政治改革――1994年の選挙制度改革 — Epoché
国際と日本 日本の政治 約 24 分 本文 約 10,600 字 図 4・表 2 資料 1 節 この課の要点 背景・制度・影響の 3 つ 背景 1988年のリクルート問題で政治不信が高まり、1990年の第八次選挙制度審議会の答申は、中選挙区制を根本から改めて政策本位・政党本位の選挙にすべきだと述べた 制度 1991年の法案は廃案、1993年の政権交代の後、1994年に小選挙区300・比例代表200の並立制と政党交付金が成立した(2月4日公布の法では274・226) 影響 政党が選挙の主役になり、2009年と2012年に政権交代も起きたが、制度が原因かは別の問いで、一人別枠方式による一票の較差は裁判で争われた はじめに 1996年10月20日の衆議院の総選挙で、有権者は小選挙区と比例代表に1票ずつを投じました。1枚には候補者の名を、もう1枚には政党の名を書きます [2] 。この新しい制度による最初の総選挙です [1] 。それまで、戦後の一度の例外を除いて1925年から続いてきたのは中選挙区制でした [1] 。いま私たちが見慣れている衆議院の選挙の形は、1994年の政治改革で生まれたものです。 なぜ、選挙のやり方そのものを変える必要があったのでしょうか。きっかけは1988年のリクルート問題で、政治への不信が国民の間に広がりました [1] 。ところが議論は、政治資金の規制を強めることにとどまらず、選挙制度を変えることへと進みます。選挙の仕組みを変えれば、政治家や政党の行動も変わるはずだ、という考えが改革の中心にありました。 改革は一度で決まったわけではありません。審議会の答申、内閣の法案の廃案、内閣不信任と解散、自民党が政権を離れた後の連立内閣、参議院での否決、与野党のトップ会談と、数年にわたる曲折がありました。その途中で、小選挙区と比例代表の数は何度も入れ替わっています。 この課では、背景、出来事と制度、担い手の考え、いまへの影響の順にたどります。この課程の『55年体制――自民党の長期政権』の課で見た一党優位の時代が、どんな制度を残して区切りを迎えたのかを考えます。資料の節では、衆議院の定数を定める条文が1994年の2か月ほどの間に書き換わった跡を、条文そのもので読みます。「考えてみる」では、最高裁判所の裁判官の意見が分かれた「一人別枠方式」を手がかりに、選挙区の線引きで何を大事にするかを考えます。 この課の問い 1994年の政治改革は、なぜ中選挙区制をやめて、小選挙区と比例代表を並べる制度を選んだのか。その制度は政党と選挙をどう変え、何が争いとして残ったのか。 この課のことば 中選挙区制 一つの選挙区から複数の議員を選び、有権者は候補者一人の名だけを書く仕組み。1996年より前の衆議院の選挙はこの形でした。たとえば3人を選ぶ区で、5人の候補から1人の名を書く、という形です 小選挙区制 一つの選挙区から一人だけを選び、いちばん多く票を得た候補が当選する仕組み。クラスの委員を1人だけ選ぶ選挙と同じ形です 比例代表制 政党の名に投票し、各党の得票に応じて議席を分ける仕組み。当選する人は、政党が前もって出した名簿の順に決まります 並立制 小選挙区と比例代表の二つの選挙を同時に行い、それぞれの当選者を足し合わせる仕組み。比例の得票で党の議席の総数を決め直すことはしません 重複立候補 同じ人が小選挙区の候補と比例代表の名簿の両方に名を連ねること。小選挙区で負けても比例で当選すると、「復活当選」と呼ばれます 政党交付金 国が税金から政党に配るお金。1994年の政党助成法で始まり、所属する議員の数と選挙での得票に応じて配られます 政治改革――中選挙区制はなぜ小選挙区比例代表並立制に変わったか この章では、1988年から1996年までの出来事を、背景、出来事と制度、担い手の考え、いまへの影響の順にたどります。制度の数字が何度も変わるので、成立、公布、改正の日付を分けて読むことが大切です(本教材の整理)。 背景――「政治とカネ」と中選挙区制 1988年のリクルート問題を発端に、国民の間で政治への不信が高まり、「政治改革」の必要が各方面で論じられるようになりました [1] 。当時、自治省で改革の法案づくりにかかわった吉田弘正の回想によれば、この流れの中で1989年6月、宇野内閣のときに第八次選挙制度審議会が発足します [1] 。委員は学識経験者27名でした [1] 。過去の審議会では国会議員が特別委員として加わっていましたが、第八次の審議会は学識経験者だけで組まれました [1] 。選挙の規則で得をしたり損をしたりする当事者を、議論の席から外したことになります(本教材の整理)。 審議会は1990年4月に答申を出しました [1] 。答申は、中選挙区制の下で生じている問題は「制度の運用のみではもはや改善し得ない」とし、「政策本位、政党本位の選挙」を実現するには、選挙制度を根本から改める必要があると述べています [1] 。ここで大事なのは、答申が政治資金の規制だけでなく、選挙の仕組みそのものに問題の根を求めたことです。ただし、その「問題」の中身を答申がどう並べたかは、吉田の要約には詳しく書かれていません。 では、中選挙区制とはどんな仕組みだったのでしょうか。最高裁判所はこれを「中選挙区単記投票制」と呼んでいます [2] 。一つの区から複数の議員を選ぶのに、有権者は一人の名しか書けない、という意味です。改正前の公職選挙法には、当選に必要な最低の票の数を、有効投票の総数を「選挙区内の議員の定数」で割り、その4分の1とする定めがありました [3] 。一つの区から複数を選ぶ形が、条文の書き方にも表れていたのです。 この仕組みが大きな政党に何をもたらすかを、本教材の整理で考えてみます (図 1) 。衆議院で過半数を目指す政党は、一つの区に2人、3人と候補を立てなければ、議席の半分を取れません。すると、同じ党の候補どうしが、同じ党の支持者の票を奪い合うことになります。いわゆる「同士討ち」です。小選挙区なら、一つの区に立つのは各党1人が原則になり、争いは党と党の間に移ります。 中選挙区(3人を選ぶ区) A党① A党② B党 C党 A党の支持者 B党の 支持者 C党の 支持者 4人で3議席。A党の二人が同じ票を奪い合う 小選挙区(1人を選ぶ区) A党の候補 B党の候補 A党の支持者 B党の支持者 争いは党と党の間に移る 図 1 中選挙区と小選挙区の争い方の違い(本教材の作例。実在の区ではありません)。上の絵は3人を選ぶ区に4人が立ち、同じ党の二人が同じ支持者を奪い合って一人が落ちうる場面、下の絵は1人を選ぶ区で党と党が向き合う場面です。 同じ党の候補どうしは、掲げる政策で違いを出しにくいはずです。そこで、地元への世話や後援会の活動、使える資金の多さで競う誘因が生まれうる、と考えられます(本教材の推論)。これが、「政治とカネ」の問題と選挙制度とを結びつけた筋道でした。ただし、この推論はどの候補にも必ず当てはまる法則ではありません。政策で差をつけにくい場合に起こりやすい傾向として読むべきものです。 改革の進め方にも特徴がありました。選挙制度の改正は、政党の消長や議員一人ひとりに大きく響くため、議員立法で行われることが多いと吉田は書いています。しかしこのときは、審議会の答申を受けた立法なので、内閣が法案を出すことになりました [1] 。利害の当事者である議員どうしの話し合いではなく、第三者の答申から始める形をとったのです。 ここで間違えやすい 「中選挙区制が汚職の直接の原因だった」と言い切るのは行き過ぎです。答申が述べたのは、中選挙区制の下で生じている問題は運用だけでは直せない、ということでした。同士討ちから資金の競争が生まれるという筋道は、改革を支えた推論として読みます。 出来事と制度――廃案から1994年の成立まで 答申を受けた海部内閣は、答申と一部違う方針をまとめました。総定数471人、うち小選挙区300人、比例代表171人という案です [1] 。海部俊樹首相は1991年の臨時国会の所信表明で、政策を争点にする政党本位の選挙が要ること、比例代表を並べて少数意見の反映にも配慮したことを説きました [1] 。当時512人だった定数を471人に減らすことも掲げています [1] 。しかしこの国会では、審議期間が限られ、反対論も多く、法案は審査未了で廃案になりました [1] 。 次の宮澤内閣の下では、自民党が単純小選挙区制の案を、社会党と公明党が共同で小選挙区併用型比例代表制の案を、それぞれ国会に出しました [1] 。決着はつかず、国会の終盤に野党が出した宮澤内閣不信任決議案は、自民党からも賛成や欠席の議員が出て可決され、衆議院は解散されます [1] 。1993年の総選挙で、自民党は第一党を保ったものの過半数に届かず、非自民の8党派の連立による細川内閣が生まれました [1] 。発足は1993年8月です [7] 。 1988年 リクルート問題で政治不信が 高まる 1989年6月 第八次選挙制度審議会が発足 1990年4月 答申:選挙制度を根本から改める 1991年 海部内閣の法案が審査未了で廃案 1993年 不信任可決・解散、8月に 細川内閣 1994年1月 参議院で否決、細川・河野が合意 1994年2月 法律第2号の公布(274・226) 1994年3月 法律第10号の公布(300・200) 1996年10月 新しい制度で初めての総選挙 図 2 政治改革の歩み(1988〜1996年)。成立・公布・改正の日付を分けて示します。 細川内閣は政治改革を最優先の課題とし、関連する四つの法案を国会に出しました [1] 。小選挙区250人・比例代表250人で総定数を500人とし、小選挙区の区割りは法案から切り離して、新しく置く衆議院議員選挙区画定審議会の勧告に任せる案です [1] 。これに対して自民党は、総定数471人・小選挙区300人・比例代表171人とし、比例代表を都道府県の単位で選び、1票で両方を選ぶ対案を出しました [1] 。同じ並立制でも、小選挙区と比例代表の割合をめぐって、各案の数字は大きく違っていました (表 1) 。 この表で分かること: 小選挙区と比例代表の割合は、案と改正のたびに入れ替わった 案・条文(年) 小選挙区 比例代表 総定数 審議会の答申(1990) 6割 4割 500人程度 海部内閣の法案(1991) 300 171 471 細川内閣の政府案(1993) 250 250 500 自民党の対案(1993) 300 171 471 法律第2号(1994年2月公布) 274 226 500 法律第10号(1994年3月公布) 300 200 500 現行の条文(2026年11月) 289 176 465 表 1 衆議院の定数をめぐる各案と条文です(単位は人)。答申は割合と目安だけを示しました。現行は2026年11月に確かめた条文です。 政府案は衆議院で修正のうえ可決されましたが、参議院では、特別委員会で可決された後、本会議で否決されます [1] 。1994年1月21日のことです [7] 。その後、土井衆議院議長の斡旋を経て、細川首相と河野洋平自民党総裁が会談しました。総定数500人、小選挙区300人、比例代表200人とし、比例代表はブロック単位で選ぶことで合意が成り立ちます [1] 。 ここから先は、日付を分けて読む必要があります(本教材の整理)。公職選挙法の一部を改正する法律(平成6年法律第2号)は1994年1月に成立し [2] 、2月4日に公布されました [3] 。ところが、この法律が定めた内訳は小選挙区274人・比例代表226人で [3] 、会談の合意とは違います。合意の数字になったのは、3月11日に公布された法律第10号が、274を300に、226を200に改めたときです [4] 。吉田も、最終的な関係法案の成立は3月だったと記しています [1] 。さらに同じ年の法律第104号による改正も経て、中選挙区単記投票制は小選挙区比例代表並立制に改められました [2] 。 ここで間違えやすい 「1994年1月の合意で小選挙区300・比例代表200が決まり、そのまま法律になった」と覚えるのは不正確です。2月4日に公布された法律第2号は274・226で、300・200になったのは3月11日公布の法律第10号による改正でした。成立、公布、改正の日付を分けて読みます。 担い手の考え――政党を選挙の主役にする設計 改革を進めた人々は、新しい制度で何を変えようとしたのでしょうか。手がかりは1990年の答申の中身です。答申は、総定数を500人程度とし、その6割を小選挙区、4割を比例代表とする目安を示しました [1] 。小選挙区の間の人口の格差は1対2未満を基本原則とし [1] 、比例代表は全国を11に分けたブロックの区域で選ぶとしています [1] 。各党の当選者の数は、ブロックごとの得票をもとにドント式で決めるとしました [1] 。 答申の柱は、選挙の主役を候補者個人から政党に移すことでした。小選挙区の候補を比例代表の名簿にも同時に載せられるようにし [1] 、名簿で同じ順位を付けた候補の間では、小選挙区での得票率の順に当選を決めるとしています [1] 。成立した法律もこの考えを受け継ぎました。要件を満たす政党は、小選挙区の候補を比例代表の名簿に載せることができ [3] 、その人たちの全部か一部を同じ順位に並べることもできます [3] 。同じ順位の中の順番は、自分の得票を、その区でいちばん多く票を得た人の得票で割った値の大きい順に決まります [3] 。これがいわゆる惜敗率です。 投票の仕組みを整理しておきましょう (図 3) 。有権者は小選挙区と比例代表で一人1票ずつを投じます [2] 。小選挙区は全国300の区でそれぞれ1人を選び、有効投票の最多数を得た候補が当選します [2] 。比例代表は、得票に応じて各党の当選者の数を出し、届け出た名簿の順に当選者を決めます。このとき、小選挙区で当選した人は除かれます [2] 。 有権者は2票を投じる 候補者の名と政党の名を1票ずつ 書く 小選挙区(300区) 各区で有効投票の 最多数を得た1人が 当選 比例代表 (ブロック) 得票で各党の数を 出し名簿の順に 当選。小選挙区の 当選者は