ウィトゲンシュタイン――意味とは言葉の使用である(写像理論・言語ゲーム) — Epoché
現代 分析哲学と言語哲学 約 28 分 本文 約 11,700 字 図 7・表 2 原典 2 節 この課の要点 像・限界・使用の 3 つ 像 前期の『論考』では、文は現実の像である。文の要素(名)が対象の代わりをし、要素の組み合わせが対象の組み合わせを写すことで、文は事実について真か偽かを語る(2.12・4.01)。 限界 像として写せるのは事実だけなので、語りうるのは自然科学の命題だけになる。形而上学や倫理の文、そして『論考』自身の文もナンセンスとされ、語りえぬことには沈黙しなければならない(4.11・6.54・7)。 使用 後期の『哲学探究』は、語は物の名だという像を言語の一部にすぎないとし、多くの場合、語の意味とは言語の中でのその使用である、と言う(43 節)。語の働きは道具箱の道具のようにさまざまで、ゲームどうしは一つの本質でなく似方の網でつながる(11・23・66 節)。 はじめに ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889〜1951)は、ウィーンの裕福な実業家の家に生まれました。マンチェスター大学で航空工学を学ぶうちに数学の哲学に引かれてフレーゲにたどり着き、その勧めで 1911 年にケンブリッジのラッセルのもとで学びました [1] 。 第一次世界大戦の従軍中の草稿から『論理哲学論考』(以下『論考』)が生まれ、1921〜22 年に出版されました [1] 。哲学の問題を解いたと考えた彼は一度哲学を離れ、1929 年にケンブリッジへ戻ってから、もう一つの主著『哲学探究』(以下『探究』)の考えを育てます。『探究』は死後の 1953 年に出ました [1] 。 この課では二つの本を順に読みます。前期の『論考』は、文は事実を写す像だから世界について語れると答え、像で写せないものには沈黙するほかないと結びました。後期の『探究』はその答えを自ら疑い、語の意味を言語の中での使用に見ます。 二つの本は書き方も違います。『論考』は番号の付いた短い命題を柱から枝へ組み上げ、『探究』は、ある話題から別の話題へ急に飛ぶこともある節を並べます [1] 。 『論考』は、フレーゲとラッセルの論理と言語の考えを受け継ぎ、またそれに反発して書かれた本です [1] 。ウィトゲンシュタインは、文がそもそもどうして世界について何かを言えるのか、から始めます。 この課の問い 「本が机の上にある」という文は、インクのしみか空気の振動にすぎないのに、なぜ机の上の本のことを言えるのでしょうか。若いウィトゲンシュタインは「文は事実の像だから」と答え、後の彼はこの答えを自分で疑いました。言葉の意味は、言葉が指すものの中にあるのでしょうか、言葉を使う営みの中にあるのでしょうか。 この課のことば 事態 物(対象)どうしの、ありうる結びつきです。成り立っている事態が事実で、成り立っていない事態もありえます。『論考』は世界を、物の集まりでなく事実の集まりと見ます [1] 。 像(Bild) 現実を写す模型です。像の要素が一つずつ対象の代わりをし、要素の組み合わせが対象の組み合わせを表します。『論考』では、思考も文も像です [1] 。 無意義とナンセンス 『論考』の二つの「意義が無い」です。何も写さない論理の命題は無意義(sinnlos)、何も言えていない形而上学の文などはナンセンス(unsinnig)です [1] 。 言語ゲーム 言語を話すことが、活動や生活の形の一部であることを示すための言葉です(『探究』23 節)。ウィトゲンシュタインは、これをはっきりとは定義しません [1] 。 生活の形 言語ゲームを包む、より広い人々の営みです。『探究』では 5 回しか使われません [1] 。 家族的類似 家族の顔立ちのように、全部に共通する一つの特徴は無いのに、似た点が重なり合い交差してつながっている、という概念のつながり方です [1] 。 前期:写像理論――文はどうして世界について語れるのか 『論考』には、ラッセルが序文を寄せました。けれどもウィトゲンシュタイン自身は、その序文を誤解だらけだと見ていました [1] 。弟子は師の道具を使いながら、師とは違う所へ向かっていたのです。この章では、事実から成る世界、文は現実の像であること、語りうることの限界、を順に読みます。 世界は事実の総体――物の目録でなく、そうなっていることの集まり 『論考』は、1 から 7 までの七つの命題を柱にした本です。ほかの文には 1.1、1.22 のような小数の番号が付き、どの柱をくわしく言う文かを示します [1] 。番号そのものが、考えの筋道を表すように組まれています。 最初の柱は「世界は、そうなっていることの全てである」です(1) [1] [3] 。『論考』は世界を、物の集まりではなく、事実の集まりと見ます。伝統的には、世界は物でできていると考えるのが普通でした [1] 。それでも事実を先に立てるのはなぜでしょうか。 本教材の作例で考えます。机の上に本とコップと鍵があるとします。「本・コップ・鍵・机」と物の名を並べた目録を作っても、部屋の様子は分かりません。本が机の上にあるのか下にあるのか、鍵がコップの中にあるのか外にあるのかで、部屋は別の様子になります。部屋がどうなっているかを決めるのは、物の目録ではなく、「本が机の上にある」という事実の集まりです。 目録のほうは、部屋がどうなりうるかの材料を並べるだけです。同じ物の目録からは、本が上にある部屋も、下にある部屋も作れます。どちらの部屋なのかを言うには、物どうしの結びつきを言わなければなりません。『論考』が世界を事実の側から書き始めるのは、この違いに目を向けるためだ、と本教材は読みます。 二つ目の柱によれば、事実とは事態が成り立っていることです(2) [1] 。事態は対象の結びつきで、「対象は単純である」(2.02) [1] 。対象は、他の対象とどう結びつきうるかを前もって備えていて、この結びつきの可能性が対象の論理形式です [1] 。事態は成り立つことも、成り立たないこともありえます。成り立っている事態の全体が世界で、それがまた、成り立っていない事態も決めます [1] 。 世界の側 言語の側 世界:事実の総体 (1) 言語:命題の全体 事実:成り 立っている事態 (2) 命題:要素命題の 真理関数(5) 事態:対象の結び つき 要素命題:名の結び つき 対象:単純なもの (2.02) 名:単純な対象の 記号 同じ組み立てを持つから、文は世界を写せます。 図 1 『論考』の世界と言語の組み立てです。どちらの列も、上から下へ、複合したものから単純なものへ進みます。二つの列の段の対応は本教材の整理です [1] 。 SEP は、この書き出しを「見かけの形而上学」と呼びます。世界の話から始まるように見えて、本の狙いは思考と言語の側にあるからです [1] 。 この組み立ては、言葉の側にもそのまま対応します (図 1) 。命題は要素命題の真理関数で(5)、分析は最後に、単純な対象の記号である名に行き着きます [1] 。世界と言語が同じ組み立てを持つから、文は世界を写せるのです。次の節は、この「写す」を読みます。 ここで間違えやすい 『論考』の「対象」を、机や本のような身の回りの物と取らないようにしましょう。対象は「単純」なもので、複合したものについての文は、その部分についての文に分析できるとされます(2.0201) [1] 。また、この節を、言葉と無関係な世界の造りを述べた形而上学と読むか、命題の形が現実の形を決めると読むかで、解釈は分かれます [1] 。 文は現実の像――言葉の並び方が、物の並び方を写す 『論考』の最も名高い考えが、思考も文も像だ、というものです。「像は現実の模型である」(2.12) [1] 。像は要素からできています。要素の一つずつが対象の代わりをし、要素の組み合わせが、事態の中の対象の組み合わせを表します [1] 。 この考えのきっかけには、次の話があったと伝えられます。パリの裁判所で、自動車事故の様子が、おもちゃの車と人形を使って示された、という話です (図 2) 。机の上の小さな車は本物の車の代わりをし、模型どうしの置き方は、事故のときの車や人の位置を表します。模型は大きさも材料も本物と違いますが、置き方が対応していれば、事故がどうだったかを言えます。 一つ目:事故の現場 自動車 荷車 通行人 車・荷車・人がこう並んでいる 二つ目:机の上の模型 おもちゃの車と人形 裁判官 証人 図 2 パリの裁判所の模型の話(本人が書き留めたと伝えられる話で、場面の配置は本教材の描き方)。一つ目の絵は事故の現場、二つ目の絵は裁判所の机の上の模型です。おもちゃの車・荷車・人形が一つずつ本物の代わりをし、その置き方が本物の置き方に対応しています。 像と、像が写す事態とが共に持っているのは、見た目でなく論理の形です。像はこの形によって現実と結びつき、「現実にまで届く」とウィトゲンシュタインは言います(2.1511) [1] 。原典を読むで訳す箇所では、印刷された文は一見すると像に見えないが、楽譜が音楽の像であるように、文も像なのだ、と論じられます(4.011) [3] 。 楽譜の例は、似ていることと形が対応することの違いをよく示します。黒い玉と線は音に似ていません。それでも、玉の高さが音の高さに、玉の並びが音の順に、決まった仕方で対応しています。この対応があるから、演奏者は楽譜から曲を再現できるのです(この説明は本教材の補足)。 文が像であることから、二つのことが出てきます。一つは、文の意義が、現実と合うかどうかに先立って決まることです。文は真なら世界をそのとおりに写し、偽ならそうでないと分かる仕方で写します。SEP はこれを、文が真と偽の二つの極を持つ、と整理します [1] 。もう一つは、名が文の中でだけ働くことです。「命題だけが意義を持ち、名は命題の脈絡の中でだけ意味を持つ」(3.3) [1] 。 本教材の例で言えば、「本が机の上にある」という文を聞いた人は、机を見る前から、どうなっていれば文が真で、どうなっていれば偽かを分かっています。文の意義は、こうして事実を確かめる前に決まっています。 ただし、像は自分の論理の形そのものを写すことはできません。その形は、写すのではなく示されるだけです [1] 。この「語れないもの」の話が、次の節の限界につながります。 ここで間違えやすい 写像理論を、文が絵のように現実と見た目が似ている、という説だと取らないようにしましょう。楽譜が音に似ていないように、似ているのは並び方の形です。また、フレーゲの課で読んだ「意義(Sinn)」と「意味(Bedeutung)」と同じ語を使いますが、『論考』では名は意味だけを持ち、意義を持つのは文だけです(3.3) [1] 。 語りうることの限界――語りえぬことには沈黙しなければならない 序文によれば、この本は思考に、というより思考の表現に、限界を引こうとします。限界は言語の中でだけ引け、その向こうにあるのはただのナンセンスだ、というのです [1] 。 では、何が語れるのでしょうか。文が像なら、意義を持つ文は、成り立ちうる事態を写す文だけです。「真な命題の総体は、自然科学の全体である」(4.11) [1] 。すると、ふだん使われる多くの文が、語りうるものの外に出てしまいます (表 1) 。 この表で分かること: 『論考』では、意義を持つのは事態を写す命題だけで、論理の命題は「無意義」、哲学の文は「ナンセンス」に分かれます。『論考』自身の文はナンセンスの側に入ります。 語のつながり 例 何を写すか 扱い 意義を持つ命題 「本が机の上にある」 成り立ちうる事態 真か偽か(4.11) 論理の命題 「雨が降るか降らないか」 何も写さない 無意義・枠組みを示す(4.462) 哲学の文 「ソクラテスは同一である」 何も言えていない ナンセンス(4.003) 『論考』自身の文 「世界は、そうなっていることの全てである」 世界の全体を語ろうとする 上ったら捨てる梯子(6.54) 表 1 『論考』での語のつながりの区分(本教材の整理)。二つ目と三つ目の例は SEP が挙げる例です [1] 。 外に出る文には二つの種類があります (図 3) 。一つは論理の命題です。「雨が降るか降らないか」のようなトートロジーは、どんな事態も許すので何も写さず、無意義( sinnlos )です(4.462) [1] 。ただし言語と論理の枠組みを示します。もう一つはナンセンス( unsinnig )で、「ソクラテスは同一である」のように、語として何も言えていない文です。形而上学や倫理の文もここに入ります [1] 。「哲学の書物に見られる命題と問いのほとんどは、偽なのではなくナンセンスである」(4.003) [1] 。 ここで分かれるのは、偽とナンセンスの違いです。「本が机の下にある」は、本が上にあれば偽ですが、どうなれば真かは分かります。ナンセンスの文は、偽であることさえできません(例は本教材)。 語のつながり 成り立ちうる事態を写すか 意義を持つ命題 写す。真か偽かが決まる(自然 科学・4.11) 無意義(sinnlos) 何も写さない論理の命題。論理の 枠組みを示す(4.462) ナンセンス(unsinnig) 何も言えていない。形而上学・倫理・ 『論考』自身の文 図 3 『論考』での語のつながりの分かれ道(本教材の整理)。上から順に、意義を持つ命題、無意義な論理の命題、ナンセンスの三つに分かれ、一番下の枝に『論考』自身の文が入ります [1] 。 では、哲学者には何が残るのでしょうか。『論考』は哲学を、学説でなく、思考を明らかにする活動と見ます [1] 。 困るのは、『論考』自身の文も、世界の中の事実を写さないことです。結びで著者は、この本の文は梯子のようなものだと言います。読者はそれを上りきって世界を正しく見たら、梯子を投げ捨てなければならない、というのです(6.54) [1] 。そして最後の柱が来ます。「語りえぬことについては、沈黙しなければならない」(7) [1] 。 ここで間違えやすい 沈黙の命令を、倫理はどうでもよい、という意味に取らないようにしましょう。ウィトゲンシュタインは出版の前に版元のフィッカーへ、自分の仕事は書いた部分と書かなかった部分から成り、大事な