アダム・スミス――道徳の判断は共感から生まれる(公平な観察者・道徳感情論) — Epoché
近代 啓蒙思想 約 17 分 本文 約 7,100 字 図 4・表 2 原典 1 節 この課の要点 共感・是認・観察者の 3 つ 共感 私たちは他人が感じることを直接には感じられない。兄弟が拷問台にいても、自分の感覚は自分の体の外へ出ない。想像の中で相手の立場に身を置き、自分ならどう感じるかを思い描くことで、弱いながら似た気持ちを持つ。ヒュームの「伝わる」共感と違い、スミスの共感は「身を置いてみる」共感である(『道徳感情論』第 1 部 第 1 編 第 1 章)。 是認 他人の気持ちが、身を置いてみた自分の気持ちと合えば、私たちはそれを「もっともだ」と認め、合わなければ認めない。見る側は相手に近づこうと気持ちを高め、当事者は見る側がついてこられる程度まで気持ちを抑える。この互いの調整から、思いやりと自制という二種の徳が生まれる(第 1 部 第 1 編 第 3・5 章)。 観察者 周りの人の目は、無知や利害で誤ることがある。そこで私たちは、事情をよく知りどちらにも引かれない公平な観察者なら共感するか、を基準に、自分と他人を裁くようになる。道徳の規範は、この想像の中の観察者の気持ちを表している(第 3 部)。 はじめに アダム・スミスの名を聞くと、多くの人は『国富論』と「見えざる手」を思い浮かべるでしょう。けれどもスミスが最初に世に問うたのは、道徳の本でした。1759 年の『道徳感情論』です。『国富論』は、その 17 年後の 1776 年に出ました。 その本は、次の言葉で始まります。「人がどれほど利己的だと考えられようと、その本性には明らかにいくつかの原理があって、他人の運命に関心を持たせ、他人の幸福を自分に欠かせないものにする。それを見る喜びのほかには、何も得るものがないのに」(第 1 部 第 1 編 第 1 章 第 1 段落) [2] 。利己心だけの人間像とは、出発点からして違うのです。 スミスの書き方にも特徴があります。理屈を積み上げるより、死の何が私たちを怖がらせるのか、他人の恋の話がなぜ退屈なのか、といった短い場面の描写を重ねていくのです [1] 。この課では、その場面をいくつか絵にしながら、共感、是認、公平な観察者という三つの考えを順に読みます。 この課の問い 前の課のルソーは、人が他人の目にどう映るかを気にしはじめたところに、堕落の始まりを見ました。スミスも同じ「他人の目」に目を向けますが、そこから道徳が生まれると考えます。私たちは他人の気持ちをどうやって知り、その気持ちが「もっともだ」とどうやって判断するのでしょうか。そして、周りの人の目が誤るとき、何を基準にすればよいのでしょうか。 この課のことば 共感(シンパシー) 他人の立場に想像の中で身を置き、自分ならどう感じるかを思い描いて、その人に似た気持ちを抱くことです。友人の合格の知らせに自分まで胸が弾むのも、スミスの言う共感です。 当事者と観察者 ある出来事に直接かかわり、その気持ちを持つ本人が当事者です。その気持ちを外から見て、想像で共感しようとする人が観察者です。 適宜性(プロプライエティ) 気持ちや行いが、それを引き起こしたものにふさわしい程度であることです。多すぎも少なすぎもしない、ほどよさを言います。 是認 ある気持ちや行いを「もっともだ」と認めることです。スミスは、他人の気持ちに共感できることが、その気持ちを是認することだと考えます。 公平な観察者 事情をよく知り、どちらの側の利害にも引かれない、想像の中の観察者です。スミスは「胸の中の人」とも呼びます。この観察者が共感できる気持ちが、道徳として是認されます。 共感と公平な観察者――他人の気持ちが「もっともだ」と、どうして分かるのか スミスの道徳の理論は、見る側、つまり観察者の立場から組み立てられます。この章では、①想像の中で立場を替える共感、②共感できることが是認することだという考えと、そこから生まれる二種の徳、③胸の中の公平な観察者、を順に読みます。 共感――想像の中で、苦しむ人と立場を替える 『道徳感情論』の第 1 章で、スミスは当たり前に見える事実から始めます。私たちは、他人が何を感じているかを直接には経験できません [2] 。兄弟が拷問台の上で苦しんでいても、自分が安楽でいるかぎり、自分の感覚はその苦しみを何も教えてくれません。感覚は、自分の体の外へは決して出ないからです(第 1 部 第 1 編 第 1 章 第 2 段落) [2] 。 では、どうして他人の苦しみが分かるのでしょうか。スミスの答えは 想像 です。想像によって、私たちは相手の立場に身を置き、同じ責め苦を受けている自分を思い描きます。そうして、程度は弱くても、相手の感じ方に似ていなくはない何かを、自分の中に感じるのです [2] 。大切なのは、想像が写すのは相手の感覚ではなく、 自分の 感覚の印象だという点です。 スミスは、すぐに身近な例を重ねます (図 1) 。綱渡りの芸人を見上げる群衆は、芸人が体をくねらせて釣り合いをとるのに合わせて、思わず自分の体もくねらせます。自分があの綱の上にいたらそうするはずだ、と感じるからです。誰かの腕や脚に一撃が振り下ろされかけると、見ている私たちは思わず自分の腕や脚を引っこめます(同章 第 3 段落) [2] 。 共感:想像の中で立場を替える 『道徳感情論』第 1 部 第 1 編 第 1 章 振り下ろされる一撃 思わず腕を引く 想像で身を置く 綱渡りと一撃は本人の例。 人数と身ぶりは本教材の描き方。 図 1 綱渡りを見上げる群衆を絵にしたものです(本教材の絵)。群衆は芸人の体を感じているのではなく、自分があの綱の上にいたらと想像して、自分の体を傾けています。左上の小さな枠は、振り下ろされる一撃を見て思わず腕を引く、もう一つの例です。 この共感の考えは、スミスの友人ヒュームの共感とは少し違います。SEP の整理では、ヒュームの共感は、相手が実際に感じていることがこちらに伝わる「伝染」型です。スミスの共感は、相手の立場に自分を置いてみる「投影」型です [1] 。投影型では、見る側の気持ちが当事者の気持ちと食い違うことがありえます。想像は実際の経験ほど強くないので、ぴったり重なることもありません [1] 。この食い違いが、次の節の出発点になります。 また、スミスは「共感」の語を広く使います。憐れみや同情は、他人の悲しみに寄りそう気持ちを指す語です。これに対して共感は、喜びや感謝や憤りを含め、どんな気持ちに対する同胞感情にも使える、とスミスは断っています(同章 第 5 段落) [2] 。相手の喜びにも、身を置いてみることで、悲しみと同じように加われるのです。 ここで間違えやすい スミスの共感を、相手と同じ気持ちがそのまま移ってくること、あるいは「かわいそうに思う」同情のことだ、と取らないようにしましょう。スミスの共感は、想像で相手の立場に身を置いてみる働きです。だから見る側の気持ちは相手と食い違いうるし、悲しみだけでなく喜びや憤りにも働きます [1] [2] 。 共感できることが是認すること――気持ちの調整と二種の徳 身を置いてみた自分の気持ちと、相手の実際の気持ちを比べると、何が分かるのでしょうか。スミスによれば、他人の気持ちを、その原因にふさわしいとして 是認 することは、自分がその気持ちに完全に共感していると気づくことと同じです。是認しないことは、共感しないと気づくことと同じです(第 1 部 第 1 編 第 3 章) [1] [2] 。 つまり私たちは、自分を物差しにして相手を測っています (図 2) 。友人の悲しみが、身を置いてみた自分の気持ちと釣り合えば「もっともだ」と感じます。大きすぎれば「行き過ぎだ」、小さすぎれば「冷たい」と感じます。スミスは、ふさわしい気持ちを、多すぎと少なすぎの間に置きました。本の終わりでは、自分の体系はアリストテレスの体系とかなりよく合う、とも述べています [1] 。 ① 当事者の気持ち 例:試合に負けた友人の悔しさ ② 身を置いてみる 観察者が想像で、自分ならどう 感じるかを思い描く ③ 比べる 合うか、行き過ぎか、足りないか ④ 是認か否認か 合えば「もっともだ」と認め、 合わなければ認めない ⑤ 互いに歩み寄る 観察者は気持ちを高め(思いやり)、 当事者は抑える(自制) ⑥ 基準は誰の共感か 実際の目は誤る。公平な観察者の目へ (第 3 部) 図 2 共感から是認と二種の徳が生まれる流れです(本教材の整理)。①〜④は第 1 部 第 1 編 第 1・3 章、⑤は同編 第 2・4・5 章に当たります。点線の段は、この章の三つ目の節で見る問いです。 共感し合えることは、人の大きな喜びです。そのため人は、気持ちを互いに調整し続けます。見る側は、当事者の立場に近づこうと想像を働かせ、気持ちを高めます。当事者は、見る側がついてこられる程度まで、気持ちを抑えます [1] 。この互いの歩み寄りから、二種の徳が生まれます。当事者が悲しみや喜びの洪水を抑える努力からは、畏敬すべき 自制 の徳が生まれます。見る側が他人の喜びと苦しみに加わろうとする努力からは、愛すべき思いやりと人間愛の徳が生まれます(同編 第 5 章) [1] [2] 。 本教材の作例で確かめましょう。試合に負けた友人が、悔しさで道具を投げつけ、審判を大声でなじったとします。そばの私は、身を置いてみても、そこまでの怒りにはついていけません。翌週、同じ友人が「悔しいけど、相手が上だった」と静かに言えば、私はその悔しさに深くうなずけます。友人は見る側がついてこられる所まで気持ちを抑え、私は友人の悔しさに近づこうと想像を働かせたのです。 スミスは、当時の哲学者が行いの結果ばかり見すぎている、とも言います。まず問うべきは、行いがそれを動かした気持ちにふさわしいかどうか、つまり 適宜性 だというのです。結果の良し悪しにかかわる「功績」は、第 2 部で別の要素として扱われます [1] 。 ここで間違えやすい スミスが「多くの人が共感するものが正しい」と言った、つまり道徳は多数派の感じ方で決まる、と取らないようにしましょう。是認の基準になるのは、実際にその場にいる人々の共感ではありません。次の節で見る、事情をよく知り利害に引かれない公平な観察者の共感です [1] 。 胸の中の公平な観察者――周りの目が誤るとき、何を基準にするか ところが、実際にその場にいる観察者は、いつも正しく見てくれるとは限りません。事情を知らなかったり、自分の利害に引かれたりして、私たちの立場を見誤ります。そこで私たちは、事情をよく知り、どちらにも引かれない 公平な観察者 なら持つであろう気持ちに基づいて、判断し、行おうとします。公平な観察者が共感するであろう気持ちが、道徳として是認に値する気持ちです [1] 。 この表で分かること: 同じ気持ちを裁くのでも、誰の目を基準にするかで判断の確かさが違います。スミスは、自分の感じ方でも周りの実際の目でもなく、公平な観察者の目を道徳の基準に置きます。 基準 何を見るか 誤りやすさ スミスの扱い 自分の感じ方 自分の立場だけ 自己愛と自己欺瞞で偏る 一般の規則で覆いを破る 実際の観察者 周りの人の称賛と非難 無知や利害で見誤る 称賛より称賛に値すること 公平な観察者 事情をよく知り利害なし 最も少ない 道徳の基準 表 1 判断の基準の三つの候補(本教材の整理。中身は SEP の要約と『道徳感情論』第 3 部による [1] [2] )。 この基準は、周りの人の今の評判から独立しています (表 1) 。スミスは、人からほめられることを求めるのと、ほめられるに値することを求めるのとを分け、後者を求める人を上に置きました(第 3 部) [2] 。 公平な観察者は、自分を見るときにも働きます。スミスの有名な例を見ましょう (図 3) 。仮に、中国という大帝国が地震に呑みこまれ、1億の人々が亡くなったとします。その報せを聞いたヨーロッパの情け深い人は、悲しみの言葉を口にしても、その夜はいつものように眠るでしょう。けれども、明日自分の小指を失うと知れば、今夜は眠れません。それでも、自分の小指を守るために 1 億の人の命を犠牲にしてよい、と考える人はいない、とスミスは言います。そう思わせないのは、か弱い人間愛ではなく、理性や良心、胸の中の人の声です(第 3 部 第 3 章) [2] 。 感じ方:自分の小指が大事 明日小指を失うなら 今夜は眠れない Z z z 新聞 大地震 1億の死の報せでも、今夜は眠る 行い:胸の中の人が止める 小指 1億の人々 おまえは大勢の 中の一人にすぎない 地震・小指・胸の中の人は本人の例。 天秤と吹き出しは本教材の描き方。 図 3 中国の大地震の例を、二つの場面に分けて絵にしたものです(本教材の絵)。一つ目は感じ方で、遠い 1 億の人の死より、自分の小指の方が心を騒がせます。二つ目は行いで、それでも小指のために大勢を犠牲にしようとはしない歯止めとして、胸の中の公平な観察者が手を挙げています。地震は、スミスが立てた仮定の話です。 ただし、人は自分に都合よく立場を偽る「自己欺瞞の覆い」に包まれがちです。そこで、個々の場面での是認と否認から「あれだけはしない」という一般の規則が作られます。殺人や盗みを禁じる規則は、この覆いを破る助けになります [1] 。それでも徳は、規則に従うだけでは足りません。本当に徳のある人は、公平な観察者の気持ちをうわべで装うのでなく、自分のものとして取りこみます。規則の枠の中では、作り手が粘土をこねるように、場面ごとに気持ちを形づくるのです [1] 。 ここで間違えやすい スミスを、利己心だけで動く人間像を説き、「見えざる手」が市場をすべて整えると唱えた経済学者だ、と取らないようにしましょう。「見えざる手」の語は『道徳感情論』にも『国富論』にも出ますが、意図しない結果を言う一つの例えで、考えの全体を表す語ではありません。またスミスは、国家がある程度は富を配り直し、貧しい人を守り、公共の事業を担うことも認めていました [1] 。 原典を読む 一つ目の節で見た共感の仕組みを、スミス自身の言葉で読みます(本教材の訳)。 スミス『道徳感情論』第 1 部 第 1 編 第 1 章 第 2 段落 想像によって、私たちは相手の立場に身を置く 人が他人