ヴォルテール――寛容は理性の帰結である(宗教批判・寛容論) — Epoché
近代 啓蒙思想 約 17 分 本文 約 7,000 字 図 4・表 2 原典 1 節 この課の要点 事件・根拠・闘いの 3 つ 事件 1762 年、トゥールーズのプロテスタントの商人ジャン・カラスが、カトリックに改宗しようとした息子を殺したとされ、車裂きの刑で処刑された。ヴォルテールは、偏見と残酷な裁判の犠牲だと訴えて名誉回復の運動を起こし、その中で『寛容論』(1763 年)を書いた。1765 年、カラスの無罪が宣された。 根拠 トルコ人も中国人もユダヤ人も、みな同じ父の子で、同じ神の被造物である。宇宙の一点に生きる「一瞬の原子」にすぎない人間が、他人の永遠の運命を神より先に決め、意見の違いで迫害するのは、残酷であるうえに思い上がりである(『寛容論』第 22 章)。 闘い ヴォルテールは、神を退けず宗教の社会の役目も認めつつ、教会と結びついた狂信と迷信を「破廉恥」と呼び、「破廉恥を粉砕せよ」を合言葉に、書簡・物語・小冊子で公に闘った。「あなたの意見には反対だが、それを言う権利は命をかけて守る」は本人の言葉ではない。 はじめに ヴォルテールは、本名をフランソワ=マリ・アルエといい、1694 年にパリの裕福な役人の家に生まれました [1] 。 転機は 1726 年です。有力な貴族ロアン公との名誉の争いから国を出て、1729 年までイギリスで暮らしました [1] 。そこでスウィフトやポープらと交わり、宗派が並び立つ社会や、ロックとニュートンの学問を知ります [1] 。その見聞をまとめた『哲学書簡』は、フランスで当局と衝突する本になりました [1] 。 1759 年の初めからは、フランスとスイスの境にあるフェルネーの館に住みます。ここでヴォルテールは「人類の党」を名のり、狂信と迷信という二つの怪物との戦いに身を捧げました [1] 。 この課では、その戦いの代表であるカラス事件と、そこから生まれた『寛容論』(1763 年)を読みます。前の課のモンテスキューは、権力が権力によって抑えられるしくみに自由の守りを見ました。ヴォルテールが向き合ったのは、国家と教会が手を組んで、ある信仰の人を罪人として裁く場面です。 この課の問い 国家と教会が手を組んで、ある信仰を持つ人を罪人として裁くとき、何がそれを止めるのでしょうか。考えや祈り方が違うというだけで、人を罰してよいのでしょうか。 この課のことば 寛容 自分と違う考えや信仰を持つ人を、それを理由に罰したり追い出したりしないこと。相手に賛成することではなく、違いを認めたうえで共に暮らすことです。 狂信 自分の信仰だけが正しいと思いこみ、他人に力ずくで押しつけたり、違う人を憎んで害したりする心のありよう。ヴォルテールは迷信と並べて、闘う相手に据えました。 異端審問 教会の正しい教えから外れた(異端の)疑いのある人を調べて裁く、教会の裁きのしくみです。 理神論 神を世界の理性的な作り手として認めながら、奇跡や啓示や教会の権威に頼らず、理性で知られる限りの神を信じる立場です。 破廉恥(アンファーム) 「破廉恥を粉砕せよ( Écrasez l’infâme )」の「破廉恥」。恥ずべきもの、の意で、ヴォルテールが狂信と迷信、それを支える教会の側の力をまとめて呼んだ語です。 フィロゾフ 18 世紀フランスで、迷信や不正を批判して世の中を変える公の言論として哲学を行った文筆家たち。共通の学説より、哲学を守るという目的で結ばれていました。 寛容――考えが違うというだけで、人を罰してよいのか ヴォルテールは体系をつくる哲学者ではなく、不正な出来事に理性で立ち向かう文筆家でした [1] 。この章では、カラス事件から『寛容論』が生まれた筋道、「みな同じ父の子」という寛容の根拠、理性の神と「破廉恥を粉砕せよ」の闘いを、順に読みます。 カラス事件――一つの裁判から『寛容論』へ 1761 年 10 月、南フランスの町トゥールーズで、プロテスタントの商人ジャン・カラスの長男マルク=アントワーヌが、家の中で死んでいるのが見つかりました [5] 。町にはすぐ噂が広がります。カトリックに改宗しようとした息子を、プロテスタントの家族が殺したのだ、というのです (図 1) 。 1761 年 10 月 トゥールーズで、カラス家の長男が家で 死んで見つかる 噂 改宗しようとした息子を、 プロテスタントの家族が殺した 1762 年 3 月 父ジャン・カラス、車裂きの刑で処刑 ヴォルテール 家族を支え、書簡と小冊子で世論に 訴える 1763 年 『寛容論』を著す 1765 年 パリで審理し直され、カラスの無罪が 宣される 1766 年 『犯罪と刑罰の書についての注解』 図 1 カラス事件から名誉回復までの流れ(本教材の整理)。年月はフランス司法省の解説によります [5] 。点線の段は、事件の後に続いた刑罰と寛容をめぐる仕事です。 トゥールーズの高等法院はジャンを有罪とし、1762 年 3 月に車裂きの刑で処刑しました [5] 。車輪を使う重い刑で、ジャンはそのあと絞め殺され、遺体は焼かれました [5] 。ジャンは最後まで無実を言い続けたと伝えられます。当時のフランスはカトリックの王国で、カラスはその中で迫害されたプロテスタントでした [1] 。一つの家族の悲劇というより、宗派の憎しみが裁きをゆがめた事件だったのです。 フェルネーにいたヴォルテールは、残された家族を支え、書簡と小冊子で世論に訴えて、裁判のやり直しを求めました。カラスは専制の国家と、非合理で残酷な裁判の犠牲者だ、と彼は論じます [1] 。1765 年、パリで国王の顧問会議の審理部が事件を調べ直し、カラスの無罪を宣しました [5] 。 本教材の整理として、この事件の特徴を三つに分けておきます。一つ目に、噂が証拠の代わりになりました。二つ目に、プロテスタントであること自体が、罪を犯しそうな者の印として扱われました。三つ目に、刑はすでに執行され、取り返しがつきませんでした。ヴォルテールが判決のやり直しだけでなく、宗派の違いで人を裁くこと自体を問うたのは、この三つ目があったからだと読めます。 この運動のさなかに書かれたのが『寛容論』です。本は第 1 章でカラスの死のいきさつを語ることから始まり、そこから、宗教の違いで人を迫害してよいか、という一般の問いへ進みます [2] 。ヴォルテールはその後も、刑罰の改革を説いたベッカリーアの書の仏訳を後押ししました。1766 年には独立の著作『犯罪と刑罰の書についての注解』を書いて、正義と宗教の寛容を論じました [1] [3] 。SEP は、旧い体制の不正や不合理に、批判の理性を直接ぶつける公の運動こそ、ヴォルテールの考える哲学だったと述べます [1] 。 ここで間違えやすい 『寛容論』を、静かな書斎で寛容の原理を一から組み立てた論文だと取らないようにしましょう。この本は、一人の処刑と、残された家族の名誉回復という具体の事件のために書かれ、世論を動かすことを狙いました。逆に、事件の記録にすぎないと取るのも誤りです。本は事件から出発して、なぜ迫害は理に反するのか、という一般の議論へ進みます。なお車裂きは、車輪を使う刑で、馬で手足を引き裂く刑とは別のものです。 みな同じ父の子――蟻塚のたとえ 『寛容論』第 22 章は「普遍的な寛容について」と題されています [2] 。ヴォルテールはまず、キリスト教徒どうしが寛容であるべきことは、大した技を使わなくても証せる、と言います。そして「もっと先へ進む」と続け、トルコ人も中国人もユダヤ人もシャム人も兄弟と見なすべきだ、と説きます。根拠は、みな同じ父の子、同じ神の被造物だ、という一点です [2] 。 次に、人の小ささを見せるたとえが来ます (図 2) 。この小さな地球は宇宙の一点にすぎず、身の丈五尺ほどの人間は、創造の中でとるに足りません。その一人が「地上には私たちのような小さな蟻が九億いるが、神に愛されるのは私の蟻塚だけだ」と言ったら、聞き手は、そんな愚かなことを言ったのは誰かと問うでしょう。答えは「あなたがた自身です」です [2] 。自分の宗派だけが救われるという言い分が、宇宙の側から見るとどう映るかを示すのです。 宇宙の一点の上の蟻塚 この小さな地球は宇宙の一点 (第 22 章) 神に愛されるのは わたしの蟻塚だけ! ほかは永遠に不幸 人の世では:自分の宗派だけが救われる 蟻塚は本人のたとえ・絵は本教材 図 2 第 22 章の蟻塚のたとえを絵にしたものです(本教材の絵)。宇宙から見ればとるに足りない者が、自分の仲間だけが神に愛され、ほかは永遠に不幸だと言い張ります。その姿のおかしさが、自分の宗派だけが救われるという言い分の思い上がりを映します。 このあと異端審問官との問答が続きます。審問官は、魂の救いのためだと言って、密告一つで捕らえ、弁護人を付けず、拷問のうえで罰する手続きを並べます。ヴォルテールは「それがなくても救われないものでしょうか」と返すのです [2] 。 ヴォルテールは、迫害が残酷なだけでなく、思い上がりでもあると論じます。「一瞬の原子」にすぎない私たちが、創造者の裁きを先取りして、他人の永遠の罰を言い渡してよいのか、と問うのです [2] 。さらに、ヨーロッパにはローマの教会に属さない人が四千万人いると言い、その一人ひとりに「一緒に食事も取引も話もしない」と言うのか、と迫ります。トルコの君主に会うフランスの大使が、相手を神の敵と本気で信じていたら、話すことさえできません [2] 。本教材の整理では、論拠は四つに分けられます (表 1) 。 この表で分かること: 第 22 章の寛容の論拠は、教えの正しさの比べ合いではなく、人の在り方から引き出されています。 論拠 本文の例(第 22 章) 何を示すか 同じ父の子 トルコ人も中国人もユダヤ人も兄弟 迫害する相手も家族である 人の小ささ 小さな地球の上の蟻塚 自分だけが選ばれたという思い上がり 知の限り 一瞬の原子は神の裁きを先取りできない 永遠の罰を決める資格は人にない 共に暮らす 食事も取引も話もしないと言うのか 迫害は暮らしと外交を壊す 表 1 『寛容論』第 22 章の寛容の論拠(本教材の整理) [2] 。 ここで間違えやすい ヴォルテールが、どの宗教も等しく正しいと主張した、と取らないようにしましょう。彼は第 22 章で、「教会の外に救いなし」の教えと戦うつもりはなく尊重する、と書いたうえで、それでも人が神の裁きを先取りしてはならない、と論じます [2] 。言い方には皮肉がこもりますが、寛容の根拠は教えの比べ合いではなく、人の小ささと知の限りに置かれています。また寛容に限りが無いわけでもありません。第 18 章は、不寛容が人の権利となる場合として、社会を乱す狂信を挙げます [2] 。 理性の神と「破廉恥を粉砕せよ」――狂信への闘い 1750 年代からヴォルテールは「人類の党」を名のり、狂信と迷信という双頭の怪物との戦いに身を捧げました [1] 。合言葉は「破廉恥を粉砕せよ( Écrasez l’infâme )」です。百科全書の擁護、イエズス会の追放(1763 年に実現)、カラスの弁護は、その一つ一つの戦場でした [1] 。SEP によれば、彼は百科全書の敵、とりわけパリのイエズス会を、真理と光を世から消そうとする一つの「破廉恥」にまとめ上げました [1] 。 フィロゾフたちは、同じ学説で結ばれていたわけではありません。哲学そのものを、その敵から守るという目的で結ばれ、世から誤りと迷信を取り除こうとする活動家として思い描かれていました [1] 。百科全書は 1751 年に第 1 巻が出るとすぐに騒ぎを呼び、1759 年にはフランスでの出版の許可を取り消されます。ヴォルテールは 1755 年の第 5 巻から項目を寄せ、編者たちと並んで擁護に立ちました [1] 。 ただし、ヴォルテールは神を退けたわけではありません。彼は、自分の理性で身を律せる人は多くないので、宗教は社会の秩序の支えとして要ると考えました。この点で、トーランドのような急進的な理神論者と距離を置いたのです [1] 。本教材の作例で言えば、浜辺で懐中時計を拾った人は、歯車の動きを見て誰かが作ったと考えます。理神論者は、星々の規則正しい動きから世界の作り手を考えます。けれども、その作り手がどの儀式を好み、どの宗派だけを救うかは、時計を見ても分かりません。祈り方の違う人々が一つの食卓につく姿は、そこから引き出される寛容の像です (図 3) 。 みな同じ父の子、同じ神の被造物 (第 22 章) カトリック ユダヤ教 イスラーム プロテスタント 儒者 シャムの僧 地獄に落ちる者とは 食事も取引も 話もしない 食卓の場面は本教材の作例 第 22 章の一節に拠る 図 3 祈り方の違う人々が、一つのパンを分け合う食卓です(本教材の作例)。第 22 章の「食事も取引も話もしない」の一節と、そこに挙がる人々に拠ります。床の破れた紙は、違う人との交わりを断つ言い分を退けることを示します。寛容は、同じになることでなく、違ったまま共に暮らすことです。 闘いの武器は、体系だった論文より、物語・風刺・詩・小冊子・書簡でした [1] 。はっきり哲学の書と言えるのは、1764 年に初めて出た『哲学辞典』くらいです [1] [4] 。『カンディード』(1759 年)は、主人公の滑稽な遍歴の物語の中で、前の編で読んだライプニッツの哲学を強く攻撃します [1] 。また彼は、どんな話題でも言論の自由は神聖で侵せない、という信念をくり返し押し出しました。カントが「啓蒙とは何か」で説いた、理性の公の使用の自由にも、その影響がはっきり見られると SEP は言います [1] 。 ここで間違えやすい 「あなたの意見には反対だが、それを言う権利は命をかけて守る」を、ヴォルテールの言葉として引かないようにしましょう。彼はこの言葉を実際には言っていません [1] 。また、「破廉恥」を宗教そのもの、神への信仰そのものと取るのも行き過ぎです。ヴォルテールは神を認め、宗教が社会で果たす役目も認めていました [1] 。彼が粉砕しようとしたのは、教会の権威と結びついて人を迫害する狂信と迷信です。 原典を読む 第 2 節で見た『寛容論』第 22 章の書き出しを読みます。原文はフランス語で、本教材が訳し