アベラール――普遍は言葉の意味のうちにある(普遍論争) — Epoché
中世 教父哲学と初期スコラ 約 15 分 本文 約 6,200 字 図 4・表 2 原典 1 節 この課の要点 問い・批判・答えの 3 つ 問い ポルフュリオスが立て、ボエティウスが伝えた三つの問いがある。類や種は本当にあるのか、理解の中だけにあるのか。あるなら物体か、物体でないか。感覚されるものから離れてあるか、その中にあるか。 批判 同じ一つの「動物」がソクラテスにもロバにも丸ごとあるなら、同じものが理性的で同時に非理性的になる。だから普遍は物ではありえず、世界にあるのは個物だけだ。師ギヨームを論破したというのは、アベラール本人の言い分である。 答え 普遍性は言葉の側にある。「人間」が多くの人に当てはまる根拠は物ではない「人であること」で、語は心に共通の理解を起こす(意味はその中身で、浮かぶ像そのものではない)。アンセルムスらに「音声だけ」の説と批判されたロスケリヌスと違い、意味をもつ言葉に普遍を置いた。 はじめに ペトルス・アベラルドゥス(フランス語でピエール・アベラール)は、1079 年ごろ、ブルターニュのナントに近い町ル・パレで、小貴族の家に生まれました [1] 。家督を捨てて哲学を学びます。師の中には、ロスケリヌスとシャンポーのギヨームがいました [1] 。 ムランとコルベイユで教えたのち、1108 年から 1113 年のあいだにパリへ戻り、ギヨームの講義に出て普遍をめぐって論争します [1] 。のちにノートルダムで教え、エロイーズとの恋の結末を経て、サン・ドニの修道士となりました [1] 。 神学の著作は、1121 年のソワソンの会議と、1140 年(1141 年とする説もあります)のサンスの会議で断罪されました。1142 年に亡くなっています [1] 。 この課では、アベラールが論理学の教科書の注解で取り組んだ「普遍」の問題、つまり、たくさんのものにまとめて当てはまる言葉は何を指すのか、を読みます。 この課の問い 「人間」「動物」のように、たくさんのものにまとめて当てはまる言葉は、何を指しているのでしょうか。ソクラテスやプラトンのほかに、「人間」という物がどこかにあるのでしょうか。 この課のことば 普遍 たくさんのものについて言える(述語になる)もの。「人間」「動物」「白い」などです。反対は、一つのものにしか言えない個物(ソクラテス)です。 類と種 「動物」のように広い区分が類、「人間」のようにその中の区分が種です。ポルフュリオス『エイサゴーゲー(入門)』が扱う五つの語のうちの二つです。 実在論 普遍が、心や言葉の外に物として本当にある、とする立場です。この課では、同じ一つの本質が多くの個物の中に丸ごとある、という形のものを指します。 唯名論 外にあるのは個物だけで、普遍は名前(言葉)の側にある、とする立場です。アベラールの形而上学は、西洋で最初の大きな唯名論の例とされます [1] 。 人であること(status) ソクラテスとプラトンが一致する点です。「人間という物」ではなく、それぞれが人である、ということそのもので、物ではありません。 指すことと意味すること 語が当てはまる個物と、語を聞いて心に起こる理解の中身です。「人間」は一人一人の人を指し、心には共通の中身を起こします。アベラールはこの二つを分けました [1] 。 普遍論争――「人間」という言葉は何を指すのか アンセルムスの一世代あと、12 世紀のパリの学校で、論理学の教科書の一節をめぐる争いが起こりました。この章では、問いの出どころ、実在論への反論、アベラールの答えを順に読みます。 普遍の問題――三つの問い アベラールは論理学(弁証論)で名を上げました。主著の一つ『論理学入門( Logica ingredientibus )』は、古代から受け継いだ論理学の教科書に一節ずつ付けた注です。その最初がポルフュリオス『エイサゴーゲー』の注解です [1] [2] 。 ポルフュリオスはその冒頭で、類や種について三つの問いを立て、答えずに置きました。①本当にあるのか、理解の中だけにあるのか、②あるなら物体なのか、そうでないのか、③感覚されるものから離れてあるのか、その中にあるのか、という問いです (図 1) 。ラテン語の世界にこの問いを伝えたのは、ボエティウスの翻訳と注解です [2] 。 類や種(「人間」「動物」)は ボエティウスの注解がラテン語の 世界へ伝えた問い ① 本当にあるか それとも理解の中だけにあるのか ② 物体か あるなら、物体か、物体でないか ③ 離れてあるか 感覚されるものから離れてあるか、その 中にあるか 図 1 ポルフュリオスが『エイサゴーゲー』の冒頭で立て、答えずに置いた三つの問いです。上から順に、①存在、②物体かどうか、③感覚されるものとの関係を問います。アベラールはこれに、名が付けられる共通の原因と、普遍の名の理解が捉えるものの二つの問いを足しました [2] 。 アベラールは①を、「本当の存在をもつのか、ただ思いの中にあるだけか」と言い換えます [2] 。そして問いを二つ足します。普遍の名が多くのものに付けられる共通の原因は何なのか、普遍の名を聞いたときの理解は何を捉えているのか、という問いです [2] 。この二つが、アベラールの答えの柱になります。 なぜこれが大事なのでしょうか。本教材の作例で考えます。教室に三十人の生徒がいて、先生が「人間は考える動物だ」と言います。先生が語っているのは、三十人の誰か一人ではありません。では三十人のほかに、「人間」という三十一人目がどこかにいるのでしょうか。一般の言葉で語る学問が何について語っているのかは、この問いにかかっています。 ここで間違えやすい 普遍論争を、中世の人の言葉遊びと取らないでください。一般の言葉で語る学問が何について語っているのか、という問いは今も続いています。また、ポルフュリオス自身は答えを出していません。答えを競ったのは、後の注解者たちです。 実在論への反論――世界にあるのは個物だけ パリに戻ったアベラールは、師ギヨームの講義に出て、普遍をめぐって論争しました。勝って弁証家の名を得たと言いますが、これはアベラール自身の報告です [1] 。『災厄の記』では、ギヨームがこの論争で説を改め、ついには捨てた、と本人が語ります。 ギヨームの初めの説は、次のような実在論だったとされます。同じ一つの本質が、個々の人の中にそっくりそのままあり、人どうしは背丈や色のような付帯的な性質だけで違う、というものです。 アベラールは、これに本人の例で反論します [1] [2] 。同じ一つの「動物」が、ソクラテスにもロバのブルネッルスにも丸ごとあるとしましょう (図 2) 。人の種では理性的、ロバの種では非理性的なので、同じものに反対の性質が同時にあることになります。さらに、二つがそっくり同じ「動物」なら、ソクラテスはブルネッルスと同じものになってしまいます [1] 。 一つの「動物」が丸ごと入る 同じ一つの「動物」 理性的 非理性的 ソクラテス ブルネッルス 反対の性質が一つに同居する 丸ごと同じなら ? = ソクラテス ブルネッルス 普遍は物ではありえない 図 2 一つ目の絵は実在論の言い分です。同じ一つの「動物」がソクラテスとロバのブルネッルスに丸ごと入ると、一つの物に「理性的」と「非理性的」が同時に貼られます。二つ目の絵はその帰結で、丸ごと同じならソクラテスはロバと同じになってしまいます。二人の例は本人のもので、球とロバの耳は本教材の描き方です。 個物の違いは付帯性で決まる、と言い返すこともできます。しかしアベラールは、それでは付帯性を実体より先にすることになる、と答えます [1] 。普遍を個物の集まりと見る道もふさぎます。集まりは部分より後にあり、各部分に分け持たれないからです。普遍を個物そのものと見れば、ソクラテスが多くに共通になるか、個物の数だけ普遍があることになります [1] (表 1) 。こうして、普遍性は世界の物の性質ではない、と結論します [1] 。 この表で分かること: 三人とも「人間」という語を使いますが、その語が何によって多くの人に当てはまるのかの答えが違います。 立場 普遍はどこにあるか 「人間」が当てはまる根拠 弱点とされた所 ギヨーム(初めの説) 個々の人に丸ごとある本質 同じ本質が皆に丸ごとある 反対の性質が一つに同居する ロスケリヌス(批判者の伝え) 口から出る音声だけ、と批判された 音が当てはまるだけ、とされた 一般名が意味を失う、と反対者は言う アベラール 意味をもつ言葉 物ではない「人であること」 一致の根拠が物でなくてよいか 表 1 普遍をめぐる三つの立場(本教材の整理)。ギヨームの説はアベラールの報告、ロスケリヌスの説はアンセルムスらの批判を通して伝わるもので、本人たちの文ではありません。整理は SEP によります [1] 。 ここで間違えやすい アベラールが「人と人のあいだに似た所など無い」と言った、と取るのは誤りです。否定したのは、多くのものに丸ごとある一つの物としての普遍で、個物どうしの一致ではありません。また、師を論破したという話は本人の側の報告で、ギヨームが認めた記録ではありません。 では普遍とは何か――言葉と、その意味 物も物の集まりも普遍でないなら、普遍性は言葉の側に帰すほかありません [1] [2] 。アベラールにとって普遍とは、付けられたしかたによって、多くのものに一つずつ述語になれる語です。「人間」は個々の人の名と結べますが、「ソクラテス」は一人にしか言えないので単称です [2] 。 では「人間」が多くの人に当てはまる根拠は何でしょうか。ソクラテスとプラトンは、物としてはまったく別です。それでも二人は「人間において」ではなく、「人であること」において一致する、とアベラールは言います。そして、この「人であること( status )」は物ではない、と念を押します [1] [2] (図 3) 。 「人間」は二人を一人ずつ指す 誰のものでもない共通の像 人間 ソクラテス プラトン 人であることで一致(物ではない) 第三の物としての「人間」は無い 指す人 図 3 「人間」という語は、二人のほかにある第三の物を指すのではなく、ソクラテスとプラトンを一人ずつ指します。二人は物ではない「人であること」で一致し、語を聞いた人の心には誰のものでもない共通の像が浮かびます。二人の一致は本人の例で、指す人と場面は本教材の作例です。 語を聞いた人の心にも違いが起こります。「ソクラテス」と聞けば、ある一人に似た像が浮かびます。「人間」と聞けば、すべての人に共通で誰のものでもない、ぼんやりした像が浮かびます [2] 。SEP は、語の意味はこの理解が運ぶ中身で、心の絵そのものではない、とアベラールの考えを整理しています [1] 。 ここで師ロスケリヌスとの違いが問題になります。ロスケリヌスは、アンセルムスらから、普遍を「音声だけ」とする説の持ち主として批判されました。普遍が物でないなら一般名は意味を失い、その説と変わらない、という反論がありえます。アベラールは、語が個物を「指すこと」と、心に中身を起こす「意味すること」を分けて答えました [1] 。普遍は、意味をもつ言葉なのです。 ここで間違えやすい アベラールを、普遍はただの音だと言った人と取らないでください。「音声だけ」はロスケリヌスに向けられた批判の言い方で、アベラールは意味をもつ言葉に普遍を置きました。また、一致の根拠が物でないなら一致は作り話だ、と取るのも誤りです。二人の一致は本物で、それを物に訴えずに説明するのがアベラールの立場です [1] 。 原典を読む 第 3 節の「人であること」を、本人の言葉で読みます(ラテン語、本教材の訳)。 アベラール『論理学入門』ポルフュリオス注解 普遍の章 人であることは物ではない 物も物の集まりも普遍でない、と論じた直後の段です。 1 一人一人の人間は互いに区別され、(先に物の自然を探ったときに述べたように)固有の本質でも形でも違っている。それでも、人であるという点では一致する。 2 「人間において」と言うのではない。区別された個々の人のほかに、人間である物は何も無いからである。そうではなく、「人であること」においてである。 3 よく考えれば、人であることは人間ではなく、何かの物でもない。「基体のうちにないこと」や「反対を受け入れないこと」「多い少ないを受け入れないこと」が物でないのと同じである。それでもアリストテレスは、これらに即してすべての実体が一致すると言う。 4 先に示したとおり、物のうちには一致がありえない。だから何かの一致があるなら、物でないものに即して取るべきである。ソクラテスとプラトンが人であることで似ているのは、馬とロバが人でないことで似ていて、どちらも「非人間」と呼ばれるのと同じである。 5 こうして、異なる物が一致するとは、それぞれが同じく何かである、あるいは何かでない、ということである。人である、白い、人でない、白くない、のように。 6 しかし、物でないものに即して物の一致を取るのは、忌まわしく見える。この人とあの人が人の状態において、つまり人であるという点で一致すると言うとき、まるで無のうちで、在るものどうしを結び合わせるかのようだからである。 7 だが私たちが考えているのは、彼らが人であり、その点ではまったく違わない、ということだけである。その点とは彼らが人であるという点で、そのさい私たちは、どんな本質にも訴えはしない。 8 人の状態とは人であることそのもので、それは物ではない。私たちはこれを、名が一人一人に付けられる共通の原因とも呼んだ。彼らはこの点で互いに一致するからである。 Singuli homines discreti ab inuicem, cum in propriis differant tam essentiis quam formis (ut supra meminimus rei physicam inquirentes), in eo tantum conueniunt quod homines sunt. Non dico in homine, cum res nulla sit homo nisi discreta sed in esse hominem. Es