8.157 功利主義 一 — けなし言葉を、そのまま引く — Epoché
この篇でできるようになること ★ 自分の説の定義を一文で置く 書き方が読める。 ★ けなし言葉を、そのまま引く 意味が分かる。 ★ 非難を相手に返す 形が読める。 ★ 自分の側の落ち度も書く 作法が分かる。 前提 : 8.156 まで。型は 3.48 まで。 読む前に ★ この篇は、 自分の説を説明するところ から始まります。 ★ 8.154 読編 の『自由論』は、 相手の言い分 から始まりました。 どんな文章か どこから始めるか ★ 相手を追う文章 ★ 相手の言い分から ★ 自分の説を守る文章 ★ 自分の定義から ★ なぜ違うのか。 ★ 守るときは、 何を守るのかを先に決めないと守れない から です。 ★ もう一つ、この篇には 強いけなし言葉 が出てきます ——★ 「豚にふさわしい教えだ」。 ★ ミルは、 やわらげずにそのまま引いて います。 原文 原文は別の文書にあります(作品ページの「原文」)。本文は 1364 語、文は 32 本、一文の平均は 42.6 語、いちばん長い一文は 161 語です。 ★ 「快」の語が 22 回 出ます。★ この篇の術語 です。 全訳 原文の全訳です。この課程のために、原文に沿って訳しました。番号は原文の段落の番号で、原文と行き来できます。 道徳の土台として「有用性」、すなわち「最大幸福の原理」を受け入れる教えは、行いは幸福を増やす傾きを持つ度合いに応じて正しく、幸福の逆を生む傾きを持つ度合いに応じて誤っている、と説きます。幸福とは、快と、苦の無いことを指します。不幸とは、苦と、快の欠けていることを指します。この理論が打ち立てる道徳の基準をはっきり示すには、さらに多くのことを言わなければなりません。とりわけ、苦と快という考えの中にどんなものが含まれるのか、そしてそれがどこまで未解決の問いのまま残されているのか、ということです。しかし、こうした補いの説明は、この道徳の理論が土台にしている生き方の考えには影響しません。その考えとはつまり、快と、苦から免れていることだけが、目的として望ましいものであること、そして望ましいものはすべて(功利主義の体系でも、ほかのどの体系と同じくらいたくさんあります)、それ自体に備わった快のために望ましいか、快を増やし苦を防ぐための手段として望ましいか、のどちらかである、ということです。 さて、このような生き方の考えは、多くの人の心に、そしてその中には感情と志において最も尊敬すべき人びとの心にも、根深い嫌悪を起こさせます。人生には(その人たちの言い方では)快より高い目的が無い、つまり望み追い求めるもっとよい、もっと気高い対象が無い、と考えることを、その人たちは、まったく卑しく、はいつくばった考えだと呼びます。豚にのみふさわしい教えだと言うのです。エピクロスの弟子たちは、ごく早い時代から、さげすみをこめて豚になぞらえられてきました。そしてこの教えをいま奉じる人びとも、ドイツやフランスやイングランドの攻撃者たちから、ときに同じくらい礼儀正しいたとえの的にされています。 このように攻められたとき、エピクロス派の人びとはいつもこう答えてきました。人間の本性をおとしめて描いているのは自分たちではなく、自分たちを非難する人びとのほうだ、と。その非難は、人間には豚が味わえる快のほかには何の快も味わえない、と前提しているからです。もしこの前提が本当なら、その非難に言い返すことはできません。しかしそうなると、それはもはや非難ではなくなるでしょう。もし快の源が人間と豚とでまったく同じなら、一方にとって十分によい生き方の規則は、もう一方にとっても十分によいはずだからです。エピクロス派の生き方を獣の生き方になぞらえることが屈辱的に感じられるのは、まさに、獣の快が人間の幸福の考えを満たさないからです。人間は動物の欲より高い能力を持っており、いったんそれに気づくと、その能力を満たすことを含まないものは何であれ幸福とは見なしません。もっとも、私は、エピクロス派の人びとが功利の原理から帰結の体系を引き出すにあたって、少しも落ち度が無かったとは決して考えていません。それを十分なやり方で行うには、ストア派の要素も、キリスト教の要素も、たくさん取り入れる必要があります。しかし、知性の快、感情と想像の快、そして道徳的な情の快に、ただの感覚の快よりもはるかに高い価値を、快として与えないようなエピクロス派の生き方の理論は、知られているかぎり一つもありません。とはいえ、功利主義の書き手たちがおおむね、心の快が体の快より上である理由を、主に前者のほうが長続きし、安全で、費用がかからない、などという点に、つまり、その本来の性質よりもむしろ、まわりの事情から来る利点に置いてきたことは、認めなければなりません。そしてこれらの点のすべてで、功利主義者たちは自分たちの主張を十分に証明してきました。しかし彼らは、もう一方の、いわばより高い立場を取ることもできたはずであり、それでも少しも筋が通らなくなることはなかったのです。ある種類の快がほかの種類の快よりも望ましく、値打ちがあるという事実を認めることは、有用性の原理と十分に両立します。ほかのすべてのものを評価するときには量と同じく質も考えられるのに、快の評価だけは量だけにかかっていると考えられるとしたら、ばかげたことでしょう。 もし私が、快における質の違いとは何を意味するのか、あるいは、量が多いということのほかに、ただ快として、ある快をほかの快より値打ちあるものにするのは何なのか、と問われるなら、可能な答えはただ一つしかありません。二つの快のうち、両方を経験したことのある人の全員かほとんど全員が、それを好むべきだという道徳上の義務の感じとは関係なく、はっきりと好むものがあるなら、それがより望ましい快です。もし二つのうちの一方が、両方を十分によく知っている人びとによって、もう一方よりはるかに上に置かれ、それにはより多くの不満が伴うと知りながらもそちらを好み、自分の性質が味わいうるもう一方の快をどれほどたくさん与えられてもそれを手放そうとしないなら、その好まれる楽しみには質の点での優位があると考えてよく、その優位は量をはるかにしのぎ、比べれば量をほとんど取るに足りないものにする、と言ってよいのです。 さて、両方を等しくよく知り、両方を等しく味わいよさの分かる人びとが、自分の高い能力をはたらかせる生き方のほうを、きわめてはっきりと好むことは、疑いようのない事実です。獣の快をこの上なくたっぷり与えると約束されても、何かの下等な動物に変えられることを承知する人間はほとんどいないでしょう。知恵のある人間で愚か者になることを承知する人はいないでしょうし、教養のある人で無知な人になろうとする人も、感情と良心を持つ人で自分本位で卑しい人になろうとする人もいないでしょう。たとえ、愚か者や、まぬけや、ならず者のほうが、自分たちが自分の境遇に満足しているより以上に自分の境遇に満足している、と説き伏せられたとしてもです。その人たちは、自分がその者より多く持っているものを、その者と共通に持っているあらゆる欲望を最も完全に満たしてもらうのと引きかえにしても、手放そうとはしないでしょう。もし手放してもよいと思うことがあるとすれば、それは、そこから逃れるためなら自分の目にはどれほど望ましくない境遇とでもほとんど取りかえるだろう、というほど極端に不幸な場合だけです。より高い能力を持つ者は、幸福になるのに、劣った型の者より多くのものを必要とし、おそらくはより鋭い苦しみを味わいうるし、たしかにより多くの点で苦しみにさらされています。しかし、こうした不利があるにもかかわらず、その者は、自分がより低い段階だと感じる生き方に沈みたいとは、本当には決して望むことができません。この気の進まなさには、好きなように説明を与えてかまいません。それを誇りのせいにしてもよいでしょう。誇りとは、人類が感じうる最も尊敬すべき感情のいくつかにも、最も尊敬に値しない感情のいくつかにも、区別なく与えられる名前です。それを自由と個人の独立への愛に帰してもよいでしょう。ストア派の人びとにとって、それに訴えることは、この気の進まなさを教え込むための最も有効な手立ての一つでした。力への愛や刺激への愛に帰してもよいでしょう。どちらも本当にその中に入り込み、それに力を貸しています。しかし、それに最もふさわしい名前は、尊厳の感覚です。それはすべての人間が何らかの形で持っているもので、ある人びとにおいては、決してぴったりとではないにしても、その高い能力に比例して持たれています。そしてそれは、それが強い人びとの幸福にとってきわめて欠かせない部分なので、それとぶつかるものは何であれ、束の間を除いては、その人たちにとって望みの対象にはなりえないのです。この好みが幸福を犠牲にして生じる、つまり、優れた者は、ほぼ同じ条件のもとでは劣った者より幸福ではない、と考える人は、幸福と満足という、二つのまったく異なる考えを混同しています。楽しむ力の低い者が、その力を十分に満たしてもらえる見込みが最も大きいことは、議論の余地がありません。そして高い資質に恵まれた者は、世の中がいまのように作られているかぎり、自分が望みうるどんな幸福も不完全だと、いつも感じるでしょう。しかしその者は、その不完全さが少しでも耐えられるものであれば、それに耐えることを学べます。そしてその不完全さのために、不完全さに気づかない者をうらやむことはないでしょう。その者が不完全さに気づかないのは、ただ、その不完全さが損なっている善をまったく感じていないからにすぎないのです。満足した豚であるより、不満足な人間であるほうがよい。満足した愚か者であるより、不満足なソクラテスであるほうがよいのです。そして、もし愚か者や豚が違う意見を持っているとしても、それは彼らが問題の自分の側しか知らないからです。比べられているもう一方の側は、両方の側を知っています。 語釈 帯の外の語は 91 語です。★ swine (豚)・ grovelling (はいつくばった)・ privation (欠けていること)が要 です。★ Epicurus と Epicureans は、 快を善とした古代ギリシアの学派 です。 語(品詞) 意味 注 Christian en 形 キリスト教の The old missionary devoted his whole life to spreading Christian teachings abroad. 老宣教師は生涯をキリスト教の教えを海外に広めることに捧げました。 English en 名 英語。また、イングランドの(人・もの) She has studied English every day since she moved to London. 彼女はロンドンに引っ越してから毎日英語を勉強しています。 Epicurean en 形 エピクロス派の Many scholars studied the Epicurean philosophy that valued calm and simple pleasures. 多くの学者は穏やかで質素な快楽を重んじるエピクロス派の哲学を研究しました。 Epicureans en 名 エピクロス派の人びと The Epicureans believed that a quiet and modest life brought the greatest happiness. エピクロス派の人びとは、静かで慎ましい生活こそ最大の幸福をもたらすと信じました。 Epicurus en 名 エピクロス French en 形 フランス系の Her grandmother came from a French family that settled in Quebec long ago. 彼女の祖母は、昔ケベックに移り住んだフランス系の家族の出身です。 German en 形 ドイツの The music teacher admired the German composer's careful and elegant style of writing. 音楽教師はそのドイツの作曲家の、緻密で優雅な作風を高く評価していました。 Socrates en 名 ソクラテス Stoic en 形 ストア派の The general followed a Stoic creed that taught calm endurance of every hardship. その将軍は、あらゆる苦難を平静に耐え忍ぶことを説くストア派の信条に従っていました。 Stoics en 名 ストア派の人びと The Stoics taught that a person should remain calm under pain and misfortune. ストア派の人びとは、苦痛や不運のもとでも人は平静を保つべきだと説きました。 absurd en 形 ばかげた It seemed absurd to argue for hours over such a small and trivial matter. そんな些細でつまらないことで何時間も言い争うのはばかげたことに思えました。 accessible en 形 近づける・手が届く The mountain village remained accessible only by a narrow path through the forest. その山村は、森を抜ける細い道を通ってしか近づけない場所のままでした。 accusation en 名 訴え The clerk read the accusation aloud before the whole court fell silent. 書記官がその訴えを読み上げると、法廷全体が静まり返りました。 accusers en 名 訴える人びと The accusers stood before the judge and repeated their charge with confidence. 訴える人びとは裁判官の前に立ち、自信を持って自分たちの主張を繰り返しました。 acquainted en 形 〜をよく知っている( be