プラトン――愛は美そのものへと昇っていく(エロース) — Epoché
古代 ソクラテスとプラトン 約 22 分 本文 約 9,400 字 図 4・表 2 原典 1 節 この課の要点 欠如・上昇・生成の 3 つ 欠如 作中のソクラテスがディオティマから聞いたと語る話では、エロースは美しいものと善いものを欠いているから、それを求める。だから美しくも醜くもなく、神でも人間でもない「間」のダイモーンであり、知恵と無知の間にいて知を求める哲学者である(201e–204b)。 上昇 正しく導かれた者は、一つの美しい体への愛から始めて、すべての体の美、魂の美、営みと法の美、知の美へと昇り、最後に「突然」、生じも滅びもしない美そのものを見る(210a–211b)。すべての愛が必ず昇るのではなく、正しく導かれた愛の話である。 生成 愛が求めるのは善いものがいつまでも自分のものであることで、死すべき者はそれを、美しいものの中で生むことで目指す(206a–207a)。体に宿す者は子を、魂に宿す者は知恵と徳、詩や法を生む(208e–209e)。後代の「プラトニック・ラヴ」の語は、この話をそのまま言い表すものではない。 はじめに 『饗宴』は、悲劇詩人アガトンが悲劇の競演で勝った祝いの宴を舞台にした対話篇です(173a、174a) [1] 。宴に集まった人々は、順にエロースを讃える話をしようと決めます。エロースは愛の神の名であり、同時に、人が誰かや何かを恋い慕う強い欲求のことでもあります。 話全体は、その場にいたアリストデモスから聞いた宴の様子を、アポロドロスが友人たちに語り直すという枠に入っています(172a–174a) [1] 。アポロドロスは、ソクラテスにも一部を確かめたと言い添えます(173b)。私たちが読むのは、何重にも包まれた話だということです。 ソクラテスの番が来ると、彼は自分の考えを一から述べるのではなく、マンティネイアの女性ディオティマから愛のことを教わった、と語り始めます(201d) [1] 。作中では、彼女は犠牲についての助言でアテナイの疫病を十年遅らせた人物として紹介されます。ただし、ディオティマが実在したかどうかは分かっていません。そして話を終えたソクラテスは、自分もこの話に納得し、ほかの人も説得しようとしている、と言います(212b) [1] 。 プラトン自身は、どの対話篇にも話し手として現れません [2] 。ですからこの課では、どの言葉が誰の口から出たのかに気をつけながら読みます。読むのはディオティマの話の三つの柱です。愛は欠けているから求める、という出発点。一つの美しい体から美そのものへと昇る道筋。そして、愛は美しいものの中で「生む」ことを求める、という考えです。 この課の問い 人を好きになるとき、私たちは本当は何を求めているのでしょうか。目の前のこの人の美しさを求めることは、もっと大きな何かへの憧れの始まりにすぎないのでしょうか。そして、愛は人に何を生み出させるのでしょうか。 この課のことば エロース 恋い慕う強い欲求、またそれを神とした愛の神のことです。『饗宴』では、宴の客たちがこの神を讃える話を順にします。 間(メタクシュ) 二つのもののあいだにあることです。美しくも醜くもなく、知者でも無知な者でもない、というエロースのあり方を言います。たとえば正しい思わくは、知恵と無知の間にあるとされます。 ダイモーン 神と人のあいだにいて、人の祈りを神々に、神々の命令を人に取り次ぐ霊的なものです。ディオティマはエロースを、神ではなく大いなるダイモーンだとします。 愛の階梯 一つの美しい体への愛から、美そのものへと一段ずつ昇っていく愛の道筋のことです。作中では「階段の段を使うように」昇ると言われます(211c)。 美そのもの いつもあり、生じも滅びもせず、誰にとっても、どこでも美しい、ただ一つの美です。美しい体や魂は、これにあずかって美しいとされます。 美しいものの中で生む 体や魂に宿したものを、美しい相手のもとで生み出すことです。ディオティマは、これを愛のはたらきだとします。 エロースと美の階梯――愛は何を求め、どこへ向かうのか この編のイデアの課で、作中のソクラテスは、移ろう見えるものの奥に変わらないイデアがあると語りました。では人はなぜ、わざわざそこへ向かおうとするのでしょうか。前の課の『国家』では、理知が国と魂を治めることが論じられました。『饗宴』は向きを変え、人を動かす欲求そのもの、つまり愛から、この問いに答えようとします。 宴の初めに、ソクラテスは、自分は愛のことだけは知っていると述べていました(177d) [1] 。SEP は、この「知っている」を、問いを重ねて相手と語り合う技のことだと読みます [3] 。そのソクラテスが、ほかの客たちの話を聞いたあと、自分の番でディオティマの教えを語り始めます。 愛は欠けているものを求める――エロースは美しくも醜くもない「間」のもの 出発点は、ソクラテスとアガトンの問答で得た同意です(199c–201c) [1] 。愛は何かへの愛であること。そして人は、欠けているものを欲することです(200a–b)。いま持っている健康や富を欲するように見える人も、それを「これからも」持っていたいと望んでいるのだ、と説明されます(200c–e)。アガトンはエロースを最も美しい神として讃えました。しかしエロースが美しいものを欲するのなら、エロース自身は美を欠いていることになります(201a–c)。 では、エロースは醜く悪いのでしょうか。ディオティマは、美しくないものが必ず醜いわけではない、と答えます(201e–202b) [1] 。例に挙がるのは正しい思わくです。理由を示せないので知とは言えませんが、本当のことに当たっているので無知でもありません。それは知恵と無知の「間( μεταξύ )」にあります(202a)。 出発点 愛は何かへの愛で、欠けているものを 欲する(200a–e) 美しくも醜くもない 美を欠くから求めるが、欠けは 醜さではない(201e–202b) 神でも人でもない 神と人の間を取り次ぐダイモーン (202d–203a) 知者でも無知でもない 欠けを知って知を愛し求める=哲学者 (204a–b) 図 1 ディオティマの「間」の理屈の流れです(本教材の整理)。欠けているから求める、という出発点から、エロースは美と醜、神と人、知者と無知な者の、それぞれの間に置かれます。 同じ形の理屈が、さらに二度くり返されます (図 1) 。神々は幸福で美しく、善いものと美しいものを持つ者です(202c–d)。それを欠いて欲するエロースは神ではありません。けれども死すべき人間でもなく、その間の「大いなるダイモーン」で、人と神々のあいだを取り次ぎます(202d–203a) [1] 。また、神々や知者はすでに知恵を持つので知を求めず、無知で自分に満足している者も求めません。知を求めるのはその間にいる者で、エロースは知を愛する者、つまり哲学者だとされます(203e–204b)。 ディオティマは、エロースの生まれも物語ります(203b–d)。アプロディテが生まれた日の神々の宴で、工夫の神ポロスが神酒に酔ってゼウスの庭で眠っていると、貧しさの女神ペニアがそのそばに横たわりました。生まれたエロースは母に似ていつも貧しく、裸足で家もなく、戸口や道ばたで寝ます。けれども父に似て、美しいものと善いものをねらい、策をめぐらし、一生知を求め続けます。 SEP は、『リュシス』にも同じ考えがあると指摘します(218a–b) [3] 。自分の知らなさに気づいている者だけが知を求める、という考えです。ソクラテスの問答は、相手にこの欠けを気づかせて知への飢えを生みます。SEP はそれを愛の技の一部と読みますが、問答だけではその飢えを満たせない、とも言います [3] 。 ここで間違えやすい 「エロースは美しくない」を、愛は醜く悪いものだ、と取らないようにしましょう。ディオティマは、美しくないことと醜いことを分け、エロースは欠けているからこそ求める「間」のものだと言います。もう一つ、作中のソクラテスは、この話をディオティマから教わり、自分も納得した話として語ります(201d、212b)。伝聞の形だからといって、作中のソクラテスが賛同していないわけではありません。ただし、これを歴史上のソクラテスやプラトン本人の考えとそのまま同じと見るのは避けます。 愛の階梯――一つの美しい体から美そのものへ ディオティマは、ここまでの話を秘儀の入口にたとえ、ここからが「最後の、いちばん奥の秘儀」だと言います(209e–210a) [1] 。ソクラテスがそこまでついて来られるか、という留保も付けます。正しく導かれる者は、若いうちに一つの美しい体を愛し、そこで美しい言葉を生みます(210a)。次に、ある体の美はほかの体の美と兄弟のようだと気づき、すべての美しい体を愛して、一つへの激しい執着をゆるめます(210a–b)。 続いて、魂の美を体の美より尊いと見ます(210b–c)。さらに営みと法の美(210c)、さまざまな知の美へと進み(210c–d)、「美の大海原」へ向き直って、豊かな言葉と思考を生みます(210d)。そのうちに、美についてのただ一つの知を見て取ります。そして「突然( ἐξαίφνης )」、驚くべき美を見るのです(210e) [1] (図 2) 。 愛の階梯(『饗宴』210a–211c) 上へ:見る範囲が広がる 突然、見る(210e) 一つの美しい体 すべての美しい体 魂の美 営みと法の美 知の美 美そのもの 愛する者 導き手 本教材の象徴図 図 2 愛の階梯を絵にしたものです(本教材の絵)。六つの段は本教材が 210a–211c を整理したもので、原典が六段に番号を付けているのではありません。光は美そのものの象徴で、原典が目に見える光を美そのものとしたという意味ではありません。導き手は「正しく導かれれば」(210a)を表します。 この美そのものは、否定を重ねて語られます(211a–b)。生じも滅びもせず、ある点や時や場所や人にとってだけ美しいのでもありません。顔や手のような体の形として現れるのでもありません。この語り方は、この編のイデアの課で見たイデアの記述と重なります [4] 。ただし『饗宴』のこの箇所では、「イデア」の語でなく「美そのもの」と言われます。 段の数え方には注意が要ります。本教材は 210a から 211c までを合わせ、魂の美も独立させた六段で整理しました (表 1) 。ディオティマ自身が 211c でまとめる要約では、一つの体から二つへ、二つからすべての体へ、そこから美しい営み、美しい学び、美そのものの学びへと進み、魂の美は明示されません。魂の美が営みの段にまとめられていると見るのは、本教材の解釈です。 この表で分かること: 段を昇るごとに、愛する対象は一つから多くへ、見えるものから見えないものへ移り、生むものも言葉から本当の徳へと大きくなります。 段 愛する対象 生むもの その段での気づき 第 1 段(210a) 一つの美しい体 美しい言葉 この人が美しい 第 2 段(210a–b) すべての美しい体 (本文に明記なし) 体の美はどれも兄弟 第 3 段(210b–c) 魂の美 若者をよくする言葉 魂の美は体より尊い 第 4 段(210c) 営みと法の美 (本文に明記なし) 体の美は小さなこと 第 5 段(210c–d) 知の美 豊かな言葉と思考 美の大海原に向かう 第 6 段(210e–211b) 美そのもの 本当の徳(212a) 突然、驚くべき美を見る 表 1 六段は本教材が 210a–211c を合わせて整理したものです。211c の要約は一つ・二つ・すべての体・営み・学び・美の学びと進み、魂の美を明示しません。 段を昇る力について、SEP は、一つの体の美が多くの美の一つだと分かる「知る側の発見」が、一つへの執着をゆるめる「欲する側の変化」を伴う、と読みます [3] 。では、昇った人は最初に愛した人を捨てるのでしょうか。多くの読者はそう読み、相手は梯子の最初の段にすぎないと批判してきました。SEP はこれに反対し、変化は比べての変化だと読みます。かつて過大に評価していた相手を、いまは適切に評価する。適切に評価することも、評価することです [3] 。この点には論争があり、本教材は SEP の読みを取ります。 本教材の作例で考えてみます。美術館で一枚の絵に心を奪われた人が、毎日通ううちに隣の部屋の絵にも同じ響きを見つけ、やがて描いた人の生き方や、色と形の学問へと関心を広げていく。最初の一枚は「この一枚だけ」ではなくなりますが、嫌いになったのでもありません。ただし原典の出発点は、絵でなく一人の人への愛です。 ここで間違えやすい 「愛の階梯」を、人への愛を捨てて抽象的なものだけを愛せ、という教えと取らないようにしましょう。本文は、一つへの激しい執着をゆるめ、小さなことと思うようになると言うのであって(210b)、愛するのをやめるとは言いません。また、これは「正しく導かれた」愛の話です。SEP は、ソクラテスを愛したアルキビアデスが美そのものへ達していないことを挙げ、すべての愛が必ず昇るわけではないと注意します [3] 。 愛は何を生むか――美しいものの中で生み、不死を求める ディオティマによれば、愛とは、善いものがいつまでも自分のものであることを求めることです(206a) [1] 。そのはたらきは「美しいものの中で生む( τόκος ἐν καλῷ )」ことだとされます(206b)。すべての人は体においても魂においても身ごもっていて、ある年ごろになると生みたいと望みます(206c)。そこで愛は、美しいものへの愛というより、美しいものの中で生むことへの愛だ、と言い直されます(206e)。 なぜ生むのでしょうか。生むことは、死すべき者にとっての永遠、つまり不死に近づく道だからです(206e–207a)。ディオティマは生き物の例を挙げます。獣も鳥も子を生む時期には激しく駆られ、子を育てるために、いちばん弱いものでも強いものと戦い、子のために飢えることもいといません(207a–b)。それは、死すべきものの本性が、できるかぎり不死であることを求めるからだ、と彼女は答えます(207c–d)。 人もまた、入れ替わることで同じに保たれる、とディオティ