ロック――心は生まれつき白紙である(経験論・抵抗権) — Epoché
近代 イギリス経験論 約 27 分 本文 約 11,300 字 図 5・表 3 原典 2 節 この課の要点 経験・所有・信託の 3 つ 経験 生まれたときの心を、何も書かれていない白い紙のようなものと仮に置き、観念はすべて経験から来る、とロックは答える。外の物を知る感覚と、自分の心の働きを知る反省の二つが、知識の泉である(『人間知性論』第 2 巻第 1 章 2 節)。 所有 人は自分の身体と労働を自分のものとして持ち、共有の物に労働を混ぜれば、それはその人のものになる。ただし、腐らせずに使える分まで、また他の人にも十分で同じくらい良いものが残る限りで、という制限が付く(『統治二論』後篇 第 5 章)。 信託 人々は同意で社会をつくり、法をつくる力を政府に預ける。立法者が人々の生命・自由・資産を奪おうとすれば、それは信託の裏切りで、人々は服従を解かれ、権力は人々に戻る(後篇 第 19 章 222 節)。 はじめに 前の課のホッブズは、政府のない状態を、万人の万人に対する戦いとして描きました。この課のロックも、政府のない状態から政治を考え始めますが、描く姿は大きく違います。ロックにはもう一つ、知識がどこから来るのかを調べる大きな仕事がありました。 ロックは名誉革命の後の 1689 年 2 月にオランダから帰国し、続けて二つの本を出します [1] 。一つは『人間知性論』で、人の知性に何が分かり、何が分からないかを、知識の材料である観念の出どころから調べます。もう一つは匿名で出した『統治二論』で、人々が政府をつくる目的と、政府がその目的を裏切ったときに人々に何が許されるかを論じます [1] 。 二つの本には、問わずに受け入れる原理や生まれつきの権威に寄りかからず、経験と人々の同意から考え直す、という共通の構えがあります(本教材の読み方)。 第 1 章では、心は生まれつき白紙だという経験論の骨組みを、第 2 章では、自然状態・所有・信託・抵抗という政治の議論を読みます。 この課の問い 私たちの知識はそもそもどこから来るのでしょうか。生まれたときの心には、何か書きこまれているのでしょうか。そして人々は何のために政府をつくり、政府がその目的を裏切ったら、人々は何をしてよいのでしょうか。 この課のことば 観念(アイディア) 人が考えるとき、知性が向かっている相手すべてを指すロックの用語です。いま見えている赤い色も、思い出した友人の顔も、「正義」という考えも観念です [1] 。 生得観念 生まれたときから心に刻まれていて、魂がこの世に持って来る、とされた観念や原理です。ロックはこれを『人間知性論』第 1 巻で退けます [1] 。 感覚と反省 観念の二つの源です。感覚は、目や耳などを通して外の物から観念を受け取ることです。反省は、考える・疑う・欲するといった自分の心の働きに気づくことで、いわば内側の感覚です [2] 。 一次性質と二次性質 一次性質は、固さ・広がり・形・動き・数のように、物そのものが持つ性質です。二次性質は色・味・音・熱さなどで、物の一次性質が私たちの感覚に働いて観念を生む力です [1] 。 自然状態 人々が共通の政治の権威を取り決めていない状態です。ロックでは、人々は平等で自由ですが、何をしてもよいわけではありません [1] 。 信託 ある目的のために、力を人に預けることです。ロックは、立法の権力は人々の所有を守るために預けられたもので、その目的を裏切れば失われる、とします [3] 。 観念と経験――知識の材料はどこから来るのか ロックは『人間知性論』の「読者への手紙」で、この本の始まりを語っています。五、六人の友人と自室で話し合ううち、どの方向にも難題が出て行き詰まりました。そこで、まず自分たちの知性が何を扱えて何を扱えないかを調べねばならない、と思いついたというのです [1] 。この章では、生まれつきの原理の否定、白い紙と二つの源、一次性質と二次性質を順に読みます。 生まれつきの原理はない――子どもも知らない「真理」 ロックが最初に片づけるのは、生得の原理の説です。生まれた最初から魂が受け取り、この世に持って来る、心に押された刻印のような原理がある、という考えです。ロックは、理論の原理も、道徳の原理も、神や同一性の観念も、生まれつきではないと論じます(『人間知性論』第 1 巻) [1] 。 例に取られるのは、「あるものはある」「同じものが、あってかつないことはありえない」のような、誰もが認めそうな原理です。皆が同意するのだから生まれつきだ、という議論に対し、ロックは、そもそも皆が同意する原理などない、と答えます。子どもや知的な障害のある人は、こうした原理を少しも思い浮かべていないからです [1] 。 ロックの考えでは、心に刻むとは、ある真理を心に知覚させることにほかなりません。だから、心が少しも知覚していない真理が心に刻まれている、と言うのは、ほとんど矛盾です [1] 。では、条件がそろえば知られるように心にある、と言い直したらどうでしょう。それなら、心がいつか知りうる真理はすべて生まれつきになります。「生まれつき」という言葉が、何も区別しなくなってしまうのです [1] 。 なぜロックは、これほど熱心に攻めるのでしょうか。ロックは、この説が怠け者から探す苦労を省き、教師面をする人々が弟子の心を支配する道具になる、と述べます。SEP は、ここに大学のスコラ学への批判と、自由な探究の擁護を読み取ります。またロックは、自分の本質を考えることに置いたデカルトの説も、生得観念の説につながると見ています(第 2 巻第 1 章 9 節) [1] 。 本教材の作例で考えてみましょう。三歳の子に「同じものが、あって同時にないことはありえないよね」と尋ねても、きょとんとするだけでしょう。その子は、おもちゃを取られれば怒り、お菓子が減れば気づきます。けれども、その原理をことばで考えたことはありません。心に生まれつき刻まれているなら、なぜこの子はそれを知らないのでしょうか。これがロックの問いです。 ここで間違えやすい ロックが、人は生まれたとき何の力も持たない、と考えたと取るのは誤りです。白紙なのは観念という中身のことで、受け取る力や、比べ・組み合わせ・抽象する力は生まれつき備わっている、とロックは考えています [1] 。また、ロックの相手は誰も唱えない藁人形だ、という批判も当たりません。ヨルトンの研究によれば、生得の原理が宗教・道徳・自然法の安定に要るという考えは、17 世紀のイングランドに広く行きわたっていました [1] 。 白い紙と二つの源――感覚と反省 退ける議論の後で、ロックは自分の答えを示します。心を何の文字も書かれていない白い紙と仮定したら、それはどうして観念を備えるのか、と問い、一言で答えれば経験からだ、と言うのです(第 2 巻第 1 章 2 節) [2] (図 1) 。この一節は、原典を読むの章で訳して読みます。後の時代には、このたとえが「タブラ・ラサ(何も書かれていない書板)」とも呼ばれます [1] 。 生まれたときの心は白い紙 青りんご 黄・堅い・甘い 鐘の音 考える・疑う・欲する 余白はまだ白いまま × 生まれつきの原理 感覚:外の物から(3 節) 反省:心の働きに気づく(4 節) 白い紙は本人のたとえ・絵は本教材 図 1 『人間知性論』第 2 巻第 1 章の白い紙のたとえを絵にしたものです(本教材の絵)。実線の矢印は外の物から来る感覚、点線の矢印は心の働きに気づく反省です。紙の右側の余白は、まだ経験が書きこんでいない所です。 経験には二つの道があります。一つは感覚です。目・耳・舌などが外の物に触れて、黄・白・熱い・冷たい・柔らかい・堅い・苦い・甘いといった観念を心に運びます(同 3 節) [2] 。もう一つは反省です。心は、自分が知覚し、考え、疑い、信じ、推論し、知り、欲する働きにも気づきます。外の物とは関わりませんが、感覚によく似ているので、内なる感覚と呼んでよい、とロックは言います(同 4 節) [2] 。 こうして得た一つ一つの観念、たとえば白さや冷たさは、単純観念と呼ばれます。心は単純観念を受け取るときは受け身で、経験していない単純観念を自分で作ることはできません [1] 。ロックの例では、大人になるまで黒と白しか見なかった子どもは、緋色や緑の観念を持たないでしょう。カキやパイナップルを味わったことのない人が、その独特の味の観念を持たないのと同じです(同 6 節) [2] 。 ただし、心はただ受け取るだけではありません。蓄えた単純観念を組み合わせて複合観念を作り、二つを並べて関係の観念を作り、一つ一つの事情を取り除いて一般の観念を作ります(第 2 巻) [1] 。こうして心は、一角獣のように見たことのないものの観念も持てます。それでも、材料はすべて感覚と反省から来ています。 ここで間違えやすい 経験論を、見聞きしたものの写ししか心には無い、という説だと取るのは誤りです。ロックの経験には、自分の心の働きを知る反省が入っています。心は単純観念を比べ、組み合わせ、抽象して、新しい複合観念を作ります [1] 。言われているのは、その材料の出どころが経験の外にはない、ということです。 一次性質と二次性質――物の性質と、私たちに起こる観念 では、感覚が運ぶ観念は、外の物とどう関わるのでしょうか。ロックは、すべてを動く物質とぶつかり合いで説明する機械論と、師ボイルの粒子説に立ちます。物は目に見えない粒からなり、粒は広がり、固く、形を持ち、動くか止まっています [1] 。 ここからロックは、物の性質を二つに分けます (表 1) 。固さ・広がり・形・動きと静止・数は、物がどんな状態にあっても物から引き離せない一次性質です。色・音・味・匂い・熱さは、物そのものの中では、一次性質によって私たちに観念を生む力にすぎない二次性質です。一次性質の観念は物に似ていますが、二次性質の観念は物に似ていません(第 2 巻第 8 章) [1] [2] 。この区別はギリシアの原子論者にさかのぼり、ガリレオやデカルト、ボイルも唱えました。一次・二次という呼び方はボイルの用語です [1] 。 この表で分かること: 一次性質の観念は物そのものに似ていますが、二次性質の観念は、物の一次性質が感覚に働いて生むだけで、物に似ていません。 性質 例 物の中にあるもの 観念との関わり 一次性質 固さ・広がり・形・動き・数 その性質そのもの 観念は物に似ている 二次性質 色・音・味・匂い・熱さ 観念を生む力(粒の形と動き) 観念は物に似ていない 第三の性質 火が蝋を溶かす力 他の物体を変える力 変えた物の、感覚への働きも変わる 表 1 ロックの三種の性質(『人間知性論』第 2 巻第 8 章)。整理は SEP によります [1] [2] 。 ロックの挙げる例を見ましょう。雪の玉は、私たちに白さ・冷たさ・丸さの観念を生みます(同章) [2] 。丸さの観念は玉の丸さに似ていますが、白さや冷たさの観念は、雪の粒の大きさや動きに似ていません。また、片方の手を熱くし、もう片方を冷たくしてから、両手を同じぬるま湯に入れると、同じ水が一方の手には冷たく、他方には熱く感じられます(同章) [2] (図 2) 。熱さが水そのものの中にあるなら、同じ水が同時に熱くて冷たいことになってしまいます。形なら、こうはなりません。 前:二つの鉢に片手ずつ 熱い湯 冷たい水 しばらくつけて、手を温め・冷やす 後:両手を同じぬるま湯へ 冷たい! 熱い! 同じ一つの水 鉢はどちらの手でも丸い 図 2 『人間知性論』第 2 巻第 8 章の両手とぬるま湯の例を絵にしたものです(本教材の絵)。一つ目では、片方の手を熱い湯に、もう片方を冷たい水につけています。二つ目では、両手を同じ一つのぬるま湯に入れると、熱い湯にいた手は冷たく、冷たい水にいた手は熱く感じます。どちらの手で触れても、鉢の丸さは変わりません。 なお、ロックは物体の本質を広がりだけに置くデカルトの定義を退け、物体は固い、つまり入りこめないものだとします(第 2 巻第 4 章) [1] [2] 。これで、物体と、物体が動く空っぽの空間とが分けられます。どの性質をどちらに入れるか、私たちは観念だけを見て物そのものは見ていないのか(知覚のヴェールの問題)などは、今も論争が続いています [1] 。 ここで間違えやすい 二次性質は気のせいで、物には色も味も無い、とロックが言ったと取るのは誤りです。ロックは二次性質を、物の一次性質がもつ「観念を生む力」として、物の側に置いています [1] 。また、二次性質の観念も、それを生む力に規則正しく対応するので実在の観念だ、とします(初版では第 2 巻第 29 章、後の版では第 30 章) [2] 。言われているのは、色の観念が物の中の何かに「似ていない」ということです。 自然権と政府――人は何のために政府をつくり、いつ抵抗してよいのか 『統治二論』は 1689 年に匿名で出ました。序文は名誉革命の後に書かれたので、革命を正当化する本に見えました。けれども今では、本文は排除法案の危機のさなか(1681 年ごろ)に書かれた、と考えられています [1] 。前篇は、王の権力は神がアダムに与えた父の権力から来る、というフィルマーの王権神授説を批判します。後篇は、政府の正しい役割を自ら示します [1] 。この章では後篇から、自然状態と自然法、労働による所有、同意・信託・抵抗を順に読みます。 自然状態と自然法――自由ではあるが、勝手気ままではない ロックもホッブズと同じく、政府のない状態から考え始めます。自然状態とは、人々が共通の政治の権威を取り決めていない状態です。そこには生まれつきの上下はなく、皆が平等で、自分の身と持ち物を思うとおりに扱う自由を持ちます [1] 。 ただし、自由は勝手気ままとは違います。自然状態にも皆を縛る自然法があり、その法である理性は、皆が平等で独立なのだから、誰も他人の生命・健康・自由・持ち物を害してはならない、と教えます(後篇 第 2 章) [1] 。人は皆、神の作品であり神のものなので、互いを滅ぼすことは許されません。生き延びるという目的に要る生命・自由・健康・所有への権利が、政府より前からある自然権です [1] 。 自然状態には警察も裁判官もいませ