国家――暴力の独占と主権 — Epoché
基礎 権力と国家 約 30 分 本文 約 13,600 字 図 3・表 2 資料 2 節 この課の要点 手段・権威・使い分けの 3 つ 手段 ウェーバーは国家を、仕事の中身ではなく、一定の領域で正統な物理的暴力の独占を(それに成功して)要求することで定義しました。 権威 主権は領域の中で最高の権威です。ボダンが初めて体系的に論じ、単なる力ではなく権利(正統性)の問題として扱われてきました。 使い分け 二つは重なりますが、ずれることもあります。力の独占が崩れた国や、条約で主権の及ぶ範囲を狭めた国を見分ける道具として使います。 はじめに ニュースや日常の会話には「国」という言葉がよく出てきます。「お盆に国に帰る」と言えば故郷のことです。「その費用は国が負担する」と言えば、政府や役所のことです。「国を守る」と言えば、土地とそこに住む人々のことを指しているでしょう。同じ一語が、場所・役所・人々という別々のものを指しています。 では、学問として「国家」を定義するとき、何を決め手にすればよいのでしょうか。手がかりになる場面があります。警察官は、法律にもとづいてあなたを逮捕できます。ところが、隣の家の人が法の根拠もなく、あなたを部屋に閉じ込めれば、それは犯罪になりえます。同じように力ずくで人を動かす行いなのに、なぜ一方は認められ、もう一方は認められないのでしょうか。 この課程の「権力」の課では、人を動かす力のさまざまな形を見ました。「権威と正統性」の課では、人が命令に従うのは、命令する側を正しいと認めているからだ、という見方を学びました。この課では、その二つの道具を使って、国家そのものの定義を組み立てます。 手がかりは二つの定義です。一つは、社会学者マックス・ウェーバーが 1919 年の講演で示した「正統な物理的暴力の独占」という定義です。もう一つは、16 世紀フランスの思想家ジャン・ボダン以来の「主権」、つまり領域の中で最高の権威という考えです。四つの節で、手段による定義、独占の意味、主権、二つの定義の使い分けを順に考えます。そのあと、二人の原文を本教材の訳で読みます。 この課の問い 国家は、何をもって国家と呼ばれるのでしょうか。ウェーバーの「正統な物理的暴力の独占」と、ボダン以来の「主権」という二つの定義は、それぞれ何をとらえ、どう使い分ければよいのでしょうか。 この課のことば 国家 日常では「国」とも言います。学問では、決めて実行する機関である政府や、そこに属する人々(国民)と分けて、ある領域で人々を治める政治の共同体を指します。 暴力の独占 逮捕や刑罰のように力ずくで人を従わせることを正しく行えるのは国家だけ、という状態です。国家以外の誰も力を使えない、という意味ではありません。 正統性 命令する側が「従うべき正しい相手」と認められていることです。「権威と正統性」の課で見た考えです。 主権 ある領域の中で、ほかのどの権威よりも上にある最高の権威です。例:日本国憲法は、主権が国民にあると定めています。 領域 国境で区切られた土地(と、それに続く海や空)です。国家の権威が及ぶ範囲を決めます。 対外主権 外の国や権威から、内側の治め方に口を出されないことです。ほかの国からの承認と結びついています。 国家の定義――国家は何によって国家なのか 前の課では、人が命令に従う理由として正統性を見ました。この章では、その正統性を手がかりに、国家そのものの定義を組み立てます。ウェーバーは国家を「手段」から定義し、ボダン以来の主権論は国家を「権威」から定義します。二つを順に見てから、重ね合わせて使う方法を考えます。 「国」と「国家」――仕事ではなく手段で定義する はじめにで見たように、日常の「国」は、故郷・役所・土地と人々をまとめて指します。学問では、これらを分けて考えます。決めて実行する機関(国会・内閣・省庁など)をまとめて政府と呼び、そこに属する人々を国民と呼びます。国家は、領域と人々と政府をまとめた政治の共同体を指す言葉として使います(本教材の整理)。 では、国家をほかの団体から区別する決め手は何でしょうか。まず思いつくのは、国家が何をしているか、つまり仕事の中身です。道路を造る、子どもを教育する、病気や失業に備える、治安を守る、といった仕事です。ところがウェーバーは、この道を退けました。政治団体がどこかで手がけたことのない課題はほとんどありません。逆に、国家やその祖先の団体だけに、いつも専属してきた課題も一つもない、と彼は言います [1] 。 身近な例で確かめましょう。教育は私立の学校も担います。病気や老いへの備えは、家族や宗教の団体が担ってきた時代が長く続きました。道路や水路の手入れを、村の人々が共同で行う地域もありました。仕事の中身を数え上げても、「これをするのが国家だ」と線を引くことはできないのです(本教材の作例)。 そこでウェーバーは、国家を、国家に特有の「手段」から定義するほかないと論じました。その手段とは、物理的な暴力の行使です [1] 。ここでの「暴力」は、殴り合いのことではありません。逮捕する、身柄を拘束する、刑罰を科す、軍隊を動かす、といった、人の体に力を加えて従わせることを広く指します。日本語では「強制力」と言い換えたほうが分かりやすい場面も多いでしょう。図 1 は、彼の定義を四つの部分に分けたものです (図 1) 。 国家=人間の共同体 正統な物理的暴力の独占を、 領域の中で要求し、それが 通っている 領域 境界で区切られた土地の中で。領域は 特徴の一つ 正統な 正しいと見なされている力 独占 力を使う権利の源が国家一つにある それに成功して 要求が実際に通っている 図 1 ウェーバーの国家の定義を四つの部分に分けたもの(本教材の整理)。上の根の一文を、下の四つの部分に分けて読みます。強調したのは、いちばん誤解されやすい「独占」です。 学校と比べると、違いがはっきりします。学校には校則があり、違反した生徒を停学にできます。会社は就業規則に違反した社員を解雇できます。しかし、学校も会社も、規則に違反した生徒や社員に刑罰を科すことはできません。刑罰を科せるのは、法律にもとづいて裁判を行う国家の機関だけです。人の身柄を拘束することも、ふつうは法律に根拠を持つ警察などが行います。私人に力の行使が許されるのは、法律が条件を定めた場合に限られます。たとえば刑事訴訟法 213 条は、現行犯人は「何人でも、逮捕状なくしてこれを逮捕することができる」と定めています [4] 。こうした例外の意味は第 2 節で考えます。規則を持つ団体はたくさんあっても、最後に体への力で従わせる手段を握るのは国家だ、というのがウェーバーの見方です(本教材の作例)。 ここで一つの反論が考えられます。今日の国家は、年金や医療、教育に多くの予算を使っています。だとすれば、仕事こそが国家の本質ではないか、という反論です。これに対しては、定義の役目を思い出す必要があります。定義は、何が大事かを決めるものではなく、国家をほかの団体と区別する線を引くものです。国家がどんな仕事をどれだけ引き受けるかは、時代や国によって大きく変わります。その違いそのものを比べるためにも、仕事とは別の物差しで国家を定義しておくほうが便利です。国家の仕事の広がりは、後の課「福祉国家」で扱います(本教材の整理)。 ただし、ウェーバーは慎重に断っています。暴力は国家の「通常の」手段でも「唯一の」手段でもない、ただ国家に特有の手段なのだ、と言います [1] 。実際、国家はふだん、法律を定め、税を集め、補助金を出し、説明して協力を求める、といった方法で人々を動かします。力ずくの手段は、そうした方法が通じないときに控えている最後の手段だと言えます(本教材の言い換え)。 ここで間違えやすい ウェーバーの定義を「国家とは暴力をふるう団体だ」と読むのは誤りです。彼は、暴力が国家の通常の手段でも唯一の手段でもないと明記しています。定義が手段に注目するのは、仕事の中身では国家をほかの団体と区別できないからです。 独占とは何か――国家だけが力を使うのではなく、国家が力の「権利」の源になる ウェーバーの定義を全文で確かめましょう。国家とは、ある一定の領域の内部で、正統な物理的暴力行使の独占を、自分のために(それに成功して)要求する人間の共同体である、というものです [1] 。四つの部分を順に見ます。第一は「領域」です。ウェーバーは、領域が国家の特徴の一つだとわざわざ書き添えています。独占は、地球全体ではなく、境界で区切られた土地の中で成り立ちます。第二は「正統な」です。これは、前の課で見たように、正しいと見なされている、という意味です。 第三の「独占」が、いちばん誤解されやすい部分です。独占と聞くと、国家以外の誰も力を使えない状態を思い浮かべるかもしれません。しかしウェーバーの説明は違います。現代に特有なのは、ほかの団体や個人の暴力への権利が、国家が許す範囲でしか認められないことだ、と彼は言います。国家は、暴力への「権利」のただ一つの源泉と見なされている、というのです [1] 。独占されているのは力そのものではなく、力を使ってよいかどうかを決める立場です。 日本の法律で確かめましょう。刑法 36 条 1 項は、「急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為は、罰しない」と定めます(正当防衛) [4] 。襲われた人が身を守るために力を使うことは、個人の力の行使です。それでも罰せられないのは、国家の法がその条件を定め、認めているからです。銃砲刀剣類所持等取締法 3 条は、法律が定める場合を除いて、銃砲や刀剣類を持つことを禁じています [4] 。警備業法 15 条は、警備員が「この法律により特別に権限を与えられているものでない」ことに留意するよう求めています [4] 。図 2 は、この関係を一つの場面にしたものです (図 2) 。 力を使う権利の源は法律 法律(国家) 領域 警察官 身を守る市民 警備員 法による強制 法の許す範囲で 特別な権限なし 図 2 領域の中で、法律(国家)が、警察官・身を守る市民・警備員のそれぞれに、力にかかわってよい範囲を決めている場面(本教材の作例)。独占されているのは、力を使う権利の源です。 第四の「(それに成功して)」は、要求が実際に通っていることを求めます。国家が独占を宣言するだけでは足りません。ある地域で武装した集団が住民から金を取り立て、独自の罰を加え、警察が手を出せない状態が続くとしましょう。その地域では、国家の要求は通っていません。ウェーバーの定義から見ると、その地域では国家の独占が揺らいでいることになります。こうした国家の弱さは、後の課「国家の能力」で詳しく扱います。 独占は、歴史の中で作られたものです。ウェーバーは、過去には氏族に始まるさまざまな団体が、物理的な暴力をまったく普通の手段として使っていた、と述べています [1] 。日本の歴史にも、その移り変わりの跡があります。1588 年(天正 16 年)、豊臣秀吉は百姓に刀などの武器を持つことを禁じる刀狩令を出しました。明治に入ると、1876 年の廃刀令(明治 9 年太政官布告第 38 号)が、大礼服や軍人・警察官などの制服のときを除いて、刀を身に着けて歩くことを禁じました。ただし廃刀令は、刀の没収や所有の禁止ではありませんでした [9] 。 刀狩りについては、武器を取り上げきったのではなく、村に残る武器を使うことを封じた政策だった、という見方が有力です。歴史家の藤木久志の著書の副題「武器を封印した民衆」は、この見方を表しています [9] 。ここから分かるのは、ウェーバーの言う独占が、武器を物として一か所に集めることではないという点です。力を使ってよいかどうかを決める権利を、一つの源に集めることなのです(本教材の整理)。 ここで間違えやすい 「独占」を、国家以外は一切力を使えない状態と読むのは誤りです。正当防衛のように、個人が力を使うことは認められています。独占されているのは、力を使う「権利」を与え、その条件を決める立場です。 主権――領域の中で最高の権威 ここで、国家を定義するもう一つの道に移ります。主権です。スタンフォード哲学百科事典(SEP)の「主権」の項目は、近世のヨーロッパで主権が意味するようになったことを、「領域の中での最高の権威」という一般的な定義にまとめています。その後の多くの定義は、この定義の変形だと言います [3] 。この定義には三つの要素があります。 第一の要素は「権威」です。主権を持つ者は、単に人を力ずくで動かせるだけではありません。SEP は哲学者ウルフの言葉を借りて、権威を「命令する権利と、それに対応して従われる権利」と説明します [3] 。大事なのは「権利」という語で、正統性を含んでいます。その源は、自然法、神の命令、世襲の法、憲法、国際法などさまざまで、今日ではほぼどこでも何らかの法が主権の源になっている、と SEP は述べます [3] 。 第二の要素は「最高性」です。主権を持つ者は、その下にあるすべての権威より上にあります。SEP は、アメリカ合衆国の憲法がペンシルベニア州の政府より上にあること、警察署長や会社の経営者が主権者でないことを例に挙げます。中世には、多くの権威が法の裏づけを持っていましたが、最高の地位を認められることはまれでした [3] 。第三の要素は「領域性」です。ある土地の境界の内側に住んでいることによって、人はその国家に属し、その権威の下に入ります。この境界は、民族の境界と一致するとは限りません [3] 。 主権を初めて広く論じたヨーロッパの思想家が、ボダンです。彼は 1576 年、フランスがカルヴァン派のユグノーとカトリックの王権との内戦で引き裂かれていた時代に、主権を中心に置いた著作を書きました [3] 。中世のように社会を多くの身分や団体に分けたままでは秩序を取り戻せない、と彼は考えました。治める者と治められる者を一つの政治体にまとめ、人の作るどの法よりも上にある権威が要る、というのです。彼は主権を「国家の絶対的で永続的な権力」と定義しました [2] 。この定義は、資料 2 で原文を読みます。 SEP によれば、ボダンはホッブズとともに、主権者を人の作る法の上に置きました [3] 。ただ