ノージック――国家は最小限であるべきだ(リバタリアニズム) — Epoché
現代 現代の倫理学と政治哲学 約 18 分 本文 約 7,500 字 図 4・表 2 原典 1 節 この課の要点 権利・国家・保有の 3 つ 権利 個人には、どんな人も集団もしてはならないことがある。権利は、社会全体のよい結果のために足し引きする目標ではなく、行動の枠となる横からの制約である。人はそれぞれ自分の人生を生きる別々の存在なので、ある人を別の人の得のために犠牲にしてはならない、とノージックは論じた(『アナーキー・国家・ユートピア』序文、第 3 章)。 国家 国家の無い状態から、人々が保護協会に加わり、その一つが地域で支配的になり、危ない手続きでの力の行使を禁じて禁じた人には埋め合わせをすれば、誰の権利も侵さずに最小国家まで進みうる、とノージックは描いた。所得を配り直すための大きな国家は正当化されない。ただし過去の不正をやり直すために、短い間より大きな国家が要る場合は認めている(第 1 部、第 2 部)。 保有 持ち物が正しいかどうかは、いまの配られ方の形ではなく、正しい取得と正しい移転という来歴で決まる。どんな望ましい分配の形も、人々の自由なやりとりがすぐに崩すので、形を保つには人の自由に絶えず手を入れることになる、とノージックは論じた(第 7 章)。 はじめに ロバート・ノージックは 1938 年、ニューヨークのブルックリンで、ロシアから来たユダヤ系移民の家に生まれました。コロンビア大学とプリンストン大学で哲学を学び、1969 年からはハーヴァード大学で教えました [1] 。前の課のロールズとは同じ大学の同僚です。 若いころは社会主義を支持していましたが、大学院で友人ゴールドバーグと議論するうちにリバタリアンの考えに移りました。その縁で、国家そのものが個人の権利を侵すと説く経済学者ロスバードとも知り合いました [1] 。権利をまじめに受け取るなら、国家は許されないのではないでしょうか。この挑戦に答えようとしたのが、1974 年の『アナーキー・国家・ユートピア』です [1] 。 この本は、個人の生命・自由・財産・契約の権利を守ることだけに働きをかぎる 最小国家 を緻密に擁護し、哲学の世界を驚かせました [1] 。三年前に出たロールズの『正義論』が、恵まれない人の利益になる分配を求めたのとは、正反対の結論でした。 この課の問い 道で財布を拾った人が、中身の一部を「もっと困っている人に」と勝手に配ったら、それは盗みでしょう。では、国が税として人の稼ぎの一部を取り、困っている人に配るのは、何が違うのでしょうか。国家はどこまでのことをしてよいのでしょうか。 この課のことば リバタリアニズム 個人の自由と、自分の身体・労働・財産を自分のものとして持つ権利を何より重んじ、国家の働きをできるだけ小さくしようとする立場です。日本語では「自由至上主義」とも訳されます。 最小国家 暴力・盗み・詐欺から人を守り、契約を守らせることだけに働きをかぎる国家です。所得の配り直しや、人を道徳的にすることには国家の力を使いません。 横からの制約 目指す目標ではなく、何かを目指して行動するときに越えてはならない枠として働く道徳の決まりです。ノージックは権利をこの形でとらえました(原語 side constraint、訳語は本教材のもの)。 権原理論 持ち物が正しいかどうかを、正しい取得・正しい移転・不正のやり直しという来歴で決める考えです。権原は「正当な資格」のことです。 最小国家――国家はどこまでのことをしてよいのか この課程のロックの課で見たように、ロックは、人は政府より前から生命・自由・所有への権利を持ち、政府はそれを守るためにある、と考えました。前の課のロールズは、恵まれない人の利益になる分配を求めました。ノージックはロックの自然の権利を受け継ぎ、そこからロールズとは逆向きの結論を引き出します [1] 。この章では、横からの制約としての権利、保護協会から最小国家への筋道、持ち物の正しさを来歴で決める考えを、順に読みます。 権利は横からの制約――人を誰かのための道具にしない 『アナーキー・国家・ユートピア』は、個人には権利があり、どんな人も集団も、個人にしてはならないことがある、という宣言で始まります(序文 ix 頁) [1] [2] 。この権利は国家や契約より前からある自然の権利で、ロックの考えを受け継ぐものです。中身は「何かをしてもらう」権利ではなく、殺されない・襲われない・物を奪われないといった「何かをされない」権利です [1] 。 ノージックの工夫は、この権利の働き方にあります。権利を守ることを社会の目標にすると、困った結論が出ます。一人の権利を侵せば、ほかの三人の権利侵害を防げるとしましょう。侵害の総量を減らすことが目標なら、一人を侵すべきだ、ということになりかねません [1] 。ノージックはこれを退け、権利を、何かを目指して行動するときに越えてはならない枠、つまり 横からの制約 としてとらえました(第 3 章、28〜30 頁) [1] (図 1) 。 目標としての権利 横からの制約 権利とは:侵害の 総量を減らす目標 権利とは:行動で 越えてはならない枠 一人を侵せば三人を 守れるなら侵して よい それでも一人を 侵してはならない 社会全体の得と損を 足し引きする 人は別々の存在。 人生の間で 差し引きしない 右の列がノージックの考え方です。 図 1 権利をどう扱うかの二つの考え方(『アナーキー・国家・ユートピア』第 3 章)。どちらも権利を大切に思う点は同じですが、一人を侵せば三人を守れる場面で答えが分かれます。左の列の名と一人と三人の場面は SEP の説明により [1] 、並べ方は本教材の整理です。 なぜ枠なのでしょうか。答えは人の別々の存在にあります。一人の人の中でなら、明日の大きな得のために今日の小さな損をがまんするのは筋が通ります。けれども社会は、一つの人生を生きる一人の人ではありません。いるのは、それぞれ自分の人生を生きる別々の個人だけです。だから、ある人の損を別の人の得で埋め合わせることは許されない、とノージックは論じます(32〜33 頁) [1] 。人をほかの人の目的のためのただの手段にしてはならない、というカントの言葉も、ここで借りられています [1] 。 本教材の作例で考えてみます。病院に、臓器が無くて死にかけている患者が五人います。健康診断に来た若者一人の臓器を分ければ、五人が助かります。命の数だけを見れば、一人を犠牲にするほうが「よい結果」です。それでも多くの人は、医師がそうしてはならないと感じます。ノージックの言い方に直せば、若者の命は五人の命と差し引きできる点数ではなく、医師が何を目指すときにも越えてはならない枠です。 ただし、この権利は動かせない壁ではありません。誰にも鼻を殴られない権利があっても、ボクシングの試合に同意すれば、その権利を手放し、相手を殴ってよい自由を得ます [1] 。権利は、本人の行いと約束で狭まりも広がりもする出発点です。 ここで間違えやすい リバタリアニズムを「困っている人を助けなくてよい」という主張と取るのは誤りです。権利が定めるのは「されない」ことで、助けることそのものを悪いとは言っていません。問われているのは、助けることを力ずくで強いてよいか、です。また、横からの制約を「結果はどうでもよい」という冷たさと取るのも誤りです。ノージックは、権利を目標として扱う考えのほうが、人を別々の存在として尊重していない、と論じました [1] 。 保護協会から最小国家へ――誰の権利も侵さずに国家は生まれうるか 権利がこれほど強いなら、国家に残される余地はあるのでしょうか。ノージック自身がそう問います(序文 ix 頁) [1] 。ロスバードら個人主義のアナーキストは、最小国家でさえ権利を侵す、と批判しました。国家は税を強い、ほかの守り手を力で締め出すからです [1] 。本の第 1 部は、この批判に答える試みです。 ノージックは、国家の無い状態から話を始めます。人は自分の権利を自分で守れますが、それは心もとないので、守ってもらうことを保護協会から買います。協会どうしが争えば、客も協会も損をします。そこで協会は争いを解く取り決めを結び、やがて一つの地域に 支配的な保護協会 ができます [1] (図 2) 。 国家の無い状態 各人が自分の権利を自分で守る 保護協会 守ってもらうことを買い、協会が 競い合う 支配的な協会 争いを避ける取り決めで、地域に一つに まとまる 極小国家 危ない手続きでの力の行使を禁じ、 監督の下に置く 最小国家 禁じた人には埋め合わせとして保護を 与える より大きな国家 所得を配り直す国家は正当化されない (不正のやり直しは別) 図 2 国家の無い状態から最小国家へ、第 1 部の筋道です。誰も国家をつくろうと計画していない、見えざる手の説明です。段の名と埋め合わせの手順は SEP の説明により [1] 、段の切り方は本教材の整理です。点線の段は、ノージックが正当化されないとした国家です。 この協会は、危ない、あるいは信頼できない手続きで力をふるうことを禁じ、ほかの協会を自分の監督の下に置きます。ノージックはこの段を極小国家と呼びます [1] 。大切なのは、いちばん強いから独占してよい、という理屈ではないことです。禁じた相手には、それで受ける不利益を埋め合わせ、その人たちも守ります。そうしたとき、協会は正当な 最小国家 になります [1] 。誰も国家をつくろうと計画していないのに国家ができるので、ノージックはこれを見えざる手の説明と呼びました(18〜22 頁、118〜119 頁) [1] 。 税の扱いには注意が要ります。ノージックは、働いて得た稼ぎにかける税を、強いられた労働と同じ水準に置きました(169 頁) [1] 。SEP の筆者は、最小国家は保護の費用をまかなうためにも税を課さない、と読みます。ただし本文には紛らわしい言い方もあり(26〜27 頁)、読み方には幅があります [1] 。そのうえで第 2 部は、最小国家より大きな国家は正当化できない、と論じます(序文 xi 頁) [1] 。過去の不正をやり直す場合の留保は、次の節で見ます。 本教材の作例で場面にしてみます。警察も役所も無い島に、警備会社がいくつかあります。客どうしがもめるたびに会社どうしが撃ち合っていては、どの会社も客を失います。そこで会社は、もめごとを裁く共通の取り決めを結びます。やがて大きな会社が、ほかの会社に「危ないやり方で人を罰しないでくれ。その代わり、あなたの客も守る」と申し出ます。誰も国家をつくると決めていないのに、島には一つの守り手ができています。 ここで間違えやすい 題に「アナーキー」とあるので、ノージックを国家は要らないという立場と取る人がいますが、逆です。アナーキーは答えようとした相手の立場で、ノージック自身は最小国家を擁護しました [1] 。この筋道を実際の国家の歴史と取るのも誤りです。描かれたのは、権利を侵さずに国家が生まれうるかを問う仮想の筋道です。SEP は、民主的な大きな国家にも見えざる手の物語は作れるので、なぜ最小国家の物語だけが正当化に強いのかを示す課題が残る、と指摘します(292〜294 頁) [1] 。 持ち物の正しさは来歴で決まる――ウィルト・チェンバレンの例 第 7 章「分配的正義」で、ノージックは持ち物の正しさを来歴で決める、歴史的な 権原理論 を示します。誰のものでもない物を正しく取得したか、正しい移転で受け取ったか、不正があればやり直されたかが問われます。この手続きを経て手元に来た物に、人は権原を持ちます [1] 。 これと対立するのが、いまの配られ方の形で正しさを決める考えです。合計が最大か、平等か、いちばん下の人の取り分はどうか、と形だけを見るのが 結果の状態の原理 です。功績や努力など、人の何かの特徴に沿って配られているかを見るのが、パターンの原理です。ノージックはどちらも退けます [1] (表 1) 。 この表で分かること: 結果の状態の原理は形で、パターンの原理は人の特徴で、権原理論だけが来歴で、持ち物の正しさを決めます。 原理の型 何で正しさを決めるか 例 チェンバレンの後は 結果の状態の原理 いまの配られ方の形 合計最大・平等・いちばん下 形が崩れたので配り直す パターンの原理 人の特徴に沿うか 功績・努力に応じて 沿わなくなれば配り直す 歴史的な権原理論 取得と移転の来歴 作った・譲られた 自由な移転なので正しい 表 1 分配の正しさを決める原理の三つの型。分け方は SEP の説明により [1] 、例と右の列は本教材の整理です。 退ける中心の論が、「自由はパターンを覆す」の項のウィルト・チェンバレンの例です(160〜164 頁) [1] [2] 。読者の好きな原理で、正しい分配 P1 ができたとします。百万人のファンが、それぞれ自分の取り分から 25 セントを払って、名選手チェンバレンの試合を見ます。チェンバレンの手元には 25 万ドルが集まり、分配は P2 に変わります (図 3) 。 シーズンの初め:分配 P1 みんなが正しいと認める形 入口 ファンたち チェンバレン 山の高さはほぼ同じ シーズンの終わり:分配 P2 ? どこに不正が入った? 百万人×25セント 25万ドル ファンたち 選手の箱 チェンバレン 誰も強いられず、だまされていない 図 3 チェンバレンの例の前と後(第 7 章「自由はパターンを覆す」)。百万人・25 セント・25 万ドルの数はノージック本人の例により [1] 、入口と箱と硬貨の山の絵は本教材のものです。 P1 が正しく、移り方にも不正が無いなら、P2 のどこに不正が入りこんだのでしょうか。それまで何の正当な要求も持たなかった第三者が、なぜ取り分を求められるのか、とノージックは問います(161〜162 頁) [1] 。P2 を配り直しても、自由なやりとりがまた形を崩します。望む形を保つには、人のやりとりに絶えず手を入れ続けるほかありません [1] 。 ここで間違えやすい ノージックが、いまある財産の分け方をそのまま正しいと認めた、と取るのは誤りです。盗みや詐欺を経た持ち物は正しくなく、やり直しが求められます [1] 。そのために、短い間はより大きな国家が要るかも