プラトン――真に知られるのは変わらないイデアである(イデア論・洞窟の比喩) — Epoché
古代 ソクラテスとプラトン 約 23 分 本文 約 10,200 字 図 4・表 2 原典 1 節 この課の要点 理由・関係・転回の 3 つ 理由 『パイドン』の作中のソクラテスは、同じ木や石が、ある見方では等しく、別の見方では等しくないと見えるのに、「等しさそのもの」は決して等しくないとは見えないと言う(74b–c)。だから等しさそのものは見える等しい物とは別のもので、私たちはそれを想い起こしているのだ、と論じる。 関係 『パイドン』は、美しいものは美そのものにあずかることで美しい、と説明する(分有、100c)。『国家』第 5 巻の作中のソクラテスは、知は「完全にあるもの」に、思わくは「あり、かつあらぬもの」に向かうと言う(477a–478e)。これを見える世界と知られる世界を分ける説(二世界説)と読むか、真偽の区別と読むかで、研究者の解釈は分かれる。 転回 『国家』第 7 巻の洞窟の比喩で、縛られて壁の影だけを見てきた囚人は、解かれて火と人形を見、外へ引き出されて、外の影、水に映る像、物そのもの、夜の星と月、最後に太陽を見る(514a–516b)。作中のソクラテスは、教育とは魂に知を入れることではなく、魂全体の向きを変えることだと言う(518b–d)。 はじめに プラトンは、前 5 世紀後半のアテナイに生まれ、前 4 世紀半ばに亡くなった哲学者です。生年を前 428/427 年ごろとするのは伝統的な概数で、古い伝えには異同があります。若いころソクラテスに親しみ、師の刑死の後、アテナイ郊外に学園アカデメイアを開いたと伝えられます。作品は三十を超える対話篇として伝わり、その多くでソクラテスが主な話し手を務めます [2] 。 読む前に一つ注意しておきます。プラトン自身は、対話篇の中で自分の声では語りません [2] 。この課で読むイデアの議論も、『パイドン』や『国家』の中で、作中のソクラテスが友人や若者に語る言葉として書かれています。それをどこまでプラトン本人の説と見てよいかは、解釈の問題として残ります。そこでこの課では、そのつど「作中のソクラテス」と話し手を書き分けます。 この編のソクラテスの課で見たように、ソクラテスは「勇気とは何か」と問い、答えを得ないまま対話を終えることがよくありました。この課の対話篇では、同じソクラテスという話し手が、その「何か」にあたるものを、見える物とは別にある「〜そのもの」として正面から論じ始めます。問う人から、答えの在りかを語る人へと変わるのです。 読む順は三つです。まず『パイドン』の等しい棒の議論で、なぜ「〜そのもの」を立てるのかを見ます。次に、見える物とそれとの関係、そして知と思わくの区別を見ます。最後に『国家』の洞窟の比喩で、それを知るようになるとは人の中の何が変わることなのかを読みます。 この課の問い 目に見える物はどれも、見る位置や比べる相手によって、大きくも小さくも、等しくも等しくなくも見えます。それなら、私たちが「等しい」「美しい」「正しい」と言うとき、本当に知っているのは何なのでしょうか。そして、それを知るようになるとは、人の中で何が変わることなのでしょうか。 この課のことば イデア(エイドス) ギリシア語で「姿・形」。プラトンの対話篇では、美しいもの・等しいものが多くある中で、それらとは別にある「美そのもの」「等しさそのもの」を指します。英語では Form と訳されることが多く、心の中の「観念」とは別物です。 〜そのもの ギリシア語では「美そのもの」のように語に「アウト(それ自体)」を添えて言い、「それ自体でそれ自体として」(アウト・カタウト)とも言い表されます。ほかの何かに頼らず、それがまさにそれであるもの。作中のソクラテスがイデアを言い表す決まった言い方です。 分有 感覚される物がイデアに「あずかる」こと。『パイドン』は、美しいものが美しいのは美そのものにあずかるからだ、と説明します。SEP の筆者は、これをヘレネの美しさを例に説明しています。 離在 イデアが、それにあずかる個々の物から離れて、それ自体としてあること。どういう意味で「離れて」いるのかは、研究者の間で議論があります。 思わく(ドクサ) 「そう見える・そう思う」こと。当たることも外れることもある考えです。『国家』は、これを確かな知(エピステーメー)と区別します。 善のイデア 『国家』で、太陽が見える物に光を与えるように、知られるものに真理を与え、知る者に知る力を与えるとされるもの。作中のソクラテスは、これを直接には語らず、たとえで語ります。 イデア論――変わる物の向こうに、変わらないものを立てる 前の課のソクラテスは、相手の答えを問いで崩しながら、自分も答えを持たないと言いました。この章では、プラトンの対話篇の中の同じソクラテスが、その答えの在りかを語り始めます。三つの節で、なぜそれを立てるのか、見える物とどう結びつくのか、それを知るとは何が変わることなのかを順に見ます。 等しい棒と等しさそのもの――なぜイデアを立てるのか 『パイドン』は、刑死の日のソクラテスが牢で友人たちと魂の不死を論じる場面を、その場にいたパイドンが後で語る形の対話篇です。パイドンは、プラトンはその日病気だったと思う、と語ります(59b) [3] 。つまり、この課のイデアの議論は、作中では著者が居合わせなかったとされる場面の、登場人物の言葉として書かれています。 作中のソクラテスはまず、正しさそのもの、美そのもの、善そのものが「ある」ことを相手に認めさせます。そのうえで、それを目やほかの感覚で捉えたことがあるかと問い、相手はないと答えます(65d) [3] 。SEP の筆者は、ここを対話篇でイデアが導入されると広く認められる最初の箇所とします。イデアは「それ自体でそれ自体として」あるもの、つまりほかに頼らずそれであるものとして示される、という説明です [1] 。 見える等しいもの 等しい 等しくない 見方で等しくも等しくなくも見える (本教材の作例) 等しさそのもの 決して揺れない 等しくないとは見えない 記号は図示のための印 図 1 等しい棒と等しさそのもの(本教材の作例の絵)。一つ目の絵では、同じ棒が見る人や見方によって等しくも等しくなくも見え、拡大すれば端も定まりません。二つ目の絵の吹き出しの記号は、等しさそのものを図示するための印で、イデアが心の中の像だという意味ではありません。『パイドン』74a–d の論点を説明する作例で、原典の場面を再現したものではありません。 次に作中のソクラテスは、等しい木や石と、 等しさそのもの を比べます(74a–c) [3] (図 1) 。見える等しい木や石は、ある見方では等しく、別の見方では等しくないと見えることがあります。原文のこの句が、見る人によってか、比べる相手によってか、ある点ではということかは、読み方が分かれます。ただ、どの読みを採っても、等しさそのものが等しくないと見えることは決してない、という対比は変わりません。だから両者は同じではない、と作中のソクラテスは言います。 本教材の作例で考えてみます。同じ長さに切ったつもりの割り箸が 2 本あるとします。並べると等しく見えますが、定規を当てると片方が 0.5 ミリ長い。拡大すれば切り口はぎざぎざで、どこまでが長さなのかさえ決まりません。それでも私たちは、この 2 本が「完全には等しくない」と迷わず言えます。そう言えるのは、どこにも見たことのない「ぴったり等しい」が何であるかを、すでに知っているからではないか。作中のソクラテスが問うのは、この「知っている」の出どころです。 議論は、私たちが見える物を見て「等しさそのものに及ばない」と気づけるのは、比べる相手をすでに知っているからだ、と進みます(74d–75a)。そして、それを生まれる前に知っていて、いま想い起こしているのだと論じます。これが 想起説 です(72e–77a) [3] 。SEP の筆者は、この論証で示されたのは、イデアと見える物が同じではないことまでだと評します。イデアの知が感覚から得られないことまでは示されていない、というのです [1] 。実際、作中でも、見える物を見ることは想起のきっかけとして要るとされています。 なぜプラトンはこうした議論に向かったのか。後にアリストテレスは次のように伝えます。プラトンは若いころヘラクレイトス派のクラテュロスから、感覚される物は絶えず流れて変わるので知の対象にならない、という考えを学んだ。他方でソクラテスが倫理の事柄で定義を探したのを受けて、定義の向かう先として、感覚される物とは別のものを立てた(『形而上学』A 巻 6 章 987a32–b10) [5] 。これは本人の言葉ではなく、後の人の証言として読みます。 ここで間違えやすい 二つの誤解に気をつけましょう。一つは、イデアを心の中にある考えや観念(英語の idea)と取ることです。作中のソクラテスにとって、等しさそのものは、心が作り出すものではなく、心が想い起こし、知る相手として語られています。もう一つは、この論証でイデアがあることの証明が済んだと思うことです。SEP の筆者が評するとおり、示されたのは、イデアと見える物が同じではないことまでです [1] 。 あずかることと離れてあること――知と思わくの二つの向かう先 『パイドン』の作中のソクラテスは、後の箇所で一つの仮説を立てます。美そのもののほかに何か美しいものがあるなら、それは美そのものに あずかる (分有する)から美しいのであって、それ以外の理由はない、というものです(100c) [3] 。原典は美しいもの一般について述べ、特定の人物を挙げてはいません。SEP の筆者は、これを説明するのにヘレネを例に取ります。美しいヘレネは美そのものにあずかって美しく、美そのものはほかの何かにあずかるのでなく、ただ美しい、という説明です [1] 。 では、イデアはそれにあずかる物から「離れて」あるのでしょうか。SEP の筆者は、この 離在 をまず、美の定義(本質)がイデアには言えても個々の物には言えない、という意味で読みます。そのうえで、存在としても離れていると見るのがもっともらしい、と論じます [1] 。これは筆者の一つの解釈です。アリストテレスは、ソクラテスは普遍や定義を個々の物から離さなかったが、後の人々がそれを離した、と伝えています(『形而上学』M 巻 4 章 1078b) [5] 。 『国家』第 5 巻では、この区別が知る側の話になります。対話の相手グラウコンが、祭のたびに合唱や劇を見て回る人々を挙げます(475d)。作中のソクラテスはそれを受けて、美しい声や色や形を楽しむ「見物好き」と、美そのものを認めて見る人とを区別します(475e–476b) [3] 。そして、美そのものを見る人を「目覚めている」人に、似ているものをそれが似せているものそのものと取り違える人を「夢を見ている」人にたとえます(476c–d) [3] 。 続けて作中のソクラテスは、能力(デュナミス)は向かう先と働きの違いで区別されると言います。知は誤らず、思わくは誤りうる。だから知と思わくは別の能力で、向かう先も違う。完全にあるものには知が、まったくあらぬものには無知が、その中間の「あり、かつあらぬもの」には思わくが向かう、という論です(477a–478e) [3] 。 『国家』477a–478e 知は完全にあるものに、 思わくは、あり、かつあらぬ ものに向かう 述語として読む イデアには知だけ、 見える物には 思わくだけ (二世界説) 真偽として読む 同じ物やイデアにも 知と思わくを持てる (ファインほか) 図 2 『国家』第 5 巻の「ある」の二つの読み(本教材の整理)。左は述語として読む道、右は真偽として読む道です。どちらも同じ箇所から出る研究上の読みで、原典が選択肢として示しているわけではありません。 この「ある」の読み方で、解釈は分かれます (図 2) 。「〜である」という述語として読むと、「完全にある」は「完全に美しい」、つまりイデアで、「あり、かつあらぬ」は「美しくもあり美しくなくもある」見える物になります。すると、見える物には思わくしか、イデアには知しか持てないことになります。この読みは、見える物の世界と知られるイデアの世界を分ける 二世界説 を支えます [1] 。SEP の筆者は、これでは『国家』第 1 巻の人々が正義について誤った考えを持つことも説明しにくい、という難点を挙げます [1] 。 他方、ファインらは「ある」を「真である」と読みます [4] 。知は真であることの全体に、思わくは真偽を問わず考えの全体に向かう。すると同じ物やイデアについて、知も思わくも持てることになり、二世界説は退けられます [1] 。SEP の筆者は「存在する」と読む第三の読みも挙げますが、支持は少ないとしています [1] 。本教材は、述語と真偽のどちらにも決めません。二つの読みが同じ箇所から出てくることを押さえておきます。 ここで間違えやすい 「二世界説」を、プラトンが自分の言葉で唱えた説と思うのは誤りです。これは研究者が『国家』第 5 巻などから組み立てた読み方の名で、退ける研究者もいます。SEP の筆者も、イデア論は対話篇のどこにもまとまって書かれておらず、研究者による「合理的な再構成」だと断っています [1] 。また、見える物にまったく価値が無いと説いたと取るのも行き過ぎです。見える物は、イデアにあずかる限りで美しく、等しいのです。 洞窟の比喩――影から光へ、魂の向きを変える 『国家』第 7 巻の洞窟の比喩は、第 6 巻の二つのたとえを受けて語られます。一つ目は 太陽の比喩 です(507b–509b) [3] 。太陽は見える物に光を与え、目に見る力を働かせます。それに対応して、善のイデアは知られるものに真理を与え、知る者に知る力を与える、と作中のソクラテスは言います(508e)。善は「あること」を位と力で超えている、とも言われます(509b)。これは善が存在しないという意味ではありません。 二つ目は 線分の比喩 です(509d–511e) [3] 。見える領域と知られる領域を、さらに二つずつに分けます。下から、影や映像、見える物、数学のように仮説から出発して考える対象、仮説を越えてイデアそのものを通して進む対象で