14.36 譲歩を積んで折り返す — 四百七十六語の一文 — Epoché
この篇でできるようになること ★ 譲歩を積んで折り返す 長い一文が読める。 ★ 脚註が本文に入る 作りが分かる。 ★ 語の来歴を書く やり方に気づける。 ★ 書かれた年のものの見方 として読める。 前提 : 特別編に門はありません。第 5 期まで済んでいれば、どこからでも読めます(目安は 3.40 まで/4.60 まで)。 読む前に ★ この章では 何も起きません 。★ 『白鯨』には、 筋の進まない章がいくつも挟まっています ——★ 鯨の学名、絵に描かれた鯨、鯨の白さ 。★ この章はその一つで、 いちばん有名なもの です。★ 背景は 12.12 知編 にあります 。 ★ 読む前に断っておきます 。★ この章には 当時の人種の見方 がそのまま入っています ——★ 白い色が高いとされてきた例を並べるなかに、 人についての一句 があります 。★ 原文は 1 字も変えていません 。★ 1851 年の記録として読んでください ( 12.21 知編 )。★ この章の論そのものは 「白さは怖い」 という向き なので、★ その一句も あとで折り返される側 に置かれています ——★ そこまで見て読むのが、この章の読み方 です。 何を見るか この篇での値 何が分かるか ★ 一文の語数 ★ 平均 35.9 語(最短 1・最長 476) ★ この課程でいちばん長い一文 ★ though ★ 12 回 ★ 譲歩を積んでいる ★ セミコロン ★ 39 個(文は 46 本) ★ 切らずに足していく ★ 読編に 同じ本の別の章 があります ——★ 8.193 読編 ・ 8.194 読編 (第 1 章) 。★ そちらは 語り出しと、船に乗る前の宿探し で、★ この篇は 筋が止まる第 42 章 です。 原文 原文は別の文書にあります(作品ページの「原文」)。本文は 1650 語、段落は 11 、文は 46 本、一文の平均は 35.9 語です。 ★ 設計では第 1 章を読む予定でした ——★ あの有名な書き出しは 読編で読みます 。★ 重ならないように、 第 42 章に替えてあります 。 ★ 星印( * )が 4 か所 あります。★ これは 脚註の印 で、★ 註の本文も この原文に入っています ——★ 星印で始まる段落が、その註 です。 全訳 原文の全訳です。この課程のために、原文に沿って訳しました。番号は原文の段落の番号で、原文と行き来できます。 白い鯨がエイハブにとって何であったかは、すでにほのめかしてきました。ときに、それが私にとって何であったかは、まだ語られずに残っています。 モービィ・ディックにまつわる、もっと分かりやすい事がら、つまりどんな人の魂にもときおり何らかの不安を呼び覚まさずにはいなかった事がらとは別に、彼についてもう一つの思い、いやむしろ、ぼんやりとした名もない恐れがありました。それはときに、その激しさによって、ほかのすべてを完全に圧倒しました。それでいて、それはあまりに神秘で、ほとんど言い表せないので、分かる形にすることを私はほぼあきらめています。何にもまして私をおびえさせたのは、あの鯨の白さでした。けれども、ここでどうして自分の考えを説き明かせると望めるでしょう。それでも、何かぼんやりとした、行き当たりばったりのやり方ででも、私は説き明かさなければなりません。さもなければ、これまでのすべての章が無に帰してしまうかもしれないのです。 たとえ多くの自然のものにおいて、白さが、まるで自分だけの特別な力を授けるかのように、美しさを洗練して高めているとしても――大理石や椿や真珠のように。そしてたとえさまざまな国民が、何らかの形でこの色にある種の王者の優位を認めてきたとしても――野蛮で壮大なペグーの古い王たちでさえ、「白象の主」という称号を、ほかのあらゆる大げさな支配の称号の上に置き、現代のシャムの王たちは、その同じ雪のように白い四つ足の獣を王旗に掲げ、ハノーヴァーの旗はただ一つの姿、雪のように白い軍馬を描き、そして世を支配したローマの跡継ぎである、カエサルの系譜の大オーストリア帝国は、帝国の色として、この同じ帝王の色を用いてきたのですが。そしてたとえこの色の優位が人類そのものにも当てはめられ、白人に、あらゆる肌の浅黒い部族を治める理想の主人の座を与えているとしても。さらにたとえ、こうしたことのほかに、白さが喜びのしるしにさえされてきたとしても――ローマ人のあいだでは、白い石が喜ばしい日の印だったのです。そしてたとえ、人間のほかの共感や象徴の働きにおいて、この同じ色が、多くの心を打つ気高いものの象徴とされているとしても――花嫁の無垢、老いの慈しみ。たとえアメリカの赤色人種のあいだで、白いワムパムの帯を贈ることが、名誉にかけたいちばん深い誓いであったとしても。たとえ多くの土地で、白さが裁判官のアーミンの毛皮において正義の威厳を表し、乳のように白い馬に引かれる王や女王の日々の威儀に添えられているとしても。たとえ、もっとも尊い宗教のより高い秘儀においてさえ、白さが神の汚れなさと力の象徴とされてきたとしても――ペルシアの拝火教徒のあいだでは、白い二股の炎が祭壇の上でいちばん神聖とされ、ギリシアの神話では、偉大なユピテルその人が雪のように白い牡牛となって姿を現したのです。そしてたとえ、気高いイロコイの人々にとって、聖なる白い犬を冬至に捧げる儀式が、その神学の中でずばぬけて神聖な祭りであり、その汚れなく忠実な生き物が、自分たちの変わらぬ忠誠の知らせを毎年大いなる霊に届けるために送ることのできる、いちばん清い使者とされていたとしても。そしてたとえ、白を表すラテン語から直接に、すべてのキリスト教の司祭が、その聖なる衣の一部、つまりカソックの下に着るアルバ、すなわち長衣の名を取っているとしても。そしてたとえ、ローマ・カトリックの信仰の聖なる儀式の中で、白が主の受難を祝うのに特に用いられているとしても。たとえ聖ヨハネの幻において、贖われた者たちに白い衣が与えられ、二十四人の長老たちが白をまとって大きな白い玉座の前に立ち、そこに座す聖なる方が羊毛のように白いとしても。それでも、甘美なもの、誉れあるもの、崇高なもの、そのすべてとこれほど積み重なった結びつきがあるにもかかわらず、この色のいちばん奥の観念には、なおとらえがたい何かが潜んでいて、それは、血の中にあって人をおびえさせるあの赤さよりも、もっと強い恐慌を魂に打ち込むのです。 このとらえがたい性質こそが、白さという思いを、もっと優しい結びつきから切り離して、それ自体として恐ろしいものと結びつけたとき、その恐ろしさを果てまで高めるのです。両極の白い熊と、熱帯の白い鮫を見てください。あの滑らかで薄片のような白さでなければ、何が彼らをあれほどの恐ろしさにしているのでしょうか。あのぞっとするような白さこそが、彼らの姿の、声もなくほくそ笑むような様子に、ひどく忌まわしい穏やかさを与えているのです。それは恐ろしいというより、むしろおぞましいものです。ですから、紋章のような毛皮をまとった牙の鋭い虎でさえ、白に包まれた熊や鮫ほどには勇気をぐらつかせることはできません。* *北極熊について言えば、この問題をさらに深く掘り下げたいと願う人は、こう主張するかもしれません。あの獣の耐えがたい醜さを高めているのは、それだけを取り出した白さではない、と。分析してみれば、その高められた醜さは、ただ、あの生き物の責任を負わない凶暴さが、天上の無垢と愛の毛皮をまとっているという事情から生じているにすぎない、と言えるかもしれません。そしてそれゆえ、そのように正反対の二つの感情を私たちの心の中で引き合わせることで、北極熊はあれほど不自然な対照によって私たちを怖がらせるのだ、と。けれども、たとえこれがすべて正しいとしても、それでも、もし白さがなかったら、あれほど強められた恐ろしさはないでしょう。 白い鮫について言えば、ふだんの様子で見たときの、あの生き物が静かにしているときの、白く滑るような幽霊めいたありようは、北極の四つ足の獣にある同じ性質と、不思議に一致しています。この特徴を最もあざやかに言い当てているのは、フランス人がその魚に付けた名です。ローマ・カトリックの死者のためのミサは「 Requiem eternam 」(永遠の安息)で始まります。そこから「レクイエム」がそのミサそのものや、ほかのあらゆる葬送の音楽を指すようになりました。さて、この鮫にある、死の白く静かな静けさと、その習性の穏やかな恐ろしさをほのめかして、フランス人はこれを「 Requin 」と呼ぶのです。 アホウドリのことを考えてごらんなさい。あの白い幻があらゆる人の想像の中を漂っている、あの霊的な驚きと青ざめた恐れの雲は、どこから来るのでしょうか。その魔法を最初にかけたのはコールリッジではありません。神の偉大な、へつらうことのない桂冠詩人、自然なのです。* *私は初めて見たアホウドリを覚えています。それは長く続いた強風のさなか、南極の海のすぐそばの海域でのことでした。午前の当直を終えて下にいた私は、雲に覆われた甲板に上がりました。するとそこで、大きな昇降口のふたに打ちつけられた、汚れひとつない白さの、王者のような羽毛のものを見ました。その鉤形の、ローマ人のような嘴は崇高でした。ときおり、それはまるで何か聖なる箱舟を抱こうとするかのように、大天使のような巨大な翼を弓なりに広げました。不思議な羽ばたきと震えが、その身を揺さぶっていました。体には傷がないのに、それは、この世ならぬ苦しみの中にある何かの王の亡霊のように、叫び声を上げました。その言いようもない不思議な目を通して、私は神をつかんでいる秘密をのぞき見たように思いました。天使たちの前のアブラハムのように、私はひれ伏しました。その白いものはあまりに白く、その翼はあまりに広く、そしてあの永遠に追放された海の中で、私は、しきたりと町のことが作る、みじめでゆがんだ記憶を失っていたのです。長いあいだ、私はその羽毛の驚異を見つめました。そのとき私の中を駆け抜けたことを、私は語ることができず、ただほのめかすことしかできません。けれども、ついに私は我に返り、振り向いて一人の水夫に、これは何という鳥かと尋ねました。グーニーだ、と彼は答えました。グーニー! その名は一度も聞いたことがありませんでした。この輝かしいものが陸の人々にまったく知られていないなどということがありうるでしょうか。ありえない! けれども、しばらくしてから、グーニーとはアホウドリを指す、船乗りの何かの呼び名だと知りました。ですから、私たちの甲板の上であの鳥を見たときに私が受けたあの神秘な印象に、コールリッジの奇怪な『歌』が何かかかわっていたということは、決してありえません。なぜなら、私はそのときまだその『歌』を読んでおらず、その鳥がアホウドリだということも知らなかったからです。それでも、こう言うことで、私はただ間接的に、あの詩と詩人の気高い値打ちを、少しばかりさらに輝かせているにすぎません。 そこで私は断言します。あの鳥の不思議な体の白さにこそ、主としてあの魔法の秘密が潜んでいるのだ、と。このことは、言葉の誤用によって灰色のアホウドリと呼ばれる鳥がいることで、いっそうはっきりします。その鳥を私はたびたび見てきましたが、あの南極の鳥を見たときのような感情を抱いたことは一度もありません。 けれども、あの神秘のものはどうやって捕らえられたのでしょうか。他言しないなら、教えましょう。その鳥が海に浮かんでいるあいだに、裏切りの釣り針と糸で、です。ついに船長はそれを郵便配達夫に仕立てました。船の日時と位置を記した、文字の入った革の札をその首に結びつけ、それから逃がしてやったのです。けれども私は疑いません。人間に宛てたその革の札は、白い鳥が、翼をたたみ、祈り、崇めるケルビムたちに加わろうと飛んでいったとき、天国で外されたのだと。 私たちの西部の年代記とインディアンの言い伝えの中で最も名高いのは、「大草原の白い駿馬」の話です。それは、目が大きく、頭が小さく、胸の張った、乳のように白い見事な軍馬で、その高く、すべてを見下す身のこなしには、千人の君主の威厳がありました。彼は、野生の馬の大群の、選ばれたクセルクセスでした。その牧草地は、当時はロッキー山脈とアレゲーニー山脈によってだけ囲われていたのです。燃えるようなその群れの先頭に立って、彼は、毎夕光の軍勢を率いていくあの選ばれた星のように、西へと進んでいきました。きらめく滝のようなたてがみと、弧を描く彗星のような尾は、金や銀を打つ職人が彼にこしらえることのできたどんな馬飾りよりもまばゆい飾りを、彼にまとわせていました。それは、あのまだ堕ちていない西の世界の、まことに帝王らしく大天使のような幻でした。年老いた罠猟師や狩人たちの目には、それは、アダムが神のように堂々と、この力強い駿馬のように額を張って恐れを知らずに歩いていた、あの太古の時代の栄光をよみがえらせるものでした。オハイオ川のように果てしなく平原を流れていく数えきれない軍団の先頭で、副官や元帥たちに囲まれて進んでいるときも、あるいは、まわりを取り巻く臣下たちが地平線のあたり一面で草を食んでいるときも、白い駿馬は、冷たい乳色の中に赤みのさす温かい鼻孔で、駆けながら彼らを閲兵しました。どのような姿で現れても、いちばん勇敢なインディアンたちにとってさえ、彼はいつも、震えるような崇敬と畏怖の的でした。そして、この気高い馬について伝説として記録に残っていることから、疑いようもありません。彼を神々しさで包んだのは、主にその霊的な白さだったのであり、その神々しさには、崇拝を求めながら、同時にある種の名もない恐れを強いる何かがあったのです。 語釈 帯の外の語は 278 語で、★ 第 IV 部でいちばん多い です。★ 五つに分かれます ——★ 一つめは人・土地・書きものの名 、★ 二つめは白さと色の語 ( hue ・ flaky )、★ 三つめは恐れと不快の語 ( abhorrent ・ loathsome )、★ 四つめは聖と王の語 ( cherubim ・ ermine )、★ 五つめは船と旅の語 。★ 三つめと四つめが同じ章に並ぶこと が、★ この章の言いたいこと です。 語(品詞) 意味 注 Abraham en 名 アブラハム。聖書の族長 Adam en