近代国家の成り立ち――戦争が国家をつくった — Epoché
基礎 権力と国家 約 28 分 本文 約 12,200 字 図 5・表 2 資料 2 節 この課の要点 仕組み・分かれ道・限界の 3 つ 仕組み 戦争の費用を賄うための取り立てが、税の役所・裁判所・常備軍を副産物として残し、近代国家の骨組みになった、とティリーは論じました。 分かれ道 同じ戦争の圧力でも、強制に頼るか商人の資本に頼るかで国家の形が分かれ、住民の抵抗は権利や議会の譲歩を引き出しました。 限界 戦争が国家を強めなかった地域や、婚姻と交渉による統合を重く見る反論があり、この説が当てはまる範囲には限りがあります。 はじめに 私たちは、国家が税を集め、自衛隊や警察を持ち、国境の内側を一つの法で治めていることを、当たり前のように受け止めています。給料から所得税が引かれ、買い物のたびに消費税を払い、引っ越せば役所に届けを出します。けれども、五百年ほど前のヨーロッパでは、こうした姿は当たり前ではありませんでした。一つの村の上に、領主と教会と皇帝の権限が重なり、近くの自由都市は自分の法と兵を持っていました。今日の国家の形は、どこから来たのでしょうか。 この課程の『国家――暴力の独占と主権』の課では、国家を、一定の領域で正統な暴力の行使を独占する組織として定義しました。この課では、その国家がどうやって生まれたのかを問います。よく知られた答えの一つが、アメリカの社会学者チャールズ・ティリーの説です。ティリーは、ヨーロッパの国家形成を「戦争が国家をつくり、国家が戦争をつくった」とまとめました [2] 。戦争にはお金と人が要ります。それを住民から集めるために税の役所や名簿が整い、集める邪魔になる地元の有力者が退けられていきました。その積み重ねが、結果として国家の骨組みになった、という見方です。 ただし、この説がどこにでも当てはまるわけではありません。この課ではまず、近代国家の何が新しいのかを確かめます。次に、戦争が国家をつくる仕組みを、ティリーの四つの活動の区別から見ます。三つ目に、ティリーが国家を「ゆすり」にたとえた理由と、国によって国家の形が分かれた道筋を見ます。最後に、説への反論と、明治の日本の例を考えます。資料では、日本の財務省の統計で戦争の前後の歳出を確かめ、18 世紀のアダム・スミスが戦費について書いた一節を読みます。 この課の問い いま当たり前に思える「領域を持ち、税を取り、常備の軍と役所を持つ国家」は、どのようにして生まれたのでしょうか。戦争への備えが国家をつくったという説は、どこまで当てはまるのでしょうか。 この課のことば 近代国家 一つの領域を中央の政府がまとめて治め、軍・税・役所を自前で持つ政治の組織です。領主・教会・皇帝の権限が重なっていた中世の支配と比べて使います。 取り立て 戦争や統治に使う人・物・お金を住民から集めることです。ティリーの言う extraction の訳で、力ずくの略奪から定期の貢ぎ物、役所による課税まで幅があります。 軍事革命 16〜17 世紀のヨーロッパで戦い方が変わり、訓練された常設の兵が必要になったという歴史家の説です。1955 年にマイケル・ロバーツが唱えました。 財政=軍事国家 重い税と大きな借金で大きな陸海軍を支えた国家のことです。歴史家ジョン・ブリュアが 18 世紀のイギリスを描くのに使いました。 保護の取引 支配者が住民を外敵や犯罪から守る代わりに、税を取るという関係です。ティリーは、守る側が脅威もつくる場合を「ゆすり」にたとえました。 近代国家の成り立ち――なぜ戦争が国家をつくったのか 前の課で見た「暴力の独占と主権」を持つ国家は、はじめから在ったわけではありません。ヨーロッパでは数百年をかけて、重なり合う支配が一つの領域の国家にまとまっていきました。この章では、その過程を戦争と税の結び付きから見ていきます。説明の中心はティリーの議論ですが、その反論も同じ重さで扱います。 重なり合う支配から領域の国家へ――近代国家の何が新しいのか 中世のヨーロッパでは、暴力を使う権利を多くの者が分け持っていました。ティリーによれば、王は戦争のたびに、自分の兵を持つ諸侯に兵を連れて来てもらわなければなりませんでした。ところが、その諸侯は同時に王の競争相手であり、敵と手を組むおそれもありました。そのため「大物の武装を解くこと」が、国家をつくろうとする者の大きな課題になりました [1] 。宗教の面でも、教会は世俗の権限を持ち、神聖ローマ皇帝の領内では諸侯が皇帝の手の届かない権限を保っていました [5] 。 これと比べると、近代国家の新しさがはっきりします。ティリーは近代の国家を、中央に集まり、ほかの組織から分かれ、自立し、広い領域を治める政治の組織だと特徴づけました [1] 。日常の言葉で言えば、命令の筋が一つの中心にまとまり、教会や家柄とは別の役所が仕事をします。外の権威の許しを得ずに物事を決められ、しかも狭い都市ではなく広い土地をまとめて治めます。図 1 は、この違いを並べたものです。 (図 1) 中世のヨーロッパ 近代国家 権限が何重にも 重なる 中央の政府が広い 領域をまとめて 治める 暴力を使う権利を 多くの者が分け持つ 常備の軍と税の 役所を自前で持つ 王は戦争のたびに 諸侯の兵に頼る 教会や家柄から 分かれた役所が働く 図 1 中世の支配と近代国家の違い(ティリー 1985 と SEP「主権」をもとにした本教材の整理) 近代国家がいつ生まれたかには、いくつかの見方があります。よく挙げられるのは、三十年戦争を終わらせた 1648 年のウェストファリアの講和です。この講和の後、国家がヨーロッパでほぼ唯一の憲法上の権威になり、宗教を理由にした他国への介入がまれになった、という見方です [5] 。しかし、講和の条文が主権国家の体系を定めたわけではありません。国家の要素は講和のずっと前から積み重なり、講和の後にも中世風の例外が残りました。そのため、ウェストファリアを「出発点」とするのは神話だと批判する研究者もいます [5] 。 国の数の変化も、まとまっていく過程を示します。ティリーは、ヨーロッパの政治の単位を 1500 年に約 200、第一次世界大戦の後の 1918 年には約 25 と見積もりました [3] [4] 。一方、アブラムソンの地図のデータでは、国家の数は 1490 年の 263 から 1790 年の 215 への減り方にとどまります [4] 。どこまでを一つの単位と数えるかで数は変わり、フランス革命の後に、まとまりがいっそう大きく進んだとも指摘されています [4] 。 日本にも、重なり合う支配を一つにまとめた出来事があります。1871 年の廃藩置県では、藩が廃止され、地方は中央の政府の下の府と県にまとめられました。それまで藩ごとに分かれていた兵と年貢が、一つの政府の手に集まる入口になった出来事です。 ここで間違えやすい 「近代国家は 1648 年に一度にできた」と考えがちです。実際には、国家の要素は数百年をかけて積み重なり、講和の条文は国家の体系を定めていません。国家への統合が大きく進んだのは、むしろ 18 世紀の終わりより後です。 戦争が国家をつくる――戦費が税と役所を生む 戦争と国家を結び付ける議論は、ティリーより前からありました。ドイツの歴史家オットー・ヒンツェは、20 世紀のはじめにすでにこの結び付きを論じていました [4] 。1955 年には歴史家マイケル・ロバーツが、これを「軍事革命」と呼びました。1560〜1660 年のオランダとスウェーデンの戦術の変化によって、訓練された常設の兵が必要になった、という説です [6] 。兵を常に雇っておくには、毎年決まった収入が要ります。戦い方の変化が、お金の集め方の変化を迫ったのです。 ティリーはこの議論を、支配者の側の動機から組み立て直しました。ティリーによれば、戦争を追い求めた支配者は、否応なく、支配下の住民から戦争の資源を取り立てることになりました。また、お金を貸したり物を売ったりできる人々の資本の蓄積を、後押しすることにもなりました。戦争と取り立てと資本の蓄積が互いに作用して、ヨーロッパの国家を形づくったのです。そして支配者は、国家をつくるつもりでこれらを行ったのではなく、国家が生まれることを予見してもいませんでした [1] 。 ティリーが描いた理念型の筋道は、図 2 のとおりです。大領主が戦争で広い領域を押さえると、戦争のための兵・武器・食料・お金を住民から取り立てる必要が生まれます。取り立てがうまくいくには、地元の競争相手を除くか、取り込まなければなりません。その副産物として、税を集める役所、警察、裁判所、会計の係が残り、常備軍や軍需の産業も育ちます。これらの組織がさらに取り立ての力を高め、次の戦争への備えになります [1] 。 (図 2) 戦争 大領主が戦争で広い領域を押さえる 取り立て 兵・武器・食料・お金を住民から集める 競争相手を退ける 取り立ての邪魔になる地元の有力者を 除くか取り込む 組織が残る 税務・警察・裁判所・会計と常備軍が 育つ 次の戦争へ 高まった取り立ての力で次の戦争に 備える 図 2 ティリーが示した理念型の筋道(ティリー 1985 をもとに本教材が図にしたもの)。実際の国がこの順に進んだとは限りません ティリーは、国家の担い手が組織された暴力を使う活動を、四つに分けました (表 1) 。領域の外の競争相手を退ける「戦争」、領域の内の競争相手を退ける「国家づくり」、顧客の敵を退ける「保護」、そして前の三つの手段を得る「取り立て」です。取り立てには、力ずくの略奪から、定期の貢ぎ物、役所による課税まで幅があります。四つはそれぞれ別の組織を残しました [1] 。 (表 1) この表で分かること: 国家の担い手は組織された暴力を四つの使い方で用い、それぞれが別の組織を後に残しました。 活動 退ける相手 後に残った組織 戦争 領域の外の競争相手 陸軍・海軍と支えの部門 国家づくり 領域の内の競争相手 監視と統制の組織 保護 顧客(守られる側)の敵 裁判所・代表の議会 取り立て (前の三つの手段を得る) 税と会計の組織 表 1 ティリーの四つの活動(ティリー 1985 による) [1] 。 ティリーはさらに、他の条件が同じなら、費用のかかる活動ほど後に残る組織が大きくなると述べました [1] 。ブランデンブルク=プロイセンは、小さな人口で大陸の大国並みの軍を持とうとしたため、巨大な組織をつくり、社会の多くを軍と役所の色に染めました。反対にイングランドは、商業の発達した豊かな資源から、比較的小さな財政の組織で取り立てることができました [1] 。後の研究でティリーは、戦争が、地方の有力者を介して治める間接統治から、中央が住民を直接治める直接統治への移行を促したとも論じています [3] [4] 。四つの活動の釣り合いも、国家の形を左右しました。取り立てや国家づくりが十分に伴わないまま戦争が続いた所では、軍が国の政治で大きく自立した役割を持つようになりました。ティリーはその例にスペインを挙げています。国家づくりが勝った所では、治安と監視の仕組みが不釣り合いなほど発達し、教皇領がその極端な例だとされます [1] 。 ここで間違えやすい 「国王が近代国家を設計した」のではありません。ティリーの説では、戦争に勝ち残るための目先の工夫の積み重ねが、意図しない結果として国家を形づくりました。図 2 の順に、どの国も進んだわけでもありません。 保護と取り立て――国家を「ゆすり」にたとえる理由 ティリーの 1985 年の論文の題は「組織犯罪としての戦争と国家づくり」です。「保護」という言葉には二つの響きがある、とティリーは言います。一つは、頼れる友人や保険や丈夫な屋根のような、危険からの守りです。もう一つは、地元の顔役が商人に貢ぎ物を払わせ、払わなければ自分が損害を与えるとほのめかす、ゆすりです [1] 。図 3 は、このたとえを絵にしたものです。 (図 3) よそ者から守ってやる だから代金を払え 男が割った窓 ゆすり屋 店の商人 図 3 ティリーの「ゆすり」のたとえ(本教材の作例)。石を投げて窓を割った男が、その男自身からの「守り」の代金を商人に求めています ティリーは、脅威をつくり出し、その脅威を減らす代金を取る者を、ゆすり屋と定義しました [1] 。この基準で見ると、政府の保護は、守る相手の脅威が想像上のものであったり、政府自身の活動の結果であったりする程度に応じて、ゆすりに近づきます。そのうえでティリーは、戦争と国家づくりを「正統性という利点を持つ典型的なゆすり」と呼び、最大の組織犯罪だと書きました [1] 。ここでの「正統性」の意味には注意が要ります。この課程の『権威と正統性』の課では、命令が従うに値すると受け止められていることを正統性と呼びました。ティリーはこれと違い、社会学者スティンチコムに従って、正統性を「ほかの権威がその権威の決定を支持し追認する見込み」ととらえます。命令を受ける人々の同意よりも、ほかの力の持ち主の承認を重く見る、冷めた定義です。そのうえでティリーは、大きな力を握る権威ほど、報復への恐れや安定を望む気持ちから、ほかの権威に追認されやすいと付け加えています [1] 。 ただし、ティリーは、政府の権威が力だけに基づくとか、政府の役目が保護だけだとか言っているのではありません。力の重さを率直に認めることで、政府の形の成り立ちと変化が見えてくる、というのが趣旨です [1] 。ティリーはまた、経済史家フレデリック・レーンの議論を借りています。レーンは政府を、望まれても望まれなくても保護を売る事業とみなし、暴力の生産は競争すると費用が上がるので独占に向かう、と論じました [1] 。 取り立てられる側も、黙っていたわけではありません。ティリーによれば、住民が強く抵抗したところでは、支配者は権利の保障、代表の議会、上訴の裁判所といった譲歩をしました。その譲歩が、後の戦争と国家づくりの道筋を縛りました [1] 。住民の動きは、支配層の一部と手を結んだときに大きな効果を持ちました。ティリーの例では、チャールズ 1 世に対してジェントリ(地方の有力者)が広く動員されました。それが助けとなって、1640 年のイングランドの革命は、テューダー朝の時代のどの反