クセノパネス――人は神々を自分に似せて描く(擬人神観の批判) — Epoché
古代 ソクラテス以前の哲学 約 17 分 本文 約 7,000 字 図 4・表 2 原典 1 節 この課の要点 ふるまい・姿・本性とその知りえなさの 3 つ ふるまい ホメロスとヘシオドスが、盗み・姦通・欺きのように人間のあいだで恥とされることを、すべて神々に負わせたと批判しました。 姿 人は、神々が生まれ、自分と同じ衣服・声・体をもつと思う、と詠みました。牛や馬に手があれば牛や馬に似た神を描くだろう、とも詠み、民族ごとに神の姿が描く者に似る、という句も伝わります(擬人神観の批判)。 本性とその知りえなさ 「一なる神」は姿も思いも人に似ず、動かずに心の思いで万物を揺り動かす、と詠みました。その神々について確かなことを見た人はおらず、人にあるのは思わくだ、とも詠んでいます。 はじめに クセノパネス(前 570 年ごろ〜前 478 年以後、研究者の目安)は、イオニアの小さな町コロポンに生まれた詩人です。年代は確かではありませんが、自作の詩から、92 歳を過ぎても生きていたと計算されます [1] 。故郷を追われたあとは、シチリアのザンクレやカタネに住みました。コロポンの建設や、南イタリアのエレアへの植民を歌う詩も作った、とディオゲネス・ラエルティオスは伝えます(『哲学者列伝』IX.18・20、以下 DL) [2] 。 クセノパネスは、自作の詩を自分で朗誦して回りました。叙事詩の韻律や哀歌などの形で、ホメロスとヘシオドスが神々について語ったことを攻撃した、と伝えられます(DL IX.18) [2] 。25 歳のときから 67 年のあいだ、自分の思いをギリシアの地じゅうに投げ回してきた、と詠んでいます(DL IX.19、DK 21 B 8) [2] [9] 。著作はまとまっては残らず、後の人が引用した詩の断片だけが伝わります。断片集では 45 を数えます [1] 。 前の課では、打たれる子犬の鳴き声に知人の魂を聞いたというピュタゴラスを、クセノパネスが詩でからかったことを見ました(DL VIII.36、DK 21 B 7) [2] 。ミレトスの三人やピュタゴラス派は、世界が何からどう成り立つかを問いました。この課では、人々が神々をどう語ってきたかを問い直した詩人を読みます。 この課の問い 人は神々を、どんな姿とふるまいで思い描いてきたのでしょうか。その姿が描く者自身に似ているとしたら、神そのものについて、人は何を言えるのでしょうか。 この課のことば 擬人神観 神を人間の姿や性質に似せて思い描く見方。後の時代の呼び名で、クセノパネス自身の語ではありません。 断片 失われた著作から、後の人が引用したおかげで残った一節。「DK 21 B 15」は、ディールスとクランツの断片集の第 21 章(クセノパネス)にある、本人の言葉の 15 番という意味です。A は他人による報告です。 ホメロスとヘシオドス 前 8〜7 世紀ごろの叙事詩人。『イリアス』『オデュッセイア』や『神統記』などで神々の物語を語り、ギリシア人の教養の土台になりました。 死すべき者 人間のこと。いつか死ぬ人間を、死なない神々と対比して呼ぶ、詩の言い方です。 一なる神 クセノパネスが「神々と人間のうちで最も大いなる」と詠んだ神。唯一の神の意味か、最も大いなる一柱の意味かは、研究者のあいだで分かれます。 思わく(ドコス) 確かめられた知ではなく、そう思われている考え。クセノパネスは、確かなこと(サペス)と対比してこの語を使います。 神々の姿――人が描く神は誰に似ているか 詩人の神々――盗み・姦通・欺き クセノパネスが攻撃したのは、ギリシア人の誰もが学んだ二人の詩人、ホメロスとヘシオドスの語る神々です。断片 B11 は、 人間のあいだで恥とされ、非難されることを、二人はすべて神々に負わせた と言います。盗むこと、姦通すること、互いに欺き合うこと、です(DK 21 B 11、懐疑派のセクストス・エンペイリコス『学者たちへの論駁』IX.193、以下 M) [4] [9] (図 1) 。 人間のあいだでは 盗む 姦通する 欺き合う 恥・非難の的になる 人のあいだの評価(B11) ホメロスとヘシオドスの神々 盗む 姦通する 欺き合う すべて神々に負わせた 詩人の語り(B11) 図 1 B11 の批判。左で人間の恥とされる三つの行いが、右では、詩人の語る神々の行いになっています。同じ順に並んだ箱が、同じ行いです。 批判の筋のうち、断片と伝記から言えるのは次の二点です。まず、クセノパネスは、教養の土台だった二人が神々について語ったことを攻撃する詩を書きました(DL IX.18) [2] 。次に、二人の語る神々は盗み・姦通・欺きをし、B11 はそれを人間のあいだの「恥」「非難」と呼びます。別の断片 B12 も、二人が神々の「無法な行い」をできるかぎり多く語った、と言います(M I.289) [4] 。セクストスは、神話を作る神学者や詩人の語りは「あらゆる不敬に満ちている」と述べてから、B11 を引いています(M IX.193) [4] 。 なぜそれがいけないのかを、残った断片は述べていません。宴の席の詩 B1 は、結びで神々を正しく敬うよう求めています。そこから研究者は、恥ずべき行いを負わせることは、神にあるはずの善さや完全さと両立しない、とクセノパネスが考えたと推定します [1] 。 なお、B11 が問うのは神々の ふるまい 、次の節の B14–16 が問うのは 姿 です。本人が二つを一続きの論証として結びつけた証拠はないので、ここでは「だから」でつながず、別々に並べます。 ここで間違えやすい クセノパネスは、神々への信仰を捨てたのではありません。退けたのは、神にふさわしくない語り方です。また、「神は善いものだから、悪行を負わせてはならない」という前提は、断片には書かれていません。研究者の推定です。 牛が絵を描けたら――神の姿は描く者に似る 人々が思い描く神々の姿については、断片が三つあります。並べる順は、もとの詩では分かりません。 一つ目の B14 によれば、死すべき者たち、つまり人間は、神々が生まれ、自分たちと同じ衣服と声と体をもつと思っています [3] 。神々に、人間の生まれ方と見た目を当てはめているわけです。 二つ目の B16 は、後 200 年ごろのキリスト教の著作家クレメンスの、散文の中で伝わる句です。クレメンスは、ギリシア人は神々を「人の形で、人の情をもつ」ものと考え、それぞれが神々の姿を自分に似せて描く、と書きます。そしてクセノパネスの言葉として「エチオピア人は黒く獅子鼻、トラキア人は赤毛で青い目」を引きます(『ストロマテイス』VII.22.1) [3] 。民族ごとに、思い描く神の姿がその民族に似る、という例です。断片集に載る、「神々を」「〜と言う」を補った詩の形は、ディールスの復元です [9] 。 三つ目の B15 は、仮定の話です。 牛やライオンに手があって 、人間のように絵を描き、作品を仕上げられたとします。すると、馬は馬に、牛は牛に似せて神々の姿を描き、自分と同じような体を作るだろう、と詠みます(『ストロマテイス』V.109.3) [3] (図 2) 。「描く」は絵、「作る」は像のことで、神像も含まれます。 B16:人々の語り エチオピア人 獅子鼻で黒い神 トラキア人 青い目で赤毛の神 B15:もし手があれば 牛 牛の姿の神 馬 馬の姿の神 描かれる神は、描く者に似る 図 2 神の姿は描く者に似る。上の段は人々の実際の語り(B16。クレメンスの散文の中で伝わる句)、点線の枠で囲んだ下の段は仮定の話(B15)です。額縁の上の細い輪は「神」の印です。B16 を見た目の話と取り違えないよう、民族の顔は絵にしていません。 三つを並べると、断片自身は言っていない一つの見通しが立ちます(本教材の読み)。神の姿が描く者ごとに変わるのなら、その姿は、神について確かなことよりも、描く者自身について多くを語っているはずです。 ここで間違えやすい B15 は「神はいない」とも「神は人間の作り物だ」とも言っていません。問題にしているのは人が思い描く神の姿で、神そのものがいるかどうかではありません。B15 は、おそらく風刺の調子で書かれています [1] 。また B16 は、民族の見た目の優劣を論じた句ではありません。どの民族も神を自分に似せる、という例です。 一なる神――人に似ない神と、知りえなさ クセノパネス自身の詠む神は、どうでしょうか。B23 は「一なる神、神々と人間たちのうちで最も大いなるもの」と始まります。この神は、 姿も思いも、死すべき者に少しも似ていない 、と続きます(クレメンス『ストロマテイス』V.109.1) [3] 。 ほかの断片によれば、この神は全体で見、全体で考え、全体で聞きます(B24、セクストス M IX.144) [4] 。労苦から離れて、心の思いで万物を揺り動かします(B25)。常に同じところにとどまって動かず、あちこちへ出かけるのはふさわしくない、とも言います(B26)。B25 と B26 は、新プラトン派の注釈家シンプリキオスが『アリストテレス「自然学」注解』23 頁に引いています [5] 。 アリストテレスによれば、クセノパネスは、神々が生まれたと言うのは、死ぬと言うのと同じく不敬だとしました。どちらでも、神々がいない時があることになるからです(『弁論術』II.23 1399b5–9、DK 21 A 12) [6] 。 この表で分かること: 人々が神々に当てはめてきた生まれ・姿・ふるまい・居場所のどれについても、クセノパネスの断片と報告は、人に似ない神を語ります。並べ方は本教材の整理です。 観点 人々や詩人が神々に当てはめたもの クセノパネスの断片と報告 生まれ 神々は生まれる(B14) 生まれると言うのは不敬(A12) 姿 人の衣服・声・体をもつ(B14) 姿も思いも人に似ない(B23) ふるまい 盗み・姦通・欺きをする(B11) 労せず心の思いで万物を動かす(B25) 居場所 あちこちへ出かける(B26 が退ける) 同じ所にとどまり動かない(B26) 表 1 人に似た神と、人に似ない神。A12 はアリストテレスの報告で、ほかは本人の断片です。 アリストテレスはこんな話も伝えます。レウコテアは、もとは人間の女イノで、海の女神になったと語られます(『オデュッセイア』V.333–335) [11] 。エレアの人々が、この女神に犠牲を捧げ、嘆きの歌も歌うべきかと尋ねました。クセノパネスは、神と考えるなら嘆くな、人間と考えるなら犠牲を捧げるな、と勧めたといいます(同 1400b5–8、DK 21 A 13) [6] 。弔いと供えを同じ相手に向ける矛盾を突いたのです。 他方でクセノパネスは、人の知の限りも詠みました (図 3) 。「神々と、私の語るすべてについて、確かなことを見た人はいないし、これからも知る人はいない。成ったことをたまたま最もよく言い当てても、本人はそれを知らない。思わくが、すべてに行きわたっている」(B34、セクストス M VII.49) [4] 。正しく言い当てることと、それを知っていることを分ける言い方です。 B34(セクストス M VII.49) 1 確かなことを見た人はいない 神々と、私の語るすべてについて 2 たとえ最もよく言い当てても 成ったことを、たまたま言う 3 本人はそれを知らない 当たることと、知ることは別 4 思わくがすべてに行きわたる 人に残るのは思わく(ドコス) 図 3 B34 の筋。要は太い枠の三段目です。 この神と B34 をめぐっては、読みが分かれます。B23 は唯一の神を説いた早い例と読まれてきましたが、同じ行に複数の「神々」が出てきます。また「一つの」は最上級を強める言い方で、「最も大いなる一柱」を言うのかもしれません。B23–26 にも、B34 とのあいだにも、「なぜなら」「だから」に当たる語はなく、筋の通った論証として書かれたかは分かりません [1] 。B34 も、徹底した懐疑と読むか、誤りの可能性を認める立場(可謬主義)のような穏やかな読みをとるかで分かれます [1] 。 ここで間違えやすい 「クセノパネスは一神教を説いた」と言い切らないようにしましょう。神は一つだと読んだのは、後のキリスト教の著作家クレメンスです(『ストロマテイス』V.109.1) [3] 。 伝わり方の注意:断片を引いた人の目的 神についての断片は、クレメンス(B14–16・B23)、セクストス(B11・B12・B24)、シンプリキオス(B25・B26)が、それぞれ自分の議論のために引いて残りました [1] 。クレメンスは、クセノパネスを「神は一つで体をもたない」と教えた人として引きます(『ストロマテイス』V.108–109) [3] 。セクストスは B34 を、すべては把握できないとクセノパネスが言った証拠として引きますが、「ある人々によれば」と断っています(M VII.49) [4] 。古代の懐疑派の中には、クセノパネスを自分たちの祖と仰ぐ者がいました [1] 。最も長い証言である偽アリストテレス『メリッソス・クセノパネス・ゴルギアスについて』の論証は後代のもので、本人の断片と同じ重みでは扱えません [1] 。 原典を読む B23・B14・B15 を続けて引くクレメンスの一節を、ギリシア語の原文から本教材が訳しました。 クレメンス『ストロマテイス』V.109.1–3 一なる神と、牛が描く神 『ストロマテイス』(「綴れ織り」の意)は、後 200 年ごろのキリスト教の著作家クレメンスが、ギリシアの詩人や哲学者の言葉を多く引いて信仰を論じた書です。直前の §108 では、シビュラの詩(古代の女預言者の名で伝わる託宣の詩)を引いて、神は肉の目では見られないと説きます。§109 で、クセノパネスの三つの断片を「またこうも言う」でつないで並べます。 1 まことに見事に、コロポンのクセノパネスもまた、神は一つで体をもたないと教えて、こう言い添えている。 2 「一なる神、神々と人間たちのうちで最も大いなるもの。姿においても思いにおいても、死すべき者たちに少しも似ていない。」 3 またこうも言う。「だが死すべき者たちは、神々が生まれ、自分たちの衣服と声と体をもつと思っている。」 4 またこうも言う。