シェリング――自然は目に見える精神である(自然哲学・同一哲学) — Epoché
近代 ドイツ観念論 約 17 分 本文 約 7,100 字 図 4・表 2 原典 1 節 この課の要点 自然・精神・同一の 3 つ 自然 自然は、法則に従って動かされるだけの物の集まりではなく、休みなく生み出す働き(生産性)である。目に見える物は、その働きが自分を押しとどめてできる一時の形で、SEP はこれを川の渦にたとえる(全集 I/3, 284)。 精神 心と物質の間にどれほど細かい中間の物を入れても、いつかは両者が一つになる所に行き当たる(全集 I/2, 53)。だから「自然は目に見える精神、精神は目に見えない自然であるべきだ」とシェリングは言う(『自然哲学の理念』序論)。 同一 同一哲学では、自我は出発点でなく結果である。心と自然は、一つの同じ実体の二つの見方である(全集 I/6, 501)。それは区別を消すだけの「夜」ではない、とシェリング自身が述べている(全集 I/4, 403)。 はじめに シェリングは 1775 年、ドイツ南西部に生まれ、テュービンゲンの神学校でヘーゲルやヘルダーリンと学び、20 代の前半にはもうイェーナの大学で教えています [1] 。 シェリングが向き合ったのは、カントが残した問題でした。自然と、自由に知り決める主観を別の領域に分けたまま、両者のつながりを説明していない、という問題です [1] 。 前の課で読んだフィヒテは、この問題に自我の側から答えようとしました。若いシェリングも初めはこの言葉で考えましたが、やがて自然の側から問い直します [1] 。 この課では、1797 年ごろからの自然哲学と、1801 年からの同一哲学を読みます。原典を読むでは、『自然哲学の理念』序論の結びの三文を訳します。 この課の問い 前の課で、フィヒテは「自我」から出発し、自然を、自我に向き合う「非我」として説明しました。けれども、考える私たち自身も、生まれて育つ自然の一部ではないでしょうか。法則に従うだけの自然から、どうして、知り、自分で決める心が生まれてくるのでしょうか。自然と心は、本当に別のものなのでしょうか。 この課のことば 自然哲学 ドイツ語で Naturphilosophie 。自然を、法則に従う対象としてだけでなく、自分で形を生み出し、ついには心まで生み出す働きとして考える、シェリングの哲学の一部門です。1797 年ごろから展開します。 生産性と所産 自然そのものは休みなく生み出す働き(生産性)で、私たちが見る石や植物は、その働きが自分を押しとどめてできた一時の形(所産)だ、という区別です。 極性 磁石の北極と南極のように、反対のものが切り離せずに一つの中にあるという仕組みです。 ポテンツ(勢位) 内に対立を抱えながら、自然が段を上るように高まっていく、その一つ一つの段です。上の段では生命が、さらに意識が現れます。 絶対的同一性 主観と客観、心(観念的なもの)と自然(実在的なもの)が、分かれる手前で一つであることです。両者は一つの同じ実体の二つの見方だ、とシェリングは言います。 同一哲学 1801 年から 1809 年の少し前までのシェリングの立場です。自我を出発点にせず、すべてを絶対的同一性から考えます。 自然哲学と同一哲学――自然と心は本当に別のものか カントは、自然を、必然の法則に従う現象の世界としました。そして、自由に判断し、自分の行いを自分で決める主観を、それとは別の領域に置きました [1] 。しかし人間も自然の一部なら、法則に縛られた自然から、どうして法則を超えて知り、決める主観が生まれるのでしょうか。カントはこの成り立ちを説明していない、というのが若いシェリングの出発点です [1] 。この章では、生み出す働きとしての自然、目に見える精神としての自然、心と自然の絶対的同一性を、順に読みます。 生み出す自然――物は流れの中の渦である 自然科学は、決まった法則を見つけるために、自然を、知る主観に向き合う対象として固めます。シェリングによれば、この固め方では、自然の中で生きて動く力が説明から漏れてしまいます。私たち自身の体の中で働く力も、その一つです。カント自身も『判断力批判』で、自分で自分を形づくる生物に目を向けていました [1] 。 そこでシェリングは、自然そのものを 生産性 、つまり休みなく生み出す働きとして考えます。SEP が引く一節は、こう論じます。「対象は、どれもほかのものに条件づけられているので、決して無条件ではない。だから自然の中には、それ自体は対象にならないものを置かねばならない。この、まったく対象にならないものこそ、自然のもともとの生産性である」(全集 I/3, 284、英訳からの本教材の訳) [1] 。 生産性は、それ自体の姿では決して現れません。現れるのは、働きが自分を押しとどめてできた 所産 だけです。私たちが見ている一本の木は、働きそのものではなく、働きが一時とどまった姿です(本教材の例)。カントの物自体と現象の分け目は、この事情から生じる、とシェリングは考えます [1] 。 自然は生み出す働き、物はその中の渦 流れ=生産性:それ自体は形に現れない 渦=所産:水は替わっても形は残る 端の小さな渦:所産は完成しない 渦はSEPのたとえ、葉は本教材の描き方 図 1 川の渦のたとえです(SEP の説明に借りた、本教材の絵)。流れが自然の生産性、渦がその所産に当たります。中の水は入れ替わっても形はしばらく残り、端の小さな渦は、所産が生まれてはほどけ、完成しないことを示します。 所産は、それだけで完成することがありません。SEP はこれを川の渦にたとえます。渦の中を流れる水は入れ替わり続けるのに、流れが自分自身に逆らう動きによって、渦はしばらく同じ形を保ちます [1] (図 1) 。橋の上から落ち葉を一枚落とせば、葉は渦に吸い込まれ、何回か回って下流へ去るでしょう(本教材の作例)。石も木も私たちの体も、このような一時の形だというのです。 自然が定まった形になるには、自分を押しとどめねばなりません。だからシェリングは、自然の説明の原理を「普遍的な二元性」と呼びます(全集 I/3, 277) [1] 。内に対立を抱えるので、自然は決して静止に行き着きません。この対立を含んだ段を ポテンツ と呼び、自然はその段を上っていきます [1] 。 ここで間違えやすい 自然哲学を、観察や実験を捨てて自然を空想で語る試みだと取らないようにしましょう。シェリングが問題にしたのは、法則を探すために自然を対象として固めるやり方では、生きた力が説明から漏れる、という点でした [1] 。また「自然は生産性である」を、自然の中に人のような意図や魂が宿る、という意味に取るのも行き過ぎです。生産性は、まず、どの対象にも還元されない働きを指します(本教材の読み方)。 自然は目に見える精神――心と物質が一つになる所 次にシェリングは、私たちが自然を知ることそのものを説明しようとします。私たちは、意志とは関わりなく在る世界を知り、しかもその世界に意志で働きかけられます。だから物そのものと心の中の表象は、まったく別のものではありえません [1] 。 シェリングはこう書きます。「心と物質の間に、だんだん細かくなる移り変わりの物を、好きなだけ押し込むことはできる。だがいつかは、心と物質が一つになる点か、長く避けてきた大きな飛躍が避けられなくなる点が、来るはずだ」(SEP が引く全集 I/2, 53、英訳からの本教材の訳) [1] 。その答えが、原典を読むで読む「自然は目に見える精神」の一文です [2] 。 本教材では、これを同じ全体を逆の二つの向きから描いたものと整理します。自然哲学は、自然から出発し、生命を経て意識へと上ります。1800 年の『超越論的観念論の体系』は、逆に自我の側から、自己意識がどう成り立ってきたかの歴史をたどります。そこでも、物質の自然を生む初めの段は「無意識」で、それが生命へ、意識と自己意識へと進みます [1] (図 2) (表 1) 。 物質 無意識の初めの段。自然が形を とり始める 対立を含む段 磁石のように、反対の極を内に抱える 生命 自分で自分を形づくる有機体 意識 自然が、自分を知る者を生む 自己意識 自然を調べる人。ここで自我が成り立つ 芸術 意識して作り、作品に無意識が現れる 図 2 自然哲学が描く、自然から意識への上り道です(本教材の概略図)。段の名と数は著作ごとに違い、特定の一箇所の並びを写したものではありません。上から下へ段が高まり、点線の段は、この課の主題の先にある芸術です。 この表で分かること: 自然哲学と超越論的観念論は、同じ全体を逆の向きから描き、同一哲学は、その両方の手前に心と自然の同一を置きます。自我の位置が、出発点から結果へと移っていきます。 立場 主な著作と年 どこから出発するか 自我の位置 自然哲学 『自然哲学の理念』1797 ほか 生み出す働きとしての自然 自然の段の上に生まれる 超越論的観念論 『超越論的観念論の体系』1800 自我と自己意識の歴史 歴史をふり返って自分を知る 同一哲学 『わが哲学体系の叙述』1801 主観と客観の絶対的同一性 出発点でなく結果 表 1 シェリングの若い時期の三つの立場(本教材の整理)。自我の位置の欄は SEP の説明によります [1] 。 小さな種が芽を出し、赤ちゃんが育って「わたし」と言い、やがて種がなぜ芽を出すのかを調べる人になります。シェリングの標語は、この一続きを初めから一つの働きとして見よ、という言い方だと読めます(本教材の作例)。ただし SEP は、この時期のシェリングがスピノザ寄りとフィヒテ寄りの道の間で揺れていた、とします [1] 。 この課の主題の先で、シェリングは、意識の対象にならないものに近づく道を芸術に見て、芸術を哲学の「唯一の真の永遠の器官」と呼びます(全集 I/3, 627) [1] 。 ここで間違えやすい 「自然は目に見える精神」を、自然は私たちの心が作った見かけにすぎない、という意味に取らないようにしましょう。シェリングは、心と自然のどちらかをもう一方に引き戻したのではなく、両者が別々のものではありえない、と論じたのです [1] 。また図 2 の並びは、自然がこの順に進化したという記録ではなく、本教材の概略です。 絶対的同一性――心と自然は一つのものの二つの見方 1801 年の『わが哲学体系の叙述』から、1809 年の『人間的自由の本質』の少し前までを、シェリングの 同一哲学 の時期と呼びます [1] 。この立場は、自己意識をもつ自我は、フィヒテのように体系の全体を導き出す最初の働きではなく、結果として見られねばならない、という確信から生まれます [1] 。これはスピノザに近づく向きです。ただし問いは変わらず、純粋に客観的な自然から、どうして主観が生まれるのかです [1] 。 1804 年ごろの著作で、シェリングは、真理を主観と客観の「一致」とする説明を退けます。「一致として説明するとき、主観と客観は、すでに別々のものとして前提されている。異なるものだけが一致でき、異ならないものは、それ自体で一つだからである」(全集 I/6, 138) [1] 。判断が成り立つには、判断で分けられ、また結びつけられるものが、どこかで初めから同じでなければなりません [1] 。 一本の磁石 両端に砂鉄が集まる N S 北と南は反対なのに離れない 二つに切ると ! N S N S どこで切っても両極がまた現れる 図 3 磁石の両極です(本教材の絵)。一つ目は一本の磁石で、北と南は反対なのに切り離せません。二つ目はそれを二つに切った場面で、どちらの短い磁石にもまた両極が現れます。磁石を自然の手本とするのは SEP の説明によります [1] 。 磁石は、もとは自然哲学の手本です。北極と南極は反対なのに、互いから切り離せません [1] 。磁石を二つに切っても、それぞれにまた両極が現れます (図 3) 。反対のものが、ばらばらの二つの物の間にでなく、一つのものの中にあるという形は、同一哲学を思い描く助けになります(本教材の読み方)。 だから心と体の関係も、原因と結果ではありません。心の出来事は体の出来事なしには起こりませんが、体の結果に還元されもしません。「実在的なものと観念的なものは、一つの同じ実体の異なる見方にすぎない」からです(全集 I/6, 501) [1] 。シェリングは地球を例にとります。地球の中の数えきれない物のほかに、それらをまとめる別の地球があるわけではありません。多くの物である同じものが一つであり、その結びつきが地球の存在だ、と言います(全集 I/7, 56) [1] 。 ヘーゲルは『精神現象学』で、この絶対者を「すべての牛が黒くなる夜」と皮肉りました。しかしシェリングは、それより前に、多くの人には絶対者が区別を消すだけの夜に見えると認め、その夜を知の昼に変えたい、と書いていました(全集 I/4, 403) [1] 。SEP は、ヘーゲルの読み方は当たらないとします [1] 。 ここで間違えやすい 同一哲学を、「すべては結局同じで、区別には意味がない」という主張だと取らないようにしましょう。シェリングの論点は逆です。私たちは判断を誤り、それを正します。正した判断と誤った判断が同じ一つの世界についての判断だと言えるのは、絶対的同一性を前提するからだ、というのです [1] 。また同一哲学は、シェリングの最後の立場ではありません。1809 年の『人間的自由の本質』から、後期の哲学へ進みます [1] 。 原典を読む 第 1 章の二つ目の節の標語を、『自然哲学の理念』序論の結びで読みます。ドイツ語の原文から本教材が訳しました。 シェリング『自然哲学の理念』序論の結び 自然は目に見える精神、精神は目に見えない自然 すぐ前でシェリングは、外に自然が在るだけでは、自然の観念が私たちの内にあることは説明されない、と述べます。自然は精神の法則とたまたま合うのでなく、その法則を自ら必然に実現するのでなければならない、と求めます [2] 。それを一文にしたのが次の段の初めです。 原文で強調された「ここ」「内」「外」の 3 語は、読みどころで示します。 1 自然は目に見える精神であり、精神は目に見えない自然であるべきだ。 2 だからここで、つまり私たちの内なる精神と、私