コンストラクティヴィズム――規範とアイデンティティ — Epoché
国際と日本 国際政治 約 25 分 本文 約 11,000 字 図 4・表 2 資料 1 節 この課の要点 意味・自助・規範の 3 つ 意味 ウェントは、国家は相手のもつ意味に基づいて行動し、力の分布だけでは敵か友かは決まらないと論じます。 自助 ウェントにとって自助はアナーキーから必ず出てくるものではなく、相互作用の中でつくられる制度です。 規範 フィネモアとシキンクは、規範が出現・連鎖・内面化の段を経て広がると見ますが、その完了は必然ではないとします。 はじめに この課程の『リアリズム』の課では、中央の政府がない国際社会で、国家が力の配置に応じて身を守ろうとする姿を見ました。『リベラリズム』の課では、経済の結びつきや国際制度が協力を支えうることを見ました。どちらの課でも、国家が何を恐れ、何を求めるかは、主に力の配置や国内外の利害から説明されました。 では、同じ大きさの軍事力が、ある国には脅威に見え、別の国にはそう見えないのはなぜでしょうか。米国の政治学者アレクサンダー・ウェントは 1992 年の論文で、米国の軍事力はカナダとキューバとで意味が違うと指摘しました [1] 。英国のミサイルとソ連のミサイルも、米国にとって意味が違うというのです [1] 。力の量は同じでも、相手をどう見るかで受け止め方が変わるのです。 こうした違いに目を向けるのが、コンストラクティヴィズム(構成主義)です。本教材の整理では、国際政治の大事な部分は、国家どうしが共有する理解・規範・アイデンティティによって形づくられ、それが変われば国家の利益や脅威の感じ方も変わりうる、と見る立場です。「構成する」とは、ある理解がものごとの中身そのものをつくる、という意味です。 この課では、まずウェントの論文で「意味に基づく行動」と「自助は制度である」という考えを確かめます。次に、マーサ・フィネモアとキャスリン・シキンクの 1998 年の論文で、規範がどう生まれ、広がり、当たり前になるかを見ます。最後に、規範の力の限界を、対人地雷禁止条約と日本の非核三原則の事例で考えます。 この課の問い 国家の利益や脅威の感じ方は、力の分布から自動的に決まるのでしょうか。それとも、国家どうしが共有する意味や規範によってつくられ、変わりうるのでしょうか。 この課のことば 規範 ある立場の者にとって「適切」とされる振る舞いの基準です。例:会議で発言の順番を守る、戦争で病院を攻撃しない。 アイデンティティ 自分が何者で、どんな役割を担うかについての比較的安定した理解です。例:「この部の部長」「中立国」という自己理解。 間主観的 一人の思い込みではなく、複数の人に共有された理解であることです。例:紙幣が価値をもつのは、皆がそう了解しているからです。 自助 自分の安全は自分で守るほかない、という国家どうしの仕組みです。日常語の「自己啓発」とは意味が違います。 規範起業家 新しい規範を広めようと積極的に働きかける人や団体です。例:女性の参政権を求めた運動家。 内面化 規範が当たり前になり、守るかどうかを考えもしなくなることです。例:女性が投票してよいかを今では論じないこと。 意味と規範――国家は何に従って動くのか リアリズムのうち、ここで比べるネオリアリズムのうち、とくにネオリアリズムは、アナーキー(国家の上に立つ権威がない状態)と力の配置から国家の行動を説明しました。コンストラクティヴィズムは、その説明に一つの問いを差し込みます。国家が相手を敵と見るか友と見るかは、どこから来るのか、という問いです。 この章では、第 1 節で意味に基づく行動という出発点を、第 2 節でウェントの「アナーキーは国家がつくるもの」という主張を見ます。第 3 節では規範が広がる道筋を、第 4 節では規範の力の限界と日本の事例を扱います。 同じ力が違って見える――意味に基づく行動 ウェントは、構成主義の社会理論の基本原理として、人は対象がもつ意味に基づいて、その対象に向けて行動すると述べます [1] 。ここでいう対象には、物だけでなく、ほかの行為者も含まれます [1] 。国家にとっての「ほかの行為者」は、何よりもほかの国家です。 なぜこの原理が国際政治で大事なのでしょうか。理由の第一は、敵と友の区別です。国家は敵と友に対して違う振る舞いをします。敵は自分を脅かし、友は脅かさないからです。ところがウェントによれば、アナーキーと力の分布だけでは、どちらが敵でどちらが友かは分かりません [1] 。 第二に、力が意味をもつのは、それがどう受け止められるかを通してです。はじめにで見たとおり、米国の軍事力は、「構造上」の位置が似ていても、カナダとキューバとでは違う意味をもちます [1] 。英国のミサイルとソ連のミサイルも、米国にとって同じではありませんでした [1] 。 第三に、ウェントは力を無視せよと言っているのではありません。力の分布はいつも国家の計算に影響しうるとしたうえで、どう影響するかは、自分と相手についての共有された理解と期待、彼の言う「知識の分布」によって決まると述べます [1] 。力はなくならず、その効き方が意味に左右される、という主張です。 この共有された理解の中で、国家はアイデンティティを得ます。ウェントは、アイデンティティを、比較的安定した、役割に即した自己についての理解と期待と定義し、行為者は集合的な意味に参加することでそれを得るとします [1] 。そして、私たちの行動を組織する構造をつくるのは集合的な意味だと言います [1] 。 ここから、ウェントは「アイデンティティが利益の基礎になる」と論じます [1] 。行為者は、社会の文脈から切り離した利益の「持ち札」を持ち歩くのではなく、状況を定義する中で利益を定める、というのです [1] 。自分を「同盟国の一員」と見る国と、「孤立した大国」と見る国とでは、同じ出来事から引き出す利益が違ってくる、と考えればよいでしょう(本教材の作例)。 ウェント自身のたとえも分かりやすいものです。社会が大学とは何かを「忘れて」しまえば、教授と学生の権限や営みは消えてしまいます。米国とソ連がもはや敵ではないと決めれば、「冷戦は終わった」のです [1] 。校舎は残っていても、大学という仕組みは人々の共有された理解がなければ成り立たない、ということです。 この見方を前の課と並べると、違いがはっきりします。本教材の整理では、リアリズムは主に力の分布から国家の行動を説明し、コンストラクティヴィズムは力が受け止められる意味や規範から説明します (図 1) 。ただし、次の節で見るとおり、ウェントは今の世界の姿についてはリアリズムと多くを共有しています。 ネオリアリズム ウェントの見方 自助は アナーキーから 導かれる 自助は相互作用が つくる制度 主に力の分布から 行動を説明する 力の効き方は 共有された 理解しだい 今の世界は競争的な 自助の世界 その記述は争わず、 説明を争う 図 1 ネオリアリズムとウェントの見方の比べ方。左はウェントが描くネオリアリズムの像とこの課程の『リアリズム』の課の要約、右はウェントの主張(本教材の整理) [1] 。 ここで間違えやすい 「意味が大事だ」と聞くと、力や物はどうでもよいという主張に聞こえます。ウェントは、力の分布が国家の計算に影響しうることを認めたうえで、その影響の仕方が共有された理解によると言っています [1] 。また「間主観的」は「主観的」と違い、一人の思い込みではなく、多くの行為者に共有された理解を指します。 アナーキーは国家がつくるもの――自助は制度である ウェントの論文の要は、「アナーキーは、国家がそれをどうするかで決まる」という一文です [1] 。彼は、自助と権力政治は、アナーキーから論理的にも因果的にも出てこないと主張します [1] 。そして、もし今日の世界が自助の世界だとすれば、それは構造のせいではなく、過程のせいだと言います [1] 。 この主張がどこに向けられているかを確かめましょう。ウェントの描くネオリアリズムでは、アナーキーの帰結としての自助が大きな働きをし、安全保障のジレンマや集合行為の問題という、本来的に競争的な力学を生み出します [1] 。安全保障のジレンマとは、ある国が自分の安全のために軍備を増やすと、相手には脅威に見え、相手も軍備を増やして、結局どちらも安全にならない状態のことです。 ウェントが争うのは、この世界の姿そのものではありません。彼は、現代の国家体系を競争的な自助の世界とするネオリアリズムの記述は争わず、その説明だけを争うと明言しています [1] 。争点は「なぜそうなっているのか」であり、「そうなっているかどうか」ではないのです。 ウェントの答えは、自助は制度であって、アナーキーを成り立たせる特徴ではない、というものです [1] 。自助は、アナーキーの下にありうる、アイデンティティと利益のさまざまな構造の一つにすぎません [1] 。制度は人々の世界についての考えから離れては存在しない、認識のうえの存在ですが、だからといって実在しない「ただの信念」だというわけではない、とも付け加えています [1] 。 では、アナーキーの下にはどんな構造がありうるのでしょうか。ウェントは安全保障の体制を一本の連続体として描きます。一方の端は「競争的」な体制で、国家は互いの安全を負に結びつけ、相手の得を自分の損と見ます [1] 。中ほどの「個人主義的」な体制では、国家は自国の安全と他国の安全の関係に無関心です [1] 。これと対照的なのが「協調的」な体制で、国家は互いを正に結びつけ、各国の安全は全員の責任と受け止められます [1] (表 1) 。 この表で分かること: 競争的と個人主義的はどちらも自助の型で、協調的な体制だけが安全を全員の責任とします。 体制 他国の安全との結びつき 安全は誰の責任か 競争的 負に結びつける(相手の得は損) 各国それぞれ(自助) 個人主義的 無関心 各国それぞれ(自助) 協調的 正に結びつける 全員の責任 表 1 ウェントの示す安全保障の体制の連続体 [1] 。 競争的な体制と個人主義的な体制は、どちらも自助の型のアナーキーです [1] 。自国の安全を他国の安全と正に結びつけず、安全を各国それぞれの責任として扱うからです [1] 。では、自助の体制はどこから来るのでしょうか。ウェントは、各国が相手に脅威と感じられる行動をとり、相手は信用できないという期待が生まれる、その相互作用の繰り返しから育つと説明します [1] 。 ウェントはこれを思考実験で示します。もし私たちが異星の文明に接触されたら、最初から攻撃されると決めてかかるでしょうか。彼の答えは「そうは思わない」です [1] 。私たちは強く警戒はするでしょうが、軍を警戒態勢に置くか、攻撃に出るかは、相手の最初の身ぶりが私たちの安全にとって何を意味すると解釈するかによる、というのです [1] 。反対に、相手が千隻の宇宙船で現れてニューヨークを破壊したなら、私たちは状況を脅威と定義し、それに応じて対応します [1] (図 2) 。 最初の身ぶり:一隻が静かに着陸 ? 警戒しつつ、相手の意図を読む 最初の身ぶり:多数の船が都市を破壊 ! 脅威と定義して応じる 図 2 ウェントの思考実験。異星の文明との最初の接触で、最初の身ぶりをどう解釈するかによって、警戒にとどまるか、脅威と定義して応じるかが分かれる(絵は本教材) [1] 。 ここからウェントは、社会的な脅威はつくられたものであって自然のものではないと結論します [1] 。異星人との関係は、安全保障のジレンマから始まるわけではなく、ジレンマはアナーキーや自然が与えるものではない、というのです [1] 。身近に置き換えれば、新しい隣人と最初に交わす挨拶が、その後の付き合い方を方向づけることに似ています(本教材のたとえ)。 ここで間違えやすい 「アナーキーは国家がつくるもの」を、国家が望めばすぐに協調の世界に変えられる、という意味に読むのは誤りです。ウェントは、一度制度化したジレンマは変えにくいことがあると認めています [1] 。また、アナーキーは「混乱」ではなく、国家の上に立つ権威がないという配置の条件です。協調的な体制も、アナーキーの下にある体制の一つです。 規範の一生――提唱から当たり前へ 共有された理解のうち、「何が適切か」にかかわるものが規範です。フィネモアとシキンクは、規範を、ある同一性をもつ行為者にとって適切な行動の基準とする定義に、研究者の間で一般的な合意があると述べます [2] 。最もよく使われる区別は、行動を秩序づけ縛る規制的規範と、新しい行為者や利益、行動の種類を生み出す構成的規範の区別です [2] 。 規範はどうやって見分けられるのでしょうか。二人は、規範を破る行動は非難や汚名を招き、規範に従う行動は賞賛を受けるので見分けられると言います [2] 。ただし、強く内面化した規範は当たり前すぎて、何の反応も呼ばないことがあります [2] 。目立たないことが、かえって規範の強さを示すこともあるのです。 二人の論文の中心は、規範の「一生」という型です。第一の段は「規範の出現」、第二の段は広く受け入れられる「規範の連鎖的な広がり」、第三の段は内面化です [2] 。第一と第二の段は、関係する国家の臨界数が規範を受け入れる「転換点」で分かれます [2] (図 3) 。 出現 規範起業家が説得し、先導国を 増やそうとする 臨界数 転換点 臨界数の国が受け入れる。体系の国の 3 分の 1 より前には起きにくい 模倣 連鎖的な広がり 先導国がほかの国を社会化し、追随国が 増える 定着 内面化 当たり前になり、広い論争の 的でなくなる 図 3 フィネモアとシキンクの「規範の一生」。最後まで進むのは必然ではなく、多くの規範は転換点に届かない [2] 。 第一の段から見ましょう。規範は無から現れるのではなく、共同体で何が適切か望ましいかについて強い考えをもつ者が、積極的につくり上げるものです [2] 。成功した新しい規範の多くには、規範起業家と、その起業家が活動する組織の足場という二つの要素が共通しているように見える、と二人は言います [2] 。この段の特徴的な仕組みは、規範起業家による説得です [2] 。起業家は、臨界数の国家(規範の先導国)に新し