シンガー――苦しみを感じる存在は等しく配慮されるべきだ(動物解放・功利主義) — Epoché
現代 現代の倫理学と政治哲学 約 17 分 本文 約 7,000 字 図 4・表 2 原典 1 節 この課の要点 平等・境目・偏りの 3 つ 平等 平等とは、人がみな同じ力を持つという事実ではなく、利益を等しく配慮せよという道徳の原理である。同じ配慮は同じ扱いを意味しない、とシンガーは言う(『動物の解放』第 1 章)。 境目 配慮の境目を引くのは、理性や言葉ではなく、苦しむことができるかどうかである。苦しむことのできる者は利益を持ち、その利益は数えに入れなければならない。ここでシンガーはベンサムの問いを受け継ぐ。 偏り 種の所属だけを理由に、ほかの種の者のより大きな利益を軽く見るのは、人種差別と同じ型の偏り(種差別)である。理性で線を引けば、理性を持たない人間の乳児も外れてしまう。 はじめに ピーター・シンガーは、1946 年生まれのオーストラリアの哲学者です。現代の功利主義を代表する一人で、2024 年に大学の職を退き、名誉教授となりました。存命なので、この課では著作を訳さず、本教材の言葉で要約して示します。 シンガーの名を広く知らせたのは、1975 年の『動物の解放』です [2] 。1990 年に改訂第 2 版が出て、2023 年には大きく書き改めた版も出ました。もう一つの主著『実践の倫理』(1979 年、1993 年に第 2 版)では、同じ考えを功利主義の理論の中で論じています [1] 。 出発点は、前に読んだベンサムの一文です。ベンサムは、問うべきは「理性を使えるか」「話せるか」ではなく、「苦しむことができるか」だ、と書きました。シンガーはこの問いを受け継ぎ、人間どうしの平等を支える原理を、種の境を越えて当てはめよ、と主張しました [1] 。 この課では、第 1 章で三つの考えを順に読みます。平等は事実でなく配慮の原理であること、配慮の境目は苦しむことができるかどうかにあること、種の所属で境目を引くのは偏りであること、の三つです。そのあと原典の要点を確かめ、ベンサム、ミルと比べます。 この課の問い 道ばたの石を蹴ることと、ネズミを蹴ることは、同じことでしょうか。違うとすれば、何が違うのでしょうか。苦しむことのできる者の利益を、人間でないというだけで軽く見てよい理由はあるのでしょうか。 この課のことば 利益の平等な配慮 誰の利益であっても、同じだけの利益なら同じ重さで数えることです。同じに扱うこととは違い、必要が違えば扱いも違ってかまいません。 利益 ここでは、その者にとって良くなったり悪くなったりすることがらです。痛めつけられないこと、飢えないことなどを指します。 感覚(センティエンス) 痛みや快を感じることができることです。苦しんだり楽しんだりできる力を言います。 種差別 自分の属する種の利益を、ほかの種の者のより大きな利益よりも重く見る偏りです。人種差別・性差別と同じ型の偏りだとされます。 功利主義 行いのよさを、それが関わるすべての者にもたらす結果の良し悪しの和で決める考え方です。ベンサム、ミル、シジウィックが古典的な代表です。 境界事例 人間でも、乳児や昏睡の人のように、理性や自己意識の力を持たない場合のことです。理性を配慮の基準にする説に難問を突きつけます。この呼び名は不適切だとも言われます。 動物の解放――誰の苦しみを数えに入れるのか 前に読んだベンサムの課では、快と苦の和で行いや法のよさを測り、その和に動物の苦しみも入るはずだという一文を見ました。ミルの課では、快楽には質の上下があり、満足した豚より不満足な人間の方がよい、という考えを読みました。シンガーは 1970 年代に、この功利主義の伝統の中から平等とは何かを問い直し、それを人間の外へ広げます [1] 。 平等は事実でなく原理――同じ配慮と同じ扱いは違う 平等と聞くと、人はみな同じだ、という事実を思い浮かべるかもしれません。けれども、人は背の高さも、体の力も、ものを考える速さも違います。平等を事実の主張にすると、力の劣る人を軽く扱ってよいことになりかねません。シンガーは『動物の解放』第 1 章で、平等はそういう事実ではなく、人をどう扱うべきかを言う道徳の原理だ、と論じます [2] 。 その原理の中身が、 利益の平等な配慮 です。誰の利益であっても、同じだけの利益なら同じ重さで数えます。これは功利主義の古典が受け入れてきた考えでもあります。SEP は、ある人の利益がほかの人の同じだけの利益とちょうど同じだけ重い、という主張を、古典的な功利主義を組み立てる柱の一つに数えます [4] 。古典的な功利主義は、行いの正しさを、関わるすべての人、あるいは感じるすべての者への帰結で決める、とも整理されます [4] 。この「感じるすべての者」という範囲が、シンガーの議論の足場になります。 ここで大切なのは、 同じ配慮 と 同じ扱い は違う、という点です。利益の中身は相手によって違います。本教材の作例で言えば、子どもの教育を受ける利益を数えることは、まだ字の読めない子に大人と同じ本を渡せ、ということではありません。等しく配慮すると、かえって扱いが違ってくることがあります。 同じ打ち方 痛み 痛み 同じ強さの平手 皮が厚く あまり痛くない ひどく痛い 同じ平手でも、痛みは違う 同じ痛み 同じだけの痛み=同じだけ悪い 強い打ち方 強く打てば、馬も同じだけ痛む 数えるのは打ち方でなく痛み 図 1 馬と赤ん坊の例を絵にしたものです(本教材の絵)。一つ目は、同じ強さの平手でも、皮の厚い馬はあまり痛まず、赤ん坊はひどく痛むことを示します。二つ目は、強く打てば馬にも同じだけの痛みを与えられ、その痛みは同じだけ悪いことを示します。数えるのは打ち方でなく、痛みの大きさです。例はシンガーが挙げるとされるもので、痛みの目盛りは本教材の作例です。打つことを勧める絵ではありません。 シンガーは、馬と赤ん坊を比べる例も挙げているとされます (図 1) 。同じ強さで平手打ちをしても、皮の厚い馬はあまり痛がらず、赤ん坊はひどく痛がります。同じ打ち方が同じ痛みを生むわけではありません。けれども、馬に赤ん坊と同じだけの痛みを与える強い打ち方もあるはずで、その痛みは赤ん坊の痛みと同じだけ悪い、と考えます。数えるのは打ち方ではなく、痛みの大きさです。 この原理が人種や性の違いを越えて当てはまるなら、種の違いを越えても当てはまるはずです。シンガーはここから、動物の利益への配慮へと議論を進めます [1] 。 ここで間違えやすい シンガーが、動物にも人間と同じ権利や同じ扱いを与えよ、と言ったと取らないようにしましょう。たとえば「豚にも選挙権を」という意味ではありません。求められているのは同じ配慮であって、同じ扱いではありません。投票に利益を持たない者に選挙権を与えることは、この原理からは出てきません。 苦しむことができるか――配慮の境目は感覚にある では、配慮の境目はどこに引けばよいのでしょうか。前に読んだベンサムの課で見たとおり、ベンサムは、動物への残酷さを刑法で扱う構想の中で、問うべきは「理性を使えるか」「話せるか」ではなく、「苦しむことができるか」だ、と書きました。SEP はこの一文の前の所も引きます(『序説』第 17 章) [1] 。肌の黒さが人を苦しめてよい理由にならないと認められたように、脚の数や毛の生え方も、感じる者を見捨てる理由にならない日が来るだろう、とベンサムは述べていました [1] 。 シンガーはこの問いを受け継ぎます。苦しむことができる力は、そもそも利益を持つための前提だ、とシンガーは言います [2] 。石は蹴られても苦しまないので、蹴られないことに利益を持ちません。ネズミは苦しめられれば苦しむので、苦しめられないことに利益を持ちます (図 2) 。原典にあるのは、この石とネズミの対比です。図 2 の、同じ子どもがネズミを蹴り、ネズミが逃げようとする場面は、本教材が具体にしたものです。 石を蹴る 苦しむことができない →蹴られないことに利益は無い ネズミを蹴る 数えに入れる 苦しむことができる →蹴られないことに利益がある 図 2 石とネズミの対比を絵にしたものです(本教材の絵)。一つ目の石は苦しまないので、蹴られないことに利益を持ちません。二つ目のネズミは苦しむので利益を持ち、その苦しみは数えに入ります。原典にあるのは石とネズミの対比で、同じ子どもが蹴る場面、ネズミが逃げる様子、天秤は本教材の具体化です [2] 。蹴ることを勧める絵ではありません。 苦しむことのできる者がいるなら、その苦しみを数えに入れないことは、道徳として正当化できません。SEP の整理では、シンガーら現代の功利主義者は、人間でない者や人格でない者でも、明らかに苦しむことのできる者を配慮から外す正当な道は無い、と論じます。苦しまないことに利益を持つ者は誰でも、その利益を考慮されるべきだ、というのです [1] 。本教材の整理で言えば、理性や言葉は苦しみの悪さと関係が無いので、それで線を引くのは、肌の色で線を引くのと同じく勝手な線になります。 この境目は、どこまで広がるのでしょうか。哺乳類と鳥の感覚はよく調べられてきましたが、近年は魚、タコ、甲殻類にも感覚があるとする議論が増えています。昆虫のように遠い動物では感覚を確かめにくく、迷うなら慎重な側に立て、という考えも出ています [1] 。これはシンガーより後の議論で、ここでは広がりの例として触れるだけにします。 ここで間違えやすい シンガーが、動物にも理性や言葉があることを示そうとしている、と取らないようにしましょう。シンガーは動物の知力を持ち上げるのではなく、理性や言葉を配慮の基準にすること自体を退けます。また、苦しみを等しく数えることと、命を奪うことの悪さが誰でも同じかという問いは別です。後者は、シンガーが『実践の倫理』などで別に論じたとされる問いで、この課では扱いません。 種差別――人種差別と同じ型の偏り シンガーは、種の境で配慮を止める偏りに、 種差別 という名を当てます。この語は 1970 年代にリチャード・ライダーが作ったもので、人種差別に似た、人間中心の偏りを指しました。シンガーはこの語を広め、種差別が道徳の正当化なしに人間の利益をひいきする点に焦点を当てました [1] 。 1974 年の論文「すべての動物は平等である」で、シンガーは型が同じであることを述べます。人種差別をする者は、自分の人種の者の利益に、ほかの人種の者の利益より大きな重みを与えて、平等の原理に背きます。同じように、種差別をする者は、自分の種の利益を、ほかの種の者のより大きな利益に優先させます。型はどちらも同じだ、というのです(108 頁) [1] [3] 。 なぜ偏りと言えるのでしょうか。人種による差別が偏りだとされるのは、人種が道徳の要求には関係の無い要因だからです。種も同じです。SEP の整理では、同じ遺伝の作りと体のつくりを持つという事実は、道徳の観点からは重要でありません。種の所属は、マレーシアに生まれたかカナダに生まれたかと同じ巡り合わせにすぎないのです [1] (図 3) 。 配慮の境目をどこに引くか 苦しみや利益を、誰の分まで 数えに入れるのか 種の所属で引く 人間でなければ外れる。種は生まれの 巡り合わせにすぎない 理性・言葉で引く 乳児や昏睡の人も外れてしまう(境界事 例) 苦しむ力で引く 苦しむことのできる者はみな入り、 利益を同じ重さで数える 図 3 配慮の境目の三つの引き方です。上の二つの枝の難点は SEP の整理により [1] 、三つの並べ方は本教材の整理です。いちばん下の枝がベンサムとシンガーの立場で、感覚の確かでない昆虫などをどう扱うかは、その後の議論に残ります [1] 。 本教材の作例で考えます。ある会社が、肌の色だけを見て、同じ仕事ができる人を落としたとします。私たちはそれを、仕事に関係の無い性質で利益を軽く見る偏りだと言います。同じだけ苦しむ二者の一方を、人間でないというだけで半分に数えるのも、同じ型の偏りです。 では、種でなく理性や自己意識で線を引けばどうでしょう。乳児や昏睡の人のように、その力を持たない人間も外れてしまいます。この難問は、文献で「境界事例」と呼ばれます。人格を配慮の基準にする説への深刻な難点です [1] (表 1) 。人間だけを守ろうとすると、残る理由は種の所属しかなくなります(本教材の整理)。 この表で分かること: 人間だけを配慮しようとすると、種の所属か理性のどちらかで線を引くことになります。どちらの線にも、苦しみの悪さとは関係の無い性質で利益を外す難点があります。 境目の引き方 配慮に入るもの 外れるもの 難点(シンガーの見方) 種の所属 人間のすべて 人間でない動物のすべて 種は生まれの巡り合わせにすぎない 理性・言葉 理性を持つ者 動物と、乳児・昏睡の人 理性を持たない人間も外れる 苦しむ力 苦しむことのできる者 石など、苦しまない物 (シンガーの立場) 表 1 配慮の境目の三つの引き方と、それぞれの難点です。難点の言い方は SEP の整理によります [1] 。 シンガーは同じ本の後の章で、この原理から工場式の畜産や動物実験の多くを退けます [2] 。この課では第 1 章の原理までを読みます。 ここで間違えやすい 種差別の批判を、種の違いに気づくこと自体を責めるものだと取らないようにしましょう。偏りとされるのは、苦しみの大きさとは関係の無い種の所属で、利益の重さを変えることです。この批判は、動物の権利の理論からではなく、利益の平等な配慮の原理から出ています [1] 。 原典を読む 三つの考えが『動物の解放』第 1 章でどう一続きに示されるかを確かめます。著者が存命のため、訳ではなく本教材の要約で示します。 シンガー『動物の解放』第 1 章 平等の原理は種の境で止まらない 第 1 章は、後の章で畜産や動物実験を論じるための原理を立てる、入口の章です。 1 シンガーは、平等は人がみな同じ力を持つという事実ではなく、利益を等しく配慮せよという原理であり、この原理は種の境でも止まらない、と論じます。 2 人の能力はさまざまなので、平等を事実に頼らせると崩れます。 3 だから平等は、同じだけの利益を同じ重さで数えよ、という求めとして立てられます。人種や性を越えるこの求めを、種の前