8.203 近づく者と、遠くを見る者 — 光の筋が、二人を分ける — Epoché
この篇でできるようになること ★ 静けさを音で書く やり方が見える。 ★ 同じ物が向きを変えてくり返される ことに気づける。 ★ 思いが地の文に溶ける ところを見分けられる。 ★ 台詞が短い理由 を言える。 前提 : 8.202 まで。 読む前に ★ この篇は 二人しか出てきません (宿の下働きを除けば)。★ 同じ部屋にいて、 別のことを考えています 。★ 一方は近づこうとし、もう一方は 遠くを見ています 。 どちらの段落か 段落と文の数 一文の語数 ★ 地の文 23 段落・63 文 ★ 17.0 語 ★ 台詞 33 段落・56 文 ★ 7.1 語 ★ 台詞は一文 7.1 語 です。★ 8.201 読編 の台詞より さらに短い ——★ 読 H の中でいちばん短い のがこの篇です。 ★ 短いのは、 話が進んでいないから ではありません 。★ 言えないことがあるから です。★ だから 地の文のほうが長くなります ——★ 言えなかったことが、そこに置かれる のです。 読み方 ★ 音を拾いながら読む 。★ この篇は 静かな場面 ですが、★ 音の語がいくつも出ます 。 ★ 「光の筋」を三度たどる 。★ shaft が 3 回 出ます 。★ そのたびに 向きが違います 。 ★ 「と思った」の無い思いを探す 。★ 地の文なのに、 だれかの心の声に聞こえる文 に印を付ける 。 ★ 台詞だけを続けて読む 。★ 二人がどこですれ違ったか を見る。 原文 原文は別の文書にあります(作品ページの「原文」)。本文は 1474 語、段落は 56 段落(うち台詞が 33 段落)です。いちばん長い文は 50 語です。 ★ 段落の数が四篇でいちばん多い のは、★ 台詞が一行ずつ段落になるから です。★ 段落が多いということは、 目が何度も行を替える ということ です——★ それだけで 読む速さが上がります 。 全訳 原文の全訳です。この課程のために、原文に沿って訳しました。番号は原文の段落の番号で、原文と行き来できます。 辻馬車から降りるとき、そして縁石のところに立ってほかの人たちにおやすみを言っているあいだ、彼女はしばらく彼の腕にもたれていました。彼女は軽く彼の腕にもたれていました。数時間前に彼と踊ったときと同じくらい軽く。あのとき彼は誇らしく、幸せな気持ちでした。彼女が自分のものであることが幸せで、彼女の優雅さと妻らしいふるまいが誇らしかったのです。けれども今、これほど多くの思い出がふたたび燃え立ったあとでは、音楽のようで、見知らぬもののようで、香りを帯びた彼女の体に初めて触れたことが、鋭い欲望の痛みとなって彼の体を走りました。彼女が黙っているのに紛れて、彼は彼女の腕を自分の脇にぴったりと押しつけました。そしてホテルの戸口に立ったとき、二人は自分たちの暮らしと務めから逃れ出た、家庭と友人から逃れ出て、荒々しく輝く心を抱いて、新しい冒険へと二人で駆け落ちしてきたのだ、と彼は感じました。 玄関の広間では、一人の老人が大きな覆い付きの椅子でうたた寝をしていました。老人は事務室でろうそくに火をともし、二人の先に立って階段のほうへ向かいました。二人は黙って老人についていきました。厚いじゅうたんを敷いた階段に、足が柔らかな鈍い音を立てて落ちました。彼女はボーイの後ろから階段を上っていきました。上りながら頭を垂れ、きゃしゃな肩は重荷を負っているかのように丸まり、スカートは体にきつく巻きついていました。彼は彼女の腰に両腕を投げかけて、じっと抱きとめることもできたでしょう。彼の腕は彼女をつかみたいという欲望に震えていて、手のひらに爪を押しつける力だけが、体の荒々しい衝動を抑えていたのです。ボーイは、溶けて垂れるろうそくを直すために階段で立ち止まりました。二人もその下の段で立ち止まりました。静けさの中で、ガブリエルには、溶けたろうが受け皿に落ちる音と、自分の心臓があばら骨を打つ音とが聞こえました。 ボーイは二人を連れて廊下を進み、ドアを開けました。それから、ぐらつくろうそくを化粧台の上に置き、朝は何時に起こせばよいかと尋ねました。 「八時だ」とガブリエルは言いました。 ボーイが電灯のスイッチを指さして、口の中でもごもごと詫びを言いかけたので、ガブリエルはそれをさえぎりました。 「明かりは要らないよ。通りからの明かりで十分だ。それから、ねえ」と彼はろうそくを指さして付け加えました。「その立派な代物を持っていってくれないか、頼むよ。」 ボーイはふたたびろうそくを取り上げましたが、その動きはゆっくりでした。そんな目新しい考えに驚いていたのです。それから口の中でおやすみなさいと言って、出ていきました。ガブリエルは錠をかけました。 街灯からの幽霊のような光が、一方の窓からドアまで、長い一筋になって差していました。ガブリエルはオーバーと帽子を長椅子に投げ出し、部屋を横切って窓のほうへ行きました。気持ちが少し静まるようにと、彼は通りを見下ろしました。それから向き直って、光を背にして整理だんすにもたれました。彼女は帽子とマントを脱いで、大きな回転式の姿見の前に立ち、胴着のホックを外していました。ガブリエルはしばらく間を置いて彼女を見つめ、それから言いました。 「グレタ!」 彼女はゆっくりと鏡から向き直り、光の筋に沿って彼のほうへ歩いてきました。彼女の顔がとても真剣で疲れて見えたので、言葉がガブリエルの唇から出てきませんでした。いや、まだその時ではない。 「疲れているようだったね」と彼は言いました。 「少しね」と彼女は答えました。 「具合が悪いとか、だるいとかではないんだね?」 「いいえ、疲れただけ。それだけよ。」 彼女はそのまま窓のところへ行き、そこに立って外を眺めました。ガブリエルはまた待ち、それから、気後れに負けてしまいそうなのが怖くなって、だしぬけに言いました。 「ところで、グレタ!」 「なあに?」 「あのかわいそうなマリンズを知っているだろう?」と彼は早口で言いました。 「ええ。あの人がどうかしたの?」 「いや、かわいそうなやつだけど、結局のところ、なかなかまともな男なんだ」とガブリエルは作り声で続けました。「貸してあったあの一ソヴリン金貨を返してくれたんだよ。本当に、返ってくるとは思っていなかった。あのブラウンに近づかずにいてくれればいいのにと思うよ。本当は悪いやつじゃないんだから。」 彼は今やいらだちで震えていました。どうして彼女はあんなにうわの空に見えるのだろう。どう切り出せばよいのか、彼には分かりませんでした。彼女も何かにいらだっているのだろうか。彼女が自分のほうを向いてくれさえしたら、自分から寄ってきてくれさえしたら! 今のままの彼女を抱くのは乱暴だろう。いや、まず彼女の目に何か熱いものが見えなければ。彼女の見知らぬ気分を、自分の思うままにしたいと彼は切に願いました。 「そのお金、いつ貸したの?」と、しばらくして彼女は尋ねました。 ガブリエルは、酒びたりのマリンズとその一ポンドについて乱暴な言葉が口をついて出そうになるのを、懸命にこらえました。魂の底から彼女に叫びかけたい、彼女の体を自分の体に押しつぶすように抱きしめたい、彼女を屈服させたいと、彼は切に願いました。けれども彼はこう言いました。 「ああ、クリスマスにね。あいつがヘンリー通りにあの小さなクリスマスカードの店を開いたときだよ。」 彼は怒りと欲望でひどく熱に浮かされていたので、彼女が窓から離れてくる音が聞こえませんでした。彼女は一瞬、彼の前に立ち、不思議そうに彼を見つめました。それから、ふいにつま先立ちになり、両手を軽く彼の肩に置いて、彼に口づけしました。 「あなたって、とても気前のいい人ね、ガブリエル」と彼女は言いました。 ガブリエルは、彼女の突然の口づけと、その言い回しの風変わりさとに喜びで震えながら、彼女の髪に両手を置き、指でほとんど触れないようにして、それを後ろへなでつけ始めました。洗ったばかりなので、髪は細やかでつややかでした。彼の心は幸福であふれんばかりでした。ちょうど彼がそれを願っていたときに、彼女は自分から彼のところへ来たのです。たぶん彼女の思いは、彼の思いと同じ道をたどっていたのだろう。たぶん彼女は、彼の中にある激しい欲望を感じ取り、それから身をゆだねる気持ちになったのだろう。彼女がこれほどたやすく自分のものになった今、どうして自分はあんなに気後れしていたのだろうと、彼は不思議に思いました。 彼は彼女の頭を両手で挟んで立っていました。それから、片腕をすばやく彼女の体に回して引き寄せ、やさしく言いました。 「グレタ、ねえ、何を考えているんだい?」 彼女は答えず、彼の腕にすっかり身をゆだねることもしませんでした。彼はもう一度、やさしく言いました。 「何なのか言ってごらん、グレタ。どうしたのか、分かっている気がするんだ。分かっているかな?」 彼女はすぐには答えませんでした。それから、わっと泣き出しながら言いました。 「ああ、あの歌のことを考えているの。『オーグリムの娘』のことを。」 彼女は彼の腕を振りほどいてベッドへ駆け寄り、ベッドの手すりに両腕を投げかけて、顔を隠しました。ガブリエルは驚きのあまり、しばらくその場に立ちすくみ、それから彼女の後を追いました。姿見の前を通り過ぎるとき、彼は自分の全身の姿を目にしました。幅の広い、ふくらんだシャツの胸、鏡で見るといつも自分でも戸惑ってしまう表情の顔、そしてきらりと光る金縁の眼鏡。彼は彼女から数歩のところで立ち止まって言いました。 「あの歌がどうしたんだい? どうしてあの歌で泣くんだい?」 彼女は腕から頭を上げ、子どものように手の甲で目をぬぐいました。彼が思っていたよりもやさしい響きが、彼の声にこもりました。 「どうしてなんだい、グレタ?」と彼は尋ねました。 「ずっと昔にあの歌を歌っていた人のことを考えているの。」 「それで、そのずっと昔の人って誰なんだい?」とガブリエルはほほえみながら尋ねました。 「祖母と暮らしていたころ、ゴールウェイで知り合いだった人よ」と彼女は言いました。 ガブリエルの顔からほほえみが消えました。鈍い怒りがふたたび心の奥に集まり始め、欲望の鈍い炎が血管の中で怒りを帯びて燃え始めました。 「好きだった人かい?」と彼は皮肉に尋ねました。 「知り合いだった若い男の子よ」と彼女は答えました。「マイケル・フューリーという名前の。あの子はあの歌、『オーグリムの娘』を歌っていたの。とても体が弱かったのよ。」 ガブリエルは黙っていました。この体の弱い若者に自分が関心を持っていると、彼女に思われたくなかったのです。 「あの子の姿がとてもはっきり見えるの」と、しばらくして彼女は言いました。「なんて目をしていたことか。大きな、黒い目! それに、その目に浮かんでいた表情——あの表情!」 「ああ、それじゃあ、きみはその子が好きだったんだね?」とガブリエルは言いました。 「よくあの子と一緒に散歩に出かけたの」と彼女は言いました。「ゴールウェイにいたころにね。」 ある考えがガブリエルの心をよぎりました。 「ひょっとして、だからきみはあのアイヴァーズの娘とゴールウェイへ行きたがったのかい?」と彼は冷ややかに言いました。 彼女は彼を見て、驚いて尋ねました。 「何のために?」 彼女の目に、ガブリエルはばつの悪い思いをしました。彼は肩をすくめて言いました。 「さあね。その子に会うためかもしれないさ。」 彼女は彼から目をそらし、光の筋をたどって窓のほうを黙って見つめました。 「あの子は死んだの」と彼女はやっと言いました。「たった十七で死んだのよ。あんなに若くして死ぬなんて、恐ろしいことじゃない?」 「その子は何をしていたんだい?」とガブリエルは、まだ皮肉な調子で尋ねました。 読んだあとで 一 — 静けさを、音で書く ★ 階段を上る場面を読んでください。 ★ だれも口をききません 。★ それでも 音が三つ書かれます 。 their feet falling in soft thuds on the thickly carpeted stairs Gabriel could hear the falling of the molten wax into the tray and the thumping of his own heart against his ribs ★ 足音・溶けたろうの落ちる音・自分の心臓 。★ 三つめが いちばん小さい音 です。★ その小さい音が聞こえるということは、 あたりが静かだということ です。 ★ 「静かだった」と書くより、 小さい音を書くほうが静かになります 。★ 5.41 聞編 で 「息の長さは場面が決める」 と置きました 。★ ここでは 音の大きさが場面を決めています 。 ★ ろうそくは、この篇に 5 回 出ます 。★ 下働きが火をつけ、溶けたろうを直し、 最後に持って出ていきます 。★ 灯りが去ったあとに残るのが、 街灯の光の筋 です。 二 — 光の筋が、向きを変えて三度出る ★ shaft (細長く伸びたもの)が 3 回 出ます 。★ 一度めは、 部屋を横切る線として置かれます 。 A ghostly light from the street lamp lay in a long shaft from one window to the door ★ 二度めは、 妻がその線に沿って夫のほうへ歩いてきます 。 She turned away from the mirror slowly and walked along the shaft of light towards him ★ 三度めは、 同じ線に沿って、逆へ目を向けます 。 She looked away from him along the shaft of light towards the window in silence 何度めか だれが動くか 向き ★ 一度め ★ だれも動かない ★ 窓から戸口へ ★ 二度め ★ 妻 ★ 夫のほうへ ★ 三度め ★ 妻の目 ★ 窓のほうへ ★ 同じ一本の線の上で、 向きが入れ替わります 。★ 近づいてきた人が、 同じ道を通って遠くを見る 。★ 説明は一行もありません ——★ 向きだけで書かれています 。 三 — 思いが、地の文に溶ける ★ 地の文の中に、 だれかの心の声に聞こえ