(本教材の読み方)。 定言命法――自分の方針が、誰にとっても法則になりうるか 命令には二種類あります。「健康でいたいなら、食べすぎるな」は、健康という目的を持つ人にだけ当てはまる仮言命法です [1] 。道徳の命令は、どんな目的を持つかに関わりなく当てはまる定言命法です。その式をカントは一文で示します。「その格率が普遍的な法則となることを、同時に意志できるような格率に従ってだけ行え」(4:421) [2] 。 SEP はオニールやロールズにならい、式を手順として読みます [1] 。まず自分の格率を言葉にし、次に皆が自然の法則としてそうする形に直します。そして、その世界がそもそも考えられるか、考えられるならその世界でその格率を理性的に意志できるか、を問います。前の問いで行き詰まれば完全義務が、後の問いで行き詰まれば不完全義務が出ます [1] (表 1) 。 この表で分かること: 四つの例は、自分への義務か他人への義務か、完全義務か不完全義務かの組み合わせから一つずつ選ばれています。完全義務は普遍化すると考えることさえできない格率から、不完全義務は考えられても意志できない格率から出ます。 カントの例 義務の種類 退けられる格率 普遍化した格率は 自殺 自分への完全義務 苦しみを逃れるため命を絶つ 考えることさえできない 偽りの約束 他人への完全義務 返せぬと知りつつ約束し借りる 考えることさえできない 才能を眠らせる 自分への不完全義務 才能を伸ばさず楽しみだけに生きる 考えられるが意志できない 人を助けない 他人への不完全義務 困っている人に関わらない 考えられるが意志できない 表 1 『基礎づけ』第 2 章の四つの例(4:421〜423) [2] 。どの段で行き詰まるかの区別は SEP の整理によります [1] 。 偽りの約束で試してみます (図 2) 。返せないと知りながら返すと約束して借りる、という格率を皆の自然の法則にすると、約束を信じる習わしそのものが成り立ちません。ところが、その格率で借りるには、約束を信じる習わしが要ります。約束のある世界とない世界を同時に考えることになるので、この格率は普遍化すると考えることさえできません [1] 。 返せないのは分かっている 来月かならず返します 一人がするとき 約束はまだ信じられる かならず返します 誰も信じない 皆がそうするとき 約束そのものが成り立たない 図 2 偽りの約束を普遍的な法則にしてみます(4:422 の例による本教材の絵)。一つ目の絵では、一人だけが守る気のない約束をし、貸し手はまだそれを信じて金袋を差し出します。二つ目の絵では、皆がそうするのが当たり前になり、約束の言葉はひびの入った空の枠になって、貸し手は相手にしません。約束で借りることそのものが成り立たなくなるのです。金袋や机、並ぶ人々は本教材の描き方です。 才能を伸ばさず楽しみだけに生きる格率なら、皆がそうする世界を考えることはできます。しかし理性ある者として、その世界を意志することはできない、とカントは言います(4:423) [1] 。ただしこの論証は納得しにくく、四つの例の導き方の再構成も解釈者の間で分かれる、と SEP は述べます [1] 。 ここで間違えやすい この式を、「皆がそうしたら困るから、するな」という結果の計算と取るのは誤りです。問われるのは、皆がそうする世界で格率が成り立つか、意志できるかで、悪い結果の大きさではありません [1] 。また、「自分がされたくないことを人にするな」という黄金律と同じだと取るのも誤りです。カント自身、黄金律では自分への義務や人を助ける義務が導けない、と第 2 章の注で退けています [2] 。 人間性と自律――人を単に手段としてだけ扱わない・自分で立てた法則に従う カントは同じ法則を別の言い方でも示します。自分の中の人間性も、ほかの人の中の人間性も、常に同時に目的として扱い、決して単に手段としてだけ扱わないように行え、というものです(第 2 章) [2] 。要は「単に」の一語です。食べ物も服も、多くの人の力を借りて手に入るように、私たちは毎日、人を手段として使っています [1] 。SEP は、馬もタクシーの運転手も移動の手段だが、運転手の人間性は同時に目的として扱わねばならない、と述べます。決まった料金を払うのは、運転手が理性で同意できる扱いの一つです [1] 。払わずに逃げれば、相手が同意できない仕方で、道具としてだけ使うことになります(本教材の作例)。 この尊敬は、成績や地位で度合いの決まる評価ではありません。人が人であるというだけで払われるもので、悪事を重ねた人も、人としての基本の尊敬を失わない、とカントは考えました [1] 。等しい別のもので置き換えられるものには価格があり、置き換えのきかないものには尊厳がある、とも言います(第 2 章) [2] 。 第三の言い方は、すべての理性ある者の意志を、普遍的な法則を与える意志として考えよ、というものです(4:432) [1] 。第一の言い方が法則に従う側から見るのに対し、こちらは法則を与える側から見ます。三つの言い方は、同じ一つの法則を表すとされます [1] (図 3) 。互いを目的として扱い、共通の法則で結ばれる者たちの全体を、カントは「目的の国」と呼びます(第 2 章) [2] 。 定言命法 道徳の法則はただ一つ(4:421) 普遍的な法則の方式 格率を皆の法則にできるか(法則に従う 側から) 人間性の方式 人間性を単に手段としてでなく目的と して扱う 自律の方式 自分の格率で普遍的な法則を与える側に 立つ 自由の問い 本当に自由か:自由の理念の下で行う (第 3 章) 図 3 定言命法の三つの言い方と、その先の自由の問いです(本教材の整理)。三つは同じ一つの法則を表すとされ、自律の言い方は法則を与える側から見ます [1] 。点線の段は、第 3 章と『実践理性批判』に持ち越される問いです。 ここに自律の考えがあります。ルソーの影響を受けたカントにとって、自由とは何の法則にも縛られないことではなく、自分で立てた法則に縛られることです [1] 。快や幸福など意志の外のものに道徳の根拠を置く他律では、誰にでも当てはまる義務を説明できません [1] 。では、私たちは本当に自由なのでしょうか。第 3 章は、理性ある意志は自由の理念の下でしか行えない、と論じます(4:448) [1] 。カントはこの論証に満足せず、『実践理性批判』では、道徳法則に縛られていることを「理性の事実」とし、そこから自律へと逆にたどりました。その成否は今も争われています [1] 。 ここで間違えやすい 人間性の方式を、「人を手段として使ってはならない」という意味に取るのは誤りです。禁じられているのは「単に手段としてだけ」扱うことです [1] 。また「自律」を、各人が好きな規則を自分で決めてよい、という意味に取るのも誤りです。自律の法則は、すべての理性ある者に当てはまる普遍的な法則でなければなりません [1] 。 原典を読む 第 2 節で試した偽りの約束の例を、カント自身の段落で確かめます。ドイツ語の原文は、確かな転写の利用の条件が確かめられないため載せず、本教材の言葉で要約します。訳ではありません。 カント『人倫の形而上学の基礎づけ』第 2 章 偽りの約束を普遍的な法則にしてみる 定言命法の式を述べた直後に、カントは四つの例を挙げます。その二つ目、8 文からなる段落を、本教材の言葉で短くまとめます [2] 。 1 この段落の結論は、守る気のない約束で借りるという方針は、誰にでも当てはまる法則にすると自分と食い違い、成り立たない、ということです。 2 カントが例に取るのは、お金に困り