ジェイムズ――真理とは役に立つ観念である(信じる意志・根本的経験論) — Epoché
現代 プラグマティズム 約 18 分 本文 約 7,300 字 図 4・表 2 原典 1 節 この課の要点 選択・信仰・真理と経験の 3 つ 選択 両方の仮説が生きていて、避けられず、重大で、しかも知性の根拠では決まらない選択では、情念の本性が決めてよく、決めるしかない。「決めずに保留せよ」も一つの情念による決定で、真理を逃す危険を同じように負うからである(「信じる意志」第 I・IV 節)。 信仰 「真理を知れ」と「誤りを避けよ」は別の掟で、誤りを恐れて信じないのも一つの賭けである。好意や仲間の協力のように、前もって信じることが事実を生む場面では、証拠に先立つ信仰は正当でありうる(第 VII・IX 節)。 真理と経験 後年のジェイムズは、真理は健康と同じく善の一種で、私たちを不意打ちなしに経験の先へ運ぶ観念が真だと論じた(『プラグマティズム』第 2・6 講)。経験の部分は、それ自体も経験される関係によってつながっている(根本的経験論)。 はじめに 前の課で読んだパースは、考えの意味を、それが生むふるまいと経験の違いで測る格率を示しました。その古い友人ウィリアム・ジェイムズは、心理学者から哲学へ進んだ人です [1] 。 この課で中心に読むのは、講演「信じる意志」です。1896 年に雑誌に載り、翌年、同じ題の論集の巻頭に収められました [1] [2] 。問いは、証拠が出そろう前に信じてよいか、です。 クリフォードは「十分な証拠なしに何かを信じるのは、いつでも、どこでも、誰にとってもまちがいだ」と書いていました。ジェイムズはこの言葉を引いて、正面から向き合います [2] 。そして、待つこと自体が一つの選び方になる場面がある、と論じました。 さらに後年のジェイムズは、パースの格率を真理の理論へ広げ、経験そのものを見直す根本的経験論も説きました [1] 。 この課の問い 証拠がそろうまで信じないのは、いつでも正しい態度なのでしょうか。待つこと自体が一つの選び方になる場面もあります。そういうとき、心の傾きが決めてよいのでしょうか。 この課のことば 生きた仮説・死んだ仮説 信じるよう差し出される考えを、ジェイムズは仮説と呼びます。その人に本当にありうると感じられるのが生きた仮説、心がまったく動かないのが死んだ仮説です。生き死には仮説そのものでなく、考える人との関係で決まります。 本物の選択 二つの仮説のどちらを取るかの決断で、両方が生きていて、選ばない逃げ場が無く、二度とない重大な機会であるものです。 情念の本性 恐れと望み、好みや情熱、周りへの同調など、理屈以外で信念を動かすもの全体です。 証拠主義 十分な証拠なしに何かを信じるのは、いつでも誰にとってもまちがいだ、という立場です。この課ではクリフォードの言葉として出てきます。 信じる権利 講演「信じる意志」は本来こう題すべきだった、とジェイムズが後に書いた言葉です。ある場合にある信念を持つのは正当だ、という意味です。 根本的経験論 哲学で論じるのは経験から引いた言葉で定義できる事柄に限り、物どうしの関係も物と同じくじかに経験される、とする考えです。 信じる意志――証拠が足りないとき、信じてよいか パースは、考えの意味をそれが生むふるまいの違いで測りました。ジェイムズは、信念とふるまいを結びつける同じ見方から、証拠が出そろわないうちに信じてよいか、と問います。この章では、本物の選択とジェイムズの主張、二つの掟と信じることが事実を生む場面、後年の真理観と根本的経験論、の三つを順に読みます。 本物の選択――理屈で決まらない分かれ道では、心が決めてよい ジェイムズはまず言葉を整えます。信じるよう差し出されるものを仮説と呼び、二つの仮説のどちらを取るかの決断を 選択 と呼びます(「信じる意志」第 I 節) [2] 。仮説には生きたものと死んだものがあります。「マフディーを信じなさい」と言われても、講演の聞き手の心は少しも動きません。マフディーは、当時スーダンで救世主を名乗った人物を指すとみられます。しかしアラブの人には、信者でなくても、ありうる考えとして響きます。生き死には仮説の性質ではなく、考える人との関係で決まる、とジェイムズは言います [2] 。 選択には三つの区別があります (表 1) 。両方の仮説が生きているか、選ばない逃げ場が無いか、二度とない重大な機会か、の三つです。三つとも前の側にそろったものを、ジェイムズは 本物の選択 と呼びます [2] 。ナンセンに北極探検へ誘われたなら、断れば名を残す機会そのものを失うので、重大な選択です。化学者が一年かけて仮説を試し、結果がはっきりしなくても、失うのは時間だけです [2] 。 この表で分かること: 三つの区別のすべてで前の側にある選択だけが本物の選択で、ジェイムズの主張はそこに限られます。後ろの側の選択では、証拠を待ってかまいません。 区別 意味 前の側の例 後ろの側の例 生きた/死んだ 両方の仮説が心に響く 不可知論者かキリスト者か 神智学者かイスラム教徒か 避けられない/避けられる 選ばない逃げ場が無い この真理を受け入れるか否か 傘を持って出るか 重大/重大でない 二度とない・取り返せない ナンセンの北極探検 化学者の一年の実験 表 1 選択の三つの区別。区別と例はジェイムズ本人によります(「信じる意志」第 I 節) [2] 。 では、望めば何でも信じられるのでしょうか。ジェイムズの答えは否です。望むだけで、リンカーンが架空の人物だとは信じられません [2] 。それでも、私たちの信念は理屈だけで決まってはいません。分子もエネルギーの保存も、多くの人は自分で確かめずに信じています。支えているのは、周りの空気や恐れと望みです(第 III 節) [2] 。 二つの仮説の選択 生きた・避けられない・重大か、 知性で決まるかを問う どれかが欠ける 死んだ・避けられる・重大でない 選択は、証拠を待ってよい 知性で決まる 本物の選択でも、知性の根拠があるなら 証拠で決める 知性で決まらない 本物の選択なら、情念の本性が決めて よく、決めるしかない 図 1 二つの仮説の間の選択が、ジェイムズの区別でどこへ振り分けられるか(本教材の整理)。上から順に、三つの区別のどれかが欠ける選択、本物で知性の根拠で決まる選択、本物で知性では決まらない選択です。区別と結論は本人によります(「信じる意志」第 I・IV・VIII 節) [2] 。 そのうえでジェイムズは主張を立てます。本物の選択で、しかも知性の根拠では決められないものでは、 情念の本性 が決めてよく、また決めなければならない、とジェイムズは言います (図 1) 。そういうとき「決めずに保留せよ」と言うのも、それ自体が情念による決定で、真理を逃す危険を同じように負うからです(第 IV 節) [2] 。 ここで間違えやすい 「信じる意志」を、信じたいことは意志の力で何でも信じてよい、という勧めと取らないようにしましょう。ジェイムズは、望むだけでは信じられないことを先に認めています(第 II 節)。主張は、本物の選択で、しかも知性では決まらない場合に限られます。題が誤解を招いたため、後に「信じる権利」と題すべきだったと書きました [1] 。 二つの掟――信じることが事実を生む場面がある クリフォードの証拠主義に、ジェイムズはどう答えるのでしょうか。鍵は、「真理を知れ」と「誤りを避けよ」が同じ掟の言い換えではなく、二つの別の掟だ、という指摘です(第 VII 節) [2] 。何も信じなければ、誤りは確かに避けられます。けれども真理も得られません。クリフォードは、誤りを避けるほうを第一にしています。 ジェイムズは、それも一つの気持ちの選び方にすぎないと見ます。だまされるのを恐れる気持ちも情念の一つだからです。誤るくらいなら永久に信じないほうがよい、という勧めは、傷を負うくらいなら永久に戦場に出るな、と兵に命じる将軍のようだ、とジェイムズは言います [2] 。 ただし、いつでも急いで信じよ、というのではありません。重大でない選択なら、客観的な証拠が出るまで判断を控えてよいのです。自然の事実を扱うとき、私たちは真理の記録係であって作り手ではありません。科学の問いでは、ほとんどいつも待つのが賢いと、ジェイムズは認めます(第 VIII 節) [2] 。 待つことが正しくないのは、事実が私たち自身のふるまいに左右される場面です(第 IX 節) [2] 。「あなたは私が好きか」という問いの答えは、こちらが歩み寄り、好かれているはずだと前もって信じて信頼を示すかどうかに左右されます。証拠が出るまで一歩も動かない人には、十中八九、好意はやって来ません [2] 。 互いを信じられないとき 動けば自分だけ撃たれる 強盗は互いを当てにできる 乗客は一人ずつ孤立 数人の強盗が列車全体を奪う 互いを信じられるとき みなが立つなら自分も立つ 強盗は手を出せない 乗客が一斉に立つ 強盗は企てられもしない 図 2 列車強盗の例を絵にしたものです(本教材の絵)。一つ目の絵では、乗客一人ひとりは勇敢でも、動けば自分だけ撃たれると恐れて誰も立てず、互いを当てにできる数人の強盗が勝ちます。二つ目の絵では、みなが一斉に立つと前もって信じるので、強盗は企てることさえできません(「信じる意志」第 IX 節) [2] 。列車強盗は本人の例で、車内の配置・人数・吹き出しの言葉は本教材の作例です。 集まりでも同じです。ジェイムズは列車強盗の例を出します (図 2) 。一人ひとりは勇敢な乗客が、数人の強盗に負けるのは、互いを当てにできないからです。みなが一斉に立つと信じられるなら、強盗はそもそも企てられません [2] 。事実の到来を前もって信じなければ、その事実がまったく来ない場合がある、というのです。この段は「原典を読む」で訳して読みます。 ジェイムズはこの考えを宗教の仮説にも当てはめます。その人に生きた仮説なら、保留しても、もし真ならその善を失います。懐疑は選択を避けることではなく、誤りの危険より真理を失う危険を選ぶ、という一つの賭けだと言います(第 X 節) [2] 。 ここで間違えやすい 「信じれば何でも本当になる」と取らないようにしましょう。信じることが事実を生むのは、好意や協力のように、私たち自身の行いに左右される事実に限られます。自然の事実については、私たちは記録係であって作り手ではない、とジェイムズは明言しています(第 VIII 節)。宗教の議論も、それがその人に生きた仮説であることを前提にしています。 働く真理と根本的経験論――真理は経験の中でつくられ、確かめられる ジェイムズが自分をプラグマティストと初めて名乗ったのは、1898 年のバークレーでの講演「哲学的概念と実際的結果」です [1] 。1907 年の『プラグマティズム』では、パースの格率にならって意味を「対象が含みうる、実際的な種類の考えうる効果」とし、この見方を論争を解く方法として使ってみせます [1] [3] 。 一つ目の意味:方角で数える 北 東 南 西 リス 人 北・東・南・西へ回る→回っている 二つ目の意味:向き合う面で数える 背 右 左 腹 目線はいつも腹へ 人 リスも回る 背の側へは行けない→回っていない 図 3 木のまわりのリスの論争を、上から見下ろして描いたものです(本教材の絵)。一つ目の絵は「まわりを回る」を方角で数える意味で、人はリスの北・東・南・西へ順に行くので、回っています。二つ目の絵は向き合う面で数える意味で、リスはいつも腹を人に向けて回るので、人はリスの背の側へは行けず、回っていません(『プラグマティズム』第 2 講) [3] 。木とリスの論争は本人の例で、方角の文字・人の影・目線の矢印は本教材の描き方です。 例は木のまわりのリスです(第 2 講) [3] 。木の幹にリスがしがみつき、反対側に人が立ちます。人が回ると、リスも同じ速さで反対へ回り、いつも幹を挟んで向き合います。この人はリスのまわりを回っているのでしょうか。仲間は二つに割れました。ジェイムズは答えます。リスの北・東・南・西へ順に行くことなら、回っています。リスの前(腹の側)・右・後ろ(背の側)・左へ順に回ることなら、回っていません。リスはいつも腹を人に向けているからです (図 3) [3] 。区別をつければ、それ以上争う理由はありません。 同じ見方を、ジェイムズは真理に向けます。真理は健康と同じく善の一種だ、と言います(第 2・6 講) [1] [3] 。真の観念とは、それに「乗って」、不愉快な驚きなしに未来へ進める観念です。真理は人の経験の中で「つくられ」、多くは今まさに確かめられてはおらず、紙幣のように信用で通用しています。それでも、誰かが具体的に確かめた信念が、上に建つ全体の柱になります [1] 。 では真理は、人間の都合しだいなのでしょうか。ジェイムズは「プラグマティズムと人間主義」の講で、私たちは星座を描き出すように、人間の目的に合わせて世界を切り分けると言います [1] 。けれども、真理をつくるどの経験にも、今の感覚とこれまでの信念という抵抗するものがあります。無から真理をつくるのでも、人間と無関係でもありません [1] 。 経験そのものについては、 根本的経験論 を説きました。それは三つからなります。一つ目の要請は、哲学で論じるのを、経験から引いた言葉で定義できる事柄だけにすることです。二つ目の事実は、関係も、結ばれる物と同じくじかに経験されることです。三つ目の結論は、だから経験の部分は、経験される関係で隣から隣へつながっている、ということです [1] [4] 。心と物を、どちらでもない「純粋経験」の並び方の違いとみる考えもありますが、SEP はこれを根本的経験論とは別の説だとしています [1] [5] 。 ここで間違えやすい 「真理とは役に立つ観念だ」を、都合がよい考え、得になる考えなら何でも真理だ、と取らないようにしましょう。ジェイムズは、真理づくりには感覚とこれまでの信念という抵抗するものがあり、確かめられた信念が全体の柱だと言います [1] 。「役に立つ」は、経験の先へ不意打ちなしに導く、という意味で読みます。根本的経験論も、関係やつながりまでが経験の中にある、という点に要があります。 原典を読む 第 1 章で触れた列車強