戦争の原因――交渉はなぜ失敗するのか — Epoché
国際と日本 国際政治 約 26 分 本文 約 11,400 字 図 4・表 2 資料 1 節 この課の要点 戦争の謎・三つの道筋・後の整理の 3 つ 戦争の謎 戦争は高くつくので、戦う前に双方が得をする取り決め(交渉の範囲)があるはずだ。それでも戦うのはなぜかが中心の問い 三つの道筋 フィアロンは、私的情報と偽る誘因・コミットメント問題・争点の不可分性の三つを挙げ、不可分性は稀だとみた 後の整理 パウエルは不可分性もコミットメント問題とし、大きく急な力の移動を重視した。ガーツキーは個々の開戦は予測できないと論じた はじめに 「戦争はなぜ起きるのか」と聞かれると、多くの人は、指導者の野心、民族どうしの憎しみ、資源の奪い合いなどを思い浮かべるでしょう。どれも戦争の背景として大切です。けれども、これらの答えには一つの穴があります。争うものがあるからといって、戦わなければならないわけではないからです。 身近な場面に置きかえてみます。二人の兄弟が一つのケーキを取り合っているとします。殴り合いになれば、ケーキは床に落ちてつぶれ、二人ともけがをするかもしれません。どちらが勝ちそうかを二人とも分かっているなら、殴り合った後に手に入るはずの分を、最初から切り分けておけばよいはずです。そうすれば、ケーキはつぶれず、けがもしません。 国どうしの戦争でも、同じことが言えます。戦争は兵士と市民の命を奪い、町や工場を壊し、多額の戦費を使わせます。戦った後に結ぶ講和の中身を戦う前に結んでおけば、双方ともこの費用を払わずに済みます。それなのに、なぜ国は戦うのでしょうか。国際政治学では、この問いを戦争の「非効率の謎」と呼ぶことがあります。 この課では、戦争を「交渉の決裂」として見る理論(交渉理論)を学びます。中心にあるのは、政治学者ジェイムズ・フィアロンが 1995 年の論文で示した三つの答えです。相手の力が本当には分からないこと、約束を守る保証がないこと、争点が分けられないことです。そのうえで、後の研究者がこの答えをどう修正したかを見ます。最後に、日本が戦った日露戦争に理論を当てはめ、理論で何が言えて何が言えないかを確かめます。 この課程の『リアリズム』の課では、上に政府のない国際社会で、国が力と安全を求めることを学びました。アナーキーは戦争を止める者がいないことを説明します。しかし、アナーキーはいつもあるのに、戦争はいつも起きるわけではありません。交渉理論は、この隙間を埋めようとする試みとして読むことができます(本教材の整理)。資料では、プロイセンの軍人クラウゼヴィッツが戦争を「政治の続き」と呼んだ有名な一節を、ドイツ語の原文から読みます。 この課の問い 戦争は双方に大きな費用を強いるのに、なぜ国どうしは戦う前に話し合いで決着をつけられないのでしょうか。 この課のことば 交渉の範囲 戦った場合の見込みに近い分け方のうち、双方が「戦うよりはまし」と考える取り決めの幅。ケーキの例なら、殴り合った後の取り分に近い切り方のこと 私的情報 自分だけが知っていて、相手には見えない情報。自国の軍の本当の実力や、どこまで譲れないかという決意など コミットメント問題 今は合意できても、力関係が変わったとき相手が約束を守る保証がない、という問題。約束を守らせる上位の権威がないことから生じる 争点の不可分性 争う物の分け方がごく限られ、中間の取り決めを作れないこと。王位や聖地のように「半分ずつ」にできないと思われる争点 予防戦争 相手が強くなって自分が不利になる前に、今のうちに戦う戦争。先に撃った側が有利なときに相手の攻撃を恐れて先に撃つ「先制攻撃」とは区別される 戦争の原因――なぜ話し合いで決着しないのか 戦争を「交渉の決裂」として見ると、「なぜ戦うのか」という問いは、「なぜ戦う前に合意できないのか」という問いに変わります。この章では、まず問いの立て方を確かめ、フィアロンの三つの答えを見て、後の研究による修正をたどり、最後に日露戦争に当てはめます。 戦争の謎――戦うより分けたほうが得のはず 戦争を政治の延長として見る考え方には、長い歴史があります。19 世紀前半のプロイセンの軍人に、カール・フォン・クラウゼヴィッツ(1780〜1831 年)がいます。没後の 1832 年に刊行された『戦争論』で、彼は、戦争は政治の道具であり、政治のやりとりを別の手段で続けるものだと書きました [2] 。戦争はそれ自体が目的ではなく、政治の目的のための手段だということです。この一節は、この課の「資料で確かめる」で原文から読みます。 20 世紀の半ばには、トーマス・シェリングが、紛争の状況の多くは本質的に交渉の状況だと述べました(1960 年)。パウエルによれば、戦争を一種の交渉の過程として見る研究の流れは、少なくともここまでさかのぼります [3] 。交渉とは、互いに相手の出方を読みながら、取り分を決めるやりとりのことです。 話し合えば、燃やさずに分けられる どこで切るか A 国 B 国 戦えば一部が燃える 残りを分けても双方が損 図 1 戦争の謎のたとえ(本教材の作例)。テーブルを挟んだ二国が、パイの切り方を話し合っています。戦えばパイの一部が燃えて小さくなるので、燃える前に切り方を決めれば、どちらも戦った後より多くを得られます。 この見方を一つの問いに絞り込んだのが、政治学者ジェイムズ・フィアロンの 1995 年の論文「戦争の合理主義的説明」です [1] 。筋道は次のとおりです (図 2) 。第一に、戦争には費用がかかります。戦えば人命と富が失われ、争っていたもの自体も壊れます。パウエルの言い方を借りれば、戦いが始まると、分けるべき「パイ」は戦う前より小さくなります [3] 。 第二に、そうであれば、戦った場合に双方が得られそうな取り分に近い分け方で、戦う前に合意すればよいはずです。そうすれば、どちらも戦った後より多くを手にできます。フィアロンは、危険を好まない国、つまりリスクに中立か、リスクを避ける国どうしなら、戦いという賭けよりも双方が好む取り決めの幅があると論じました。この幅を交渉の範囲と呼びます [1] [3] 。 戦争は高くつく 人命と富が失われ、分けるものが 小さくなる 交渉の範囲がある 戦った後の取り分に近い分け方なら、 双方とも戦うより得 それでも決裂する なぜ合理的な国が、範囲の 中で合意できないのか 三つの道筋 情報・約束・分けられない争点の三つ 図 2 戦争の「非効率の謎」の筋道(フィアロンとパウエルの議論を本教材が整理)。上から、戦争の費用、交渉の範囲、それでも起きる決裂、三つの道筋の順です。 第三に、それでも戦争は起きます。合理的な国が、双方にとって戦うより得な取り決めがあるのに、なぜそこにたどり着けないのでしょうか。パウエルは、これを戦争の「非効率の謎」と呼びました [3] 。交渉理論の仕事は、この謎に答えることです。 この問いの立て方には、それまでの説明への批判が含まれています。たとえば「上に政府のないアナーキーだから戦争が起きる」という説明は、戦争を止める者がいないことは示します。けれども、戦う前に合意しない理由までは示しません。また「勝てば得られる利益が費用を上回るから戦う」という説明も、同じ結果を戦わずに取り決めればもっと得なはずだ、という問いには答えていません。ガーツキーは、フィアロンの論点を次のようにまとめています。力や決意のように戦う前に知りうる要因は、それを織り込んだ取り決めを結べば、戦争を避けられるはずだというのです [4] 。 この見方は、日本語の「落としどころ」という言葉で考えると分かりやすいでしょう。労使の賃金交渉でも、ストライキが長引けば会社も働く人も損をするので、双方はふつう、どこかに落としどころを見つけます(本教材の作例)。戦争の謎とは、国どうしの争いでは、なぜこの落としどころが見つからないことがあるのか、という問いなのです。 ここで間違えやすい 「戦争は非合理な指導者が起こすものだ」とだけ考えると、合理的な国どうしでも話し合いが決裂する仕組みを見落とします。交渉理論は、あえて国が合理的に損得を計算すると仮定し、それでも戦争が起きる条件を探ります。この仮定は「指導者はいつも賢い」という主張ではなく、謎をはっきり浮かび上がらせるための道具です。 三つの道筋――フィアロンの答え フィアロンは、合理的な国が、戦争を避ける合意に至らない理由を三つに整理しました [1] 。ガーツキーとパウエルの要約によれば、それは、私的情報と偽る誘因、コミットメント問題、争点の不可分性です [3] [4] (図 3) 。順に見ていきましょう。 交渉の失敗 戦争を避ける合意が成立しない 情報の非対称 相手の力と決意が見えず、強く見せる 誘因もある コミットメント問題 力が移ると、約束を守る保証がない 争点の不可分性 分け方が限られ、合意の範囲が 消えうる。本人は稀とみた 図 3 交渉が失敗する三つの道筋(フィアロンの整理)。上から、情報の非対称と偽る誘因、コミットメント問題、争点の不可分性です。上の二つは合意の範囲があるのに届かない場合、三つ目は合意の範囲そのものが消えうる場合です。 一つ目は情報の問題です。国は、自国の軍の実力や、どこまで譲れないかという決意を、自分ではよく知っています。しかし相手には、それが正確に見えません。これを私的情報といいます。ただし、情報が足りないだけなら、互いに打ち明ければ済むはずです。問題は、打ち明けた話を相手が信じられないことにあります。強く見せれば多くを引き出せるので、どの国にも、実力や決意を大きく見せる誘因があるからです [3] [4] 。 ガーツキーは、この状況をポーカーにたとえました。ポーカーでは、はったりと本当に強い手を見分けるには、最後には賭け金を出させて勝負させるしかありません [4] 。パウエルの説明では、相手の力が分からない国は板挟みに立ちます。多く譲れば相手は受け入れやすく戦争は避けやすいが、受け入れられたときの自分の取り分が減ります。少なく譲れば得ですが、拒まれる危険が増します。この板挟みの最適な答えには、ふつう、拒まれて戦争になる危険が少し残ります [3] 。 偽る誘因があるからこそ、信じてもらえる合図には費用がかかります。フィアロンは別の論文で、国内の聴衆、つまり有権者や世論の前で引き下がることの費用が、国際紛争の激化を左右することを論じました [6] 。さらに、合図を「手を縛る」型と「費用を沈める」型に分けています [7] 。公の場で約束して後に引けなくする、多額の費用をかけて軍を動かす、といった行動は、口先だけの強がりと区別されやすくなります。 二つ目はコミットメント問題です。国際社会には約束を強制する上位の権威がありません。そのため、力関係の変化などで後に合意を破る誘因が生じるときには、国は、今日の合意を明日も守ると信頼できる形で約束することができません [3] 。合意を守ることが双方の利益であり続けるなら問題は起きませんが、とくに危ういのは、力関係が変わりつつあるときです。いま強い国は、相手が強くなった後も今日の合意を守ってもらえる保証がないので、今のうちに戦うほうがよいと考えるかもしれません。これが予防戦争です。また、先に攻撃した側が大きく有利になるときには、相手に先に撃たれる恐れから攻撃に出る先制攻撃が起こりえます。フィアロンはこれも同じ論理で論じました [4] 。 フィアロンは、歴史家 A・J・P・テイラーの言葉を引いています。1848〜1918 年の列強間の戦争はすべて、征服の戦争としてではなく、予防戦争として始まった、というものです [1] [4] 。これは一人の歴史家の見方ですが、力の移り変わりへの恐れが戦争の大きな動機になりうることをよく示しています。 三つ目は争点の不可分性です。争点の分け方がごく限られ、どの分け方も双方を満足させないなら、合意の余地はなくなります [3] 。王位や聖地のように、半分ずつにできないと思われるものが例です。ただしフィアロン自身は、不可分性は原理の上では戦争を合理的に説明しうるとしながら、本当の問題は、指導者が中間の取り決めを作れない理由のほうだと述べました。争点の多くは複雑で、別の争点との抱き合わせや補償もできるので、中間の取り決めはふつう存在するだろう、というのです [3] 。ガーツキーは、フィアロンがこの三つ目を経験的には取るに足りないとして退けた、とまとめています [4] 。 三つの道筋の違いを表1にまとめます。 この表で分かること: 三つの道筋は、交渉に欠けているものがそれぞれ違い、和らげる手がかりも違う 道筋 何が欠けるか 典型の場面 和らげる手がかり 情報の非対称 相手の力と決意の見積もり はったりが疑われる危機 費用のかかる合図・仲介 コミットメント問題 将来も約束を守る保証 力の移り変わり・先制の利 第三者の保証・段階的な合意 争点の不可分性 中間の分け方 王位・聖地・領土の争い 抱き合わせ・補償 表 1 交渉が失敗する三つの道筋と、それぞれを和らげる手がかり(本教材の整理)。手がかりの列は理論から導かれる例で、実際に効くかは事例ごとに確かめる必要があります。 表1 の右の列は、それぞれの道筋が示す「平和の条件」でもあります。情報が問題なら信頼できる情報の伝え方、約束が問題なら約束を守らせる仕組み、不可分性が問題なら分け方の工夫が、戦争を避ける手がかりになります(本教材の整理)。 ここで間違えやすい 三つの道筋は「戦争の三つの種類」ではありません。一つの戦争に、複数の道筋が重なることもあります。また、フィアロン自身は三つを同じ重さで扱ったわけではなく、争点の不可分性は稀だと考えていました。 本人の主張と後の整理――パウエルとガーツキー フィアロンの論文は、その後の研究の出発点になりました。ただし、後の研究者は三つの道筋をそのまま受け継いだわけではありません。ここでは、二人の研究者による修正を見ます。フィアロン本人の主張と、後の研究者の主張を分けて読んでください (図 4) 。 フィアロン(1995) パウエル(2006) 三つの道筋を並べて 示す 約束の問題を共通の 軸にまとめる 不可分性は 原理上ありうるが稀 不可分性も約束の 問題とみる 情報と約束の問題を 重く見る 大きく急