モンテーニュ――私は何を知っているか(エセー・懐疑) — Epoché
近代 ルネサンスと科学革命 約 18 分 本文 約 7,800 字 図 4・表 2 原典 1 節 この課の要点 生涯・試み・寛容の 3 つ 生涯 ボルドーで法官を務めたのち職を退き、1571 年、38 歳の誕生日に塔の書斎へ退く決意を銘文に記して書き始めた。のちにボルドー市長となり、宗教戦争のさなかの町を治めた(SEP 1)。 試み 『エセー』は、自分を描きながら自分の判断を試す本である。II.12 では、ピュロン派の懐疑を問いの形にした「私は何を知っているか」を、天秤の図柄の銘として掲げると書く。言い切らずに意見を量り続けることが、ものを考える日々の作法になった(SEP 4)。 寛容 人は理性を理由に、動物や異国の人々より上に立つと思い上がる。モンテーニュは、猫と遊ぶとき猫の方が私を相手にしているのではないかと問い(II.12)、新大陸の人々を野蛮と呼ぶ自分たちの残酷さを測り直した(「人食い人種について」)。SEP の著者は、ここに寛容と多様さを認める考えの芽を見る(SEP 5・6)。 はじめに この課の手引きは、16 世紀フランスの貴族ミシェル・ド・モンテーニュ(1533〜1592)です [1] 。哲学の体系を建てた人ではありません。自分自身を題にした一冊の本を、生涯をかけて書き足し続けた人です。 モンテーニュは法官を務めたのち、活動の生活に疲れて職を退き、父の館に戻ります [1] 。1571 年 2 月 28 日、38 歳の誕生日には、塔の書斎へ退いて暮らす決意を銘文に刻ませました [3] 。 そこで書き始めたのが『エセー』です。題の「エセー」は「試み」という意味で、決まった結論を述べるのでなく、さまざまな題で自分の判断を試してみる書き方を指します [1] 。1580 年に第 1・2 巻が出たあとも、ボルドー市長を務めながら書き足し続け、1588 年には第 3 巻を加えた版を出しました [1] 。 時代は、カトリックとプロテスタントが争う宗教戦争のさなかでした [1] 。人々が互いに「自分こそ正しい」と信じて戦っていたとき、モンテーニュは「私は何を知っているか」と問い続けます。この課では、その問いが人を迷わせるための疑いではなく、判断を慎重にし、他人の見方を受けいれるための疑いであったことを読みます。 この課の問い この編のマキァヴェッリの課では、政治の世界で人が何をなしうるかが問われました。では、人はそもそも何をどこまで知っているのでしょうか。宗教の争いで人々が互いに「自分こそ正しい」と信じて戦っていた時代に、疑うことは人を迷わせるだけなのでしょうか。それとも、思い上がりを解き、他人を受けいれる道になるのでしょうか。 この課のことば エセー(試み) フランス語で「試すこと・試し」。決まった結論を述べるのでなく、一つひとつの題で自分の判断を試してみる書き方です。モンテーニュの本の題として新しく、まもなく文学の一つの型になりました。 ピュロン主義 古代ギリシアのピュロンにさかのぼるとされる懐疑の立場です。セクストス・エンペイリコスの書物で伝わり、16 世紀に再び読まれるようになりました。 判断保留(エポケー) どちらの言い分にも賛成しないで、判断を控えることです。ギリシア語の「エペコー」は「私は控える」という意味です。 等しい力(イソステネイア) 反対の二つの議論が同じ強さで、天秤が釣り合うことです。ピュロン主義では、これが判断保留をひとりでに生む仕組みとされます。 習わし(慣習) その土地で代々受けつがれ、当たり前と思われているやり方や考え方です。モンテーニュは、自然から生まれると言われる良心の掟も、習わしから生まれると書きました。 エセーと懐疑――私は何を知っているか 16 世紀のフランスは、カトリックとプロテスタントの戦いに引き裂かれていました。その中で一人の法官が職を退き、塔の書斎で自分自身を題にした本を書き始めます。この章では、一つ目の節で生涯と『エセー』の成り立ちを、二つ目の節で「私は何を知っているか」と判断保留を、三つ目の節で理性の思い上がりへの批判と寛容を読みます。 生涯と『エセー』――塔の書斎で自分を描く モンテーニュは、裕福な商人の家に生まれました。父はフランソワ 1 世の軍でイタリアに従軍したのち、貴族の身分を得た人でした [1] 。息子の育て方も変わっていました。学校でラテン語を習わせるのでなく、ドイツ人の家庭教師と家の者すべてに、家ではラテン語だけで話しかけさせたのです。少年はラテン語を話して育ち、ウェルギリウスやオウィディウスを自分で読みました。6 歳でボルドーのギュイエンヌ学院に入ります [1] 。 その後、父が買い与えたペリグーの法廷の官職から、法官の道に入ります [1] 。そこでラ・ボエシと出会って深い友情を結びますが、1563 年に友を失い、ひどく打ちのめされました。やがて活動の生活に疲れて職を退き、父の館に戻ります。SEP はこれを 37 歳のときとします [1] 。 1533 年 裕福な商人の家に生まれる 1563 年 友ラ・ボエシが亡くなる 37 歳のころ 法官の職を退き、父の館に戻る (SEP) 1571 年 38 歳の誕生日、書斎へ退く 決意を銘文に記す 1576 年ごろ 自分のメダルを作らせる(SEP) 1580 年 『エセー』初版(第 1・2 巻)、 イタリアへ 旅の途中 ボルドー市長に選ばれたと知る (のち再選) 1588 年 第 3 巻を加えた版 1592 年 没する 1595 年 グルネーが手稿から編んだ没後の 版 図 1 モンテーニュの生涯と『エセー』の版(SEP と塔の銘文による)。職を退いた時期(SEP は 37 歳とする)と、1571 年 2 月 28 日、38 歳の誕生日に書斎へ退く決意を記した銘文とを分けて示しています。 ここで、職を退いたことと、塔の書斎へ移ったことを分けておきましょう (図 1) 。塔に残る銘文は、1571 年 2 月 28 日、38 歳の誕生日に、書斎へ退いて暮らす決意を記しています [3] 。ペトラルカにならい、学芸の女神(ムーサ)に身をささげることを選んだ、と SEP は書きます。この書斎の梁には、『伝道の書』やセクストス・エンペイリコス、ルクレティウスなどから採った知恵の言葉が刻まれました。憂鬱の発作から逃れるために、モンテーニュは考えを紙に書きとめ始めます [1] 。 1580 年に第 1・2 巻が出ると、腎臓の結石を湯治で癒やすためにイタリアへ旅立ちます。その旅先で、ボルドー市長に選ばれたと知りました。国王の手紙にも促されて引き受け、のちに再選されます [1] 。 『エセー』の大きな版は、1580 年、1588 年(第 3 巻を加えた版)、1595 年の三つです。1595 年版は本人の死後に、養女マリー・ド・グルネーが手稿から編みました [1] 。モンテーニュは直すよりも足すことを好んだので、いまの版の多くは書き足しの層を A・B・C の印で示します。おおよそ A が 1580 年の本文、B が 1588 年版での加筆、C がそれより後の書き込みです。ただし、1588 年版に本人が書き込んだ「ボルドー本」と 1595 年の刊本は同じではなく、印の付け方も版によって違います(本教材の整理)。冒頭の「読者に」で、モンテーニュは、私自身がこの本の題材だと断ります。「他人は人を形づくる。私は人を語る」とも書きました [1] 。 ここで間違えやすい 『エセー』を、身の回りの出来事を気ままに書きつけた随筆にすぎず、哲学ではない、と取るのは誤りです。SEP の著者は、モンテーニュを作家としてだけ見ると、人を動物の上に、ヨーロッパを「野蛮人」の上に、理性を普遍の物差しに置く考えを揺さぶった思想家を見落とす、と注意します [1] 。この本では、考えることと書き方が切り離せません。何度も書き足された層そのものが、判断が動いていった跡なのです。 「私は何を知っているか」――天秤の銘と判断保留 16 世紀には、古代の懐疑派セクストス・エンペイリコスの書物が再び読まれ、懐疑の考えが甦りました。モンテーニュも、この甦りに大きく与った一人です [1] 。SEP によれば、セクストスとの出会いは決定的な衝撃でした。1576 年ごろには自分のメダルを作らせ、年齢と、ギリシア語の「エペコー(私は控える)」と、フランス語の「私は何を知っているか」を刻ませたといいます [1] 。ただし、二つの言葉が同じ一枚のメダルにあったかは確かではありません。 確かに読めるのは、『エセー』第 2 巻 12 章「レーモン・スボンの弁護」の一節です [2] 。言葉は「〜である」と言い切る文でできているので、ピュロン派は「私は疑う」とさえ言い切れません。そこでモンテーニュは、言い切りでなく問いの形にすればよい、と言います。「私は何を知っているか」。そしてこれを、天秤の図柄に添える銘として掲げる、と書きます [2] 。 釣り合ったまま傾かない天秤 ΕΠΕΧΩ 〜である 〜でない QUE SÇAY-JE ? 私は控える(ギリシア語) 私は何を知っているか(フランス語) 目の前のものへ 傾く判断 重さを足して 釣り合わせる 本教材の絵(実物のメダルの写しではない) 図 2 「私は何を知っているか」を天秤の銘とする II.12 の言葉に、SEP がメダルの銘として伝えるギリシア語「エペコー」を添えて、メダルの形にまとめた本教材の絵です。実物の写しではなく、二つの言葉が同じ一枚にあったかどうかも確かではありません。右の小さな点線の天秤は、判断がほうっておくと目の前のものへ傾くので、もう一方に重さを足して釣り合わせる、という SEP の読みを示します。 問いの形は答えを主張せず、釣り合ったまま傾かない天秤の姿と重なります (図 2) 。古代のピュロン主義では、二つの議論の釣り合い(等しい力)が、判断保留をひとりでに生みました。しかし SEP の著者によれば、モンテーニュはこの懐疑を大きく作り変えています。天秤の皿は、いつも目の前にあるものの方へ少し傾くからです。判断保留がひとりでには起こらない以上、判断は自分から賛成を控えなければなりません。目的は、議論を互いに打ち消すことではなく、一つの意見に別の意見を載せて重さを比べることにあります。書斎の梁に残る「判断を交互に( iudicio alternante )」という句が、この作法を示す、と SEP は書きます [1] 。 この表で分かること: モンテーニュの懐疑は一つの読み方に収まらず、何のための疑いかで三つの読みが分かれます。 読み方 主な読み手 疑いの役目 拠り所 懐疑の危機 パスカル・ヴィレー 一時の絶望の発作 セクストスとの出会い 信仰を守る懐疑 ポプキン 理性を退け信仰に委ねる 理性は教えを示せない 判断の作法 SEP の著者 意見を量り判断を鍛える キケロのもっともらしさ 表 1 モンテーニュの懐疑の三つの読み。整理は SEP 4 節によります [1] 。 とはいえ、この懐疑の読み方は一つに定まっていません (表 1) 。一時の「懐疑の危機」と見る読み(パスカル・ヴィレー)と、理性に代えて信仰に委ねる戦略(信仰主義)と見る読み(ポプキン)があります。三つ目は、キケロの「もっともらしさ」に従って意見を量る作法と見る読みです [1] 。 ここで間違えやすい 「私は何を知っているか」を、何も知ることはできないという絶望や、何でも疑うだけの態度だと取るのは誤りです。SEP の著者は、モンテーニュの懐疑は絶望ではなく、知識を脇へ置いて自分の生まれつきの判断を使う喜びだ、と読みます [1] 。問いの形は、考えを止めるためでなく、考え続けるための形です。 思い上がりと寛容――猫と「人食い人種」 「レーモン・スボンの弁護」は『エセー』でいちばん長い章です。スボンの『自然神学』を弁護するという形をとりながら、その大半は、人間の理性が神や自然の本当の姿をつかめるという思い上がりを崩すことに向けられます [1] 。そこで持ち出されるのが、飼い猫の例です。私が猫と遊ぶとき、猫が私を相手に暇をつぶしているのか、私が猫を相手にそうしているのか、誰に分かるだろう、とモンテーニュは問います(II.12) [2] 。 私が猫と遊んでいる 遊ばせているのは私 人の側から見た場面 猫が私と遊んでいる 遊んでやっているのは猫 猫の側から見た場面 図 3 II.12 の猫と遊ぶ場面を、二つの側から描いた本教材の絵です。一つ目は人の側から見た場面で、男が毛糸玉を揺らして猫を遊ばせています。二つ目は猫の側から見た場面で、寝そべった猫が、夢中で紐を振る男を眺めています。部屋や毛糸玉は本教材の描き方です。 同じ一つの場面でも、人の側から見るか猫の側から見るかで、誰が主で誰が従かが入れ替わります (図 3) 。人が自分を上に置くのは、自分の側からしか見ていないからかもしれません。モンテーニュは、なぜ動物が話せないと責めるのか、とも問います。意思が通じないという欠けは、彼らの側だけでなく、私たちの側の欠けでもありうるからです(II.12) [1] 。SEP の著者は、ここに生き物のあいだの決まった上下を退ける見方を読みます [1] 。 同じ目は、異国の人々にも向けられます。「人食い人種について」の章(ボルドー本の数え方で第 1 巻 31 章、1595 年版の数え方で 30 章)で、モンテーニュは新大陸の人々の話をもとに、自分たちの習わしを問い直します。SEP が引くとおり、彼は、生きた人を食べること、つまりまだ感覚の残る体を拷問で引き裂くことの方が、死んだ人を食べるより野蛮だと書きました。宗教戦争でキリスト教徒どうしが互いに加えた残酷さを、人食いと比べて告発したのです [1] 。 では、どんな習わしも同じように良い、ということでしょうか。SEP の著者は、モンテーニュが相対の論にすっかり身をゆだねたわけではない、と言います。あの人々を理性の規則に照らして野蛮と呼ぶことはできても、あらゆる野蛮で彼らを上回る私たちに照らしてそう呼ぶことはできない、とモンテーニュは書きます。野蛮には程度があり、習わしどうしを比べることで、判断は自分の習わしから一歩離れられるのです [1] 。 この見方は、寛容の考えにつながります。魔女とされた人々を牢