14.74 生産の法則と、分配の制度 — 争われている語を、自分で定義し直す — Epoché
この篇でできるようになること ★ 二つを切り分けてから論を始める 書き方が読める。 ★ 争われている語を自分で定義し直す やり方が分かる( 9.14 論編 )。 ★ suppose ・ were で作る 仮に置いてから比べる 運びが追える。 ★ 結論を保留して閉じる 書き方が見える。 前提 : 特別編に門はありません。第 5 期まで済んでいれば、どこからでも読めます(目安は 3.40 まで/4.60 まで)。 読む前に ★ 特別編は 順番に読む必要がありません 。★ 1 篇が 1 作品 で、★ どの篇から始めてもかまいません。 ★ ミル(一八〇六〜一八七三)は、 ベンサムの功利主義を受け継いだ三代目 です( 12.18 知編 )。★ 『経済学原理』は 五篇からなる大きな本 で、★ この篇で読むのは 第 2 篇の第 1 章 です。 ★ 読む前に、二つ確かめてください。 どちらのことか 確かめること ★ 学問のこと ★ 効用がどこで行き詰まったか( 12.18 知編 ) ★ 論のこと ★ 争われている語の使い方( 9.14 論編 ) ★ 同じ本の 別の篇 は、もう課になっています。 どこか 何を読むか 8.188 読編 ★ ミル『原理』 第 4 篇 。停止状態(読編) 11.23 商編 ★ 財務の英語。同じ本から句を抜いた課(商編) 14.72 英語の名文 ★ マルサス『人口論』。この章が名を出して反論する相手 ★ 8.188 読編 は 「成長はいつか止まる」 、★ この篇は 「では、そこで何をどう分けるのか」 です。★ 同じ本の 別の篇 です。 ★ 同じ人の 別の本 も課になっています。 どこか 何を読むか 8.154 読編 ・ 8.155 読編 ・ 8.156 読編 ★ 『自由論』(一八五九年)。 反対する一人を黙らせない という論(読編) 8.157 読編 ・ 8.158 読編 ★ 『功利主義』(一八六三年)。 けなし言葉をそのまま引いて返す 書き方(読編) ★ そちらの二冊は 人をどう扱うか 、★ この篇は 物をどう分けるか です。★ どちらも この本(一八四八年)のあとに書かれた ——★ 順に読めば、 同じ人の考えが動いていく のが見えます。 原文 原文は別の文書にあります(作品ページの「原文」)。本文は 1795 語、段落は 11 に分かれ、文は 58 本、一文の平均は 31.0 語、いちばん長い一文は 74 語です。 ★ 数えて気づくところが一つ あります——★ 数字が ぜんぶで 5 個 しかありません 。★ 14.73 英語の名文 (リカード)は四つの数で章を組み立てて いましたが、★ この章は 数をまったく使わずに 論じ ます。★ 扱っているのが 制度だから です。 ★ 代わりに、 同じ語が何度も出て きます ——★ property が 22 回、 institution が 10 回 です。 全訳 原文の全訳です。この課程のために、原文に沿って訳しました。番号は原文の段落の番号で、原文と行き来できます。 富の生産の法則と条件は、物理の真理の性格を帯びています。そこには、選べるものも恣意的なものも何一つありません。富の分配はそうではありません。そちらは、ただ人の制度の問題です。物がいったんそこにあれば、人類は、個人としてであれ集団としてであれ、それを好きなように扱うことができます。好きな人の自由に、好きな条件で任せることができるのです。富の分配は、社会の法と慣習によって決まります。それを決める規則は、共同体の支配する部分の意見と感情がそうさせるとおりのものであり、時代と国によって大きく異なります。そして、もし人類がそう選ぶなら、さらに違ったものにもなりうるでしょう。ここで私たちが考えなければならないのは、富を分配するときの規則の原因ではなく、その結果です。少なくともその結果は、生産の法則と同じくらい恣意的なところが少なく、同じくらい物理の法則の性格を持っています。 では、土地と労働の生産物を分配するさまざまなやり方、すなわち実際に採られてきた、あるいは理論の上で考えうるやり方の考察に進みましょう。そのうち、まず私たちの注意を引くのは、あの第一の、根本の制度です。社会の経済の仕組みは、ごく限られた例外の場合を除けば、つねにこの制度の上に成り立ってきました。もっとも、その副次的な特徴においては変わってきましたし、これからも変わりうるのですが。言うまでもなく、それは個人の所有という制度のことです。 私有財産は、制度として、いったん確立されたあとにそれを保つべき理由として挙げられる有用性の考慮の、どれかに起源を負っているわけではありません。未開の時代については、歴史からも、また私たち自身の時代にある似た社会の状態からも、十分なことが知られています。それによれば、法廷(これはつねに法律に先立ちます)は、もともと権利を決めるためではなく、暴力を抑え、争いを終わらせるために設けられたのです。主にこの目的を念頭に置いていたので、法廷は、ごく自然に、最初の占有に法の効力を与えました。他人を占有から追い出す、あるいは追い出そうとすることによって、最初に暴力をふるい始めた者を、攻撃した側として扱ったのです。 所有の制度を社会哲学の問題として考えるには、ヨーロッパのいまある国々のどれかにおける実際の起源は、考慮の外に置かなければなりません。それまでの占有にまったく縛られない共同体を想定してもよいでしょう。たとえば、人の住んでいない土地をはじめて占める入植者の一団です。(1)もし私有財産が採られたなら、古い社会でこの原理のよいはたらきを妨げている、はじめからの不平等や不正は、何一つ伴わないと考えなければなりません。成人の男も女もみな、自分の体と心の能力を、何の束縛もなく使い、扱うことを保証されると考えなければなりません。そして生産の道具、すなわち土地と道具は、彼らのあいだで公平に分けられ、外の手段については、だれもが等しい条件で出発できるとしなければなりません。また、この最初の割り当てにおいて、自然から受けた不利に対して埋め合わせがなされ、共同体のうち体の弱い者に分配の上での利点を与え、ほかの者と肩を並べるのに十分なだけにすることで、釣り合いが直されることも考えられます。しかし、いったん分けたら、それに二度と手は加えられません。個人は、自分の努力と、割り当てられたものを有利に使うためのふつうの運に任されることになります。(2)反対に、もし個人の所有が退けられたなら、採るべき案は、土地とすべての生産の道具を共同体の共有財産とし、産業の営みを共同の勘定で行うことでしょう。共同体の労働の指揮は、一人あるいは複数の役人に任されることになります。その役人は、共同体の投票によって選ばれると想定してよく、また共同体の人々が自ら進んで従うと想定しなければなりません。生産物の分配も、同じように公の行為となります。その原則は、完全な平等であってもよいし、個人の必要や功績に応じた割り当てであってもよく、その共同体で通っている正義や政策の考えにかなうどんなやり方でもかまいません。 個人の所有という原理を攻撃する人々は、二つの種類に分けることができます。(1)生活と楽しみのための物質の手段を、まったく平等に分配することを案に含む人々と、(2)不平等を認めるが、それが正義あるいは全体の便宜の何らかの原理、あるいは原理と考えられるものに基づいていて、いまある社会の不平等の多くのように、ただ偶然だけに左右されるのではない、とする人々です。この[第一の]経済の体系を特徴づける名前は「共産主義」で、大陸に由来し、この国にはつい最近入ってきた語です。「社会主義」という語は、イギリスの共産主義者のあいだで生まれ、彼らが自分たちの説を示す名前として用いたものですが、いまでは大陸で、もっと広い意味で使われています。必ずしも共産主義、すなわち私有財産の全廃を意味するのではなく、土地と生産の道具が個人ではなく、共同体や団体、あるいは政府のものであるべきだとする、あらゆる体系に当てはめられているのです。 さらに言っておくべきことは、今日、社会主義は、私有財産を廃止し、国の資本と労働と結びついた産業の管理を国家の手に置く体系という、はっきりした意味で使われているということです。近代の社会主義の本質は、国家の助けに訴え、個人の自助を弱めることにあります。「集産主義」もまた、ドイツとフランスの書き手が、一国の産業を、個人の経営ではなく集団の経営のもとに組織することを言い表すのに、いま使っている語です。集産主義は、国家社会主義の体系を言うフランス語の表現にすぎません。 第二節 私有財産に対する共産主義の言い分を示す。 財産を共有し、生産物を平等に分配する体系に対して、ふつう向けられる反論、すなわち、だれもが自分の正当な分の仕事を逃れることにたえず心を砕くだろうという反論は、確かに現実の難点を指しています。しかし、この反論を唱える人々は、いま社会の仕事の十分の九が営まれている体系のもとでも、同じ難点がどれほど大きく存在しているかを忘れています。また、「主人の目」は、主人が用心深く賢いときには、ことわざになるほどの値打ちがありますが、社会主義の農場や工場では、働く者はそれぞれ、一人の主人の目ではなく、共同体全体の目のもとにあることを忘れてはなりません。共産主義の労働は、自分の土地を持つ農民や、自分の勘定で働く職人の労働ほどには力強くないかもしれませんが、事柄に何の個人的な利害も持たない雇われの労働者の労働よりは、おそらくもっと精力的でしょう。 共産主義へのもう一つの反論はこうです。共同体のどの成員も、働く気があるという条件だけで、自分と何人もの子どもの暮らしを保証されるなら、人類が殖えることへの分別ある抑えは終わってしまい、人口は勢いよく増え始め、共同体を、次第に不快が増していく段階を経て、ついには本当の飢えへと追いやるだろう、というのです。しかし、共産主義こそ、この種の利己的な放縦に対して、世論が最も強く反対を示すと期待できる状態にほかなりません。人数が増えて大多数の暮らしやすさが減り、あるいは骨折りが増えるなら、そのとき、それは(いまはそうならないのですが)団体のすべての個人に、すぐに、まぎれもない不便をもたらすでしょう。そしてその不便は、そのときには、雇い主の強欲や、金持ちの不当な特権のせいにすることはできないのです。 もっと現実の難点は、共同体の労働をその成員のあいだで公平に割り当てることです。仕事にはたくさんの種類がありますが、それらはどんな基準で互いに測られるべきでしょうか。綿を紡ぐこと、店から品物を配ること、れんがを積むこと、煙突を掃除することが、どれだけあれば、これこれの量の畑を耕すことと等しくなるのか、だれが判断するのでしょうか。そのうえ、同じ種類の仕事でさえ、名目の上で労働を等しくすれば、実際にはとても大きな不平等になるので、正義の感覚がそれを強いることに反発するでしょう。すべての人が、すべての労働に等しく向いているわけではありません。同じ量の労働でも、弱い者と強い者、丈夫な者とひ弱な者、すばやい者とのろい者、鈍い者と賢い者にとって、等しくない重荷なのです。 ですから、もし、あらゆる見込みを持つ共産主義と、あらゆる苦しみと不正を抱えるいまの社会の状態とのどちらかを選ぶことになるなら、共産主義の難点は、大きなものも小さなものも、すべて天秤の上のちりにすぎないでしょう。しかし、比べ方を当てはまるものにするには、最良の形の共産主義を、個人の所有の体制と、それもいまあるままの体制ではなく、そうしうる形での体制と比べなければなりません。所有の法は、私有財産を正しいとする根拠となる原理に、これまで一度も合ったことがありません。それは、決して財産になるべきでない物を財産にし、限られた所有しかあるべきでないところに、絶対の所有をつくってきました。私有財産は、それを弁護するどの議論においても、個人に、自分自身の労働と節制の実りを保証することを意味すると考えられています。他人の労働と節制の実りが、本人の功績や努力なしに受け継がれ、それが保証されるというのは、この制度の本質ではなく、たまたま伴う結果にすぎません。そしてそれは、ある程度まで達すると、私有財産を正当なものにしている目的を促すどころか、その目的とぶつかるのです。所有の制度の最終の行き先を判断するには、報酬と努力の釣り合いという公平な原理、すなわち、光に当てても耐えうるどの弁護においても、この制度が根拠としているとされる原理に反するはたらき方をこの制度にさせているものが、すべて正されたと想定しなければなりません。また、二つの条件が実現されたと想定しなければなりません。その条件なしには、共産主義も、ほかのどんな法や制度も、人類の大多数の状態を、卑しくみじめなもの以外にすることはできないのです。その条件の一つは、だれもが教育を受けること、もう一つは、共同体の人数をしかるべく抑えることです。この二つがあれば、いまの社会の制度のもとでさえ、貧困はありえないでしょう。そして、これらを前提とすれば、社会主義の問題は、社会主義者がふつう言うような、いま人類を押しつぶしている害悪から逃れる唯一の避け所へと逃げこむ問題ではなく、比べてどちらが有利かという問題にすぎず、それは未来が決めなければなりません。最良の形の個人の営みと、最良の形の社会主義とが、それぞれ何をなしうるのかについて、私たちはあまりに知らないので、二つのどちらが人の社会の最終の形になるかを決める資格を持つことはできません。 語釈 帯の外の語は 87 語です。★ 三つの群れに分かれます ——★ 制度と主義の語 ( Socialism ・ abolition ・ occupancy )、★ 分けかたと釣り合いの語 ( apportionment ・ remuneration ・ rectified )、★ 暮らしの語 ( plowing ・ starvation ・ intemperance )です。★ この章の語は いまも政治の話でそのまま使われ ます 。 語(品詞) 意味 注 Communistic en 形 共産主義的な The old commune experimented with communistic ownership o