原典の読み方――原文・翻訳・解説を見分ける — Epoché
はじめに 総説 約 21 分 本文 約 9,200 字 図 4・表 2 原典 1 節 この課の要点 誰の言葉・番号・読み比べの 3 つ 誰の言葉 同じ画面の中に、本人の原文、本教材の訳、読み解き(解説)、そして伝え手の要約が並ぶ。対話篇なら、語っているのは作中人物である。まず「これは誰の言葉か」を見分ける。 番号 原典の箇所は、訳書が違っても同じ所を指せるように、慣用の番号で示す。ソクラテス以前の哲学者は DK 番号(B は断片、A は証言)、プラトンはステファヌス番号、アリストテレスはベッカー番号を使う。断片の多くは伝え手の本を通して届いたもので、伝え手が誰で、何のために引いたかも読む。 読み比べ プラトンの対話篇でソクラテスは、書かれた言葉は絵に描かれた人のように、問われても黙っていると語る(『パイドロス』275d)。答えてくれない言葉は、訳を比べ、部分と全体を行き来して読む。解釈が分かれる所は、分かれているまま示す。 はじめに この課程の人物の課には、どれにも「原典を読む」という節があります。哲学者が書いた言葉、あるいは語ったとして伝わる言葉そのものを、 原典 と呼びます。節には、日本語の訳と、ギリシア語やラテン語の原文と、本教材の読み解きが並びます。この課では、その節をどう読めばよいかを、実際の画面に即して確かめます。 気をつけたいのは、一つの枠の中に、何人もの人の言葉が混ざっていることです。訳は訳した人の言葉で、読み解きは本教材の説明です。原文の中でも、語っているのが詩の中の女神や、対話篇の登場人物であることがあります。さらに、ソクラテス以前の哲学者の言葉の多くは、本人の本からではなく、後の時代の人の本に引かれて届きました。 もう一つの難しさは、書かれた言葉は、問い返しても答えてくれないことです。プラトンの対話篇『パイドロス』で、ソクラテスはこのことを、絵に描かれた人物にたとえて語ります [2] 。この課の「原典を読む」では、その一節をギリシア語の原文から訳して読みます。 この課の進み方も示しておきます。第 1 章では、三つの見分け方を節ごとに確かめます。いま読んでいるのは誰の言葉か。その言葉はどこにあり、誰を通って届いたか。そして、答えない言葉をどう読み比べるか、の三つです。例には、この課程のパルメニデスの課とヘラクレイトスの課の原典を使います。最後の「比べてみる」では、後の課の人物ごとに、言葉の届き方がどれほど違うかを見渡します。 この課の問い この課程の各課の「原典を読む」には、原文と訳と読み解きが並んでいます。いま読んでいる一文は、いったい誰の言葉なのでしょうか。そして、問い返しても答えてくれない書かれた言葉を、どう読めば読み違えずにすむのでしょうか。 この課のことば 底本・校訂本 訳や引用のもとにした本文の版を、底本と言います。写本どうしの食い違いを比べ、編者が一つに定めた本文を、校訂本と呼びます。編者が直した読みも含まれます。 伝え手 本人の著作が失われたとき、その言葉を自分の本に引いたり、まとめたりして後の世に残した人です。引用は本人の言葉に近く、まとめは伝え手の言葉です。 断片と証言 断片は、本人の言葉そのままとされる引用です。証言は、本人の生涯や説について他人が書いた報告です。DK 番号では、断片を B、証言を A で示します。 箇所の番号 訳書が違っても同じ箇所を指せるように決めた番号です。プラトンは「275d」のような頁と段、アリストテレスは「982b12」のような頁・欄・行で示します。 作中人物 対話篇や詩の中で語る登場人物です。プラトンの対話篇のソクラテスの言葉は、作者プラトンの主張と、ただちには同じではありません。 解釈学 書かれたものや人の言葉を理解すること(解釈)そのものを考える哲学の分野です。部分と全体を行き来して理解が深まる、という考え方がよく知られています。 原典をどう読むか――誰の言葉を、どこで、どう読むか これまでの三つの課では、哲学という営み、西洋哲学の歴史の見取り図、哲学の分野を見てきました。この課では、次の課から毎回出てくる「原典を読む」の節の読み方を、画面の部品に即して確かめます。 見分けることは三つあります。誰の言葉か。どこの言葉で、誰を通って届いたか。そして、どう読み比べるか。節を一つずつ使って見ていきます。 原文・翻訳・解説――いま読んでいるのは誰の言葉か 訳を読むとき、私たちはつい、訳の文をそのまま本人の言葉だと思ってしまいます。しかし訳には、どの語をどんな日本語に移すかという、訳した人の判断が必ず入ります。原文と訳は、同じものではありません。 では、実際の画面を見てみましょう。この編のパルメニデスの課の「原典を読む」は、上から順に六つの部品でできています (図 1) 。 画面の部品 語っている人 ① 前置き 本教材(場面の 案内。 シンプリキオスの 断りの引用を含む) ② 日本語の訳(番号 1〜5) 本教材(訳した人) ③ ギリシア語の原文 パルメニデス (語り手は女神)。 本文はディールスの 校訂 ④ 原典の説明 (底本と訳し方) 本教材(どの版から 訳したか) ⑤ 読み解き 1〜5 本教材(解説) ⑥ ここで注意する こと 本教材(注意) 対話篇なら、③の中で語るのは作中人物です。 図 1 パルメニデスの課の「原典を読む」の部品と、それぞれで語っている人(本教材の整理)。パルメニデスにさかのぼるのは③の原文だけで、それも編者が直した読みを含む校訂本文です。 ①の前置きは、どんな場面の言葉かを案内する本教材の文です。②の日本語の訳には、文ごとに 1〜5 の番号が振ってあります。本教材が原文から訳したものです。③のギリシア語の原文には、番号がありません。④の説明に「原文の 5 文を 5 つに分けて訳しました」とあるので、原文の文の区切りが訳の番号に当たると分かります。ピリオド「.」、疑問符に当たる「;」、コロンやセミコロンに当たる上の点「·」を手がかりにすると、おおよその対応をたどれます。ただし、どこで区切るかは訳した人の判断です。パルメニデスの課でも、訳の 3 文目は「·」で終わり、4 文目には「;」が二つあります。 ④の説明には、どの本の何頁何行から訳したか(底本)も書かれています。⑤の読み解きは本教材の解説で、番号は訳文の番号に対応します。⑥の「ここで注意すること」も、本教材の注意です。つまり、六つの部品のうち、パルメニデスにさかのぼる言葉は③の原文だけです。 その原文の中でも、語り手を見分けます。パルメニデスの詩では、女神が若者に「あなた」と語りかけます。プラトンの対話篇なら、ソクラテスたち作中人物が語ります。作中人物の言葉を、作者の主張とすぐに同じとはしないのが、読むときの原則です。 さらに、載せた原文そのものも、編者が写本を比べて定めた校訂本文です。パルメニデスの課の読み解きは、訳の 1 文目の「もはや」が、写本の読みをディールスという編者が直したものだと断っています。本人の言葉にいちばん近い部分にも、後の人の手が入っているのです。 ただし、話し手を見分けるのは、言われている中身の真偽を見ないためではありません。『パイドロス』のソクラテスは、昔の人は、若い君たちほど賢くなかったので、真実を語りさえすれば樫の木や岩の言葉でも聞いて満足したのに、君には話し手が誰でどこの人かが大事らしい、とパイドロスをたしなめます(275b–c) [2] 。誰の言葉かを確かめることと、それが本当かを考えることは、別の問いです。 なぜ、ここまで細かく見分けるのでしょうか。19 世紀のシュライアマハーは、書かれたテキストを読む経験は誤解から始まる、と考えました。だから解釈の技法は、ふだんは分かる言葉でたまに起こる誤解を防ぐためだけのものではなく、読むことが誤解から始まる言葉、とくに書かれたテキストにこそ要る、というのです [1] 。誰の言葉かを確かめることは、その技法の第一歩だと本教材は考えます。 ここで間違えやすい 訳を、原文とまったく同じものと思わないようにしましょう。また、プラトンの対話篇でソクラテスが語る言葉を、そのままプラトン本人の主張や、歴史上のソクラテスの主張と考えるのも急ぎすぎです。ソクラテスは何も書き残さず、彼を描いた人によって、その像は食い違います [5] 。この課の原典で、書かれた言葉を退けてみせるのも作中人物のソクラテスで、それを書いたのはプラトンです。 番号と伝え手――どこの言葉か、誰を通って届いたか 原典の箇所を「何頁」で示すと、訳書が違えば同じ箇所を指せません。出版社ごとに頁が違うからです。そこで、どの訳書でも同じ所を指せるように、慣用の番号を使います (表 1) 。 この表で分かること: 箇所の番号は、訳書が違っても同じ所を指すための住所です。人と著作の種類ごとに、決まった付け方があります。 番号の種類 使う相手 付け方 例 DK 番号 ソクラテス以前の哲学者 人の章番号+A(証言)か B(断片)+通し番号 DK 22 B 12 ステファヌス番号 プラトン 昔の全集の頁+段(a〜e) 『パイドロス』275d ベッカー番号 アリストテレス 全集の頁+欄(a・b)+行 『形而上学』982b12 伝え手の本の頁・行 注解書などの伝え手の本 校訂本の頁+行 シンプリキオス『自然学注解』145.1–9 AT 番号 デカルト 全集の巻+頁 AT VI 32 表 1 箇所の番号の主な種類(本教材の整理)。多くの訳書は、欄外や本文の中にこの番号を載せているので、それを手がかりに同じ箇所を探せます。 プラトンの「275d」は、16 世紀の印刷業者ステファヌス(アンリ・エティエンヌ)が出したプラトン全集の頁(275)と、その頁を a〜e に分けた段(d)です。頁は巻ごとに数え直されるので、「『パイドロス』275d」のように作品名と組にして使います。この課で読む『パイドロス』の電子版にも、本文の途中に 275b・275c・275d・275e の印が入っています [2] 。アリストテレスの「982b12」は、ベッカーが校訂した全集の頁・欄(a か b)・行です。どちらも昔の刊本の位置を示すだけで、作者が付けた章分けではありません。 ソクラテス以前の哲学者には、ディールスとクランツが編んだ断片集の番号(DK 番号)を使います [3] 。人ごとの章の番号に、B(断片)か A(証言)と、通し番号を付けます。パルメニデスは 28 章で、パルメニデスの課で読む詩は DK 28 B 8 です。ヘラクレイトスの川の言葉は DK 22 B 12 です。 A と B の別は、本人の言葉に近いかどうかの目安になります。ただし B の断片も、本人の本から直接届いたわけではありません。ソクラテス以前の哲学者の本はまとまっては残らず、言葉の多くは、後の時代の人が自分の本に引いたことで残りました。こうした人を、この課程では 伝え手 と呼びます (図 2) 。 断片が画面に届くまで 失われた 前5世紀 パルメニデス 詩を書いた。巻物は残っていない 書き写す 後6世紀 シンプリキオス 注解書に詩を書き写す 「書が手に入りにくいので」 写す 写本の時代 注解書が手で写されて伝わる 見比べる 1882年 ディールス 写本を見比べ、本文を定める 訳す いま この画面 訳と原文を並べて読む 図 2 断片が画面に届くまで(本教材の絵)。パルメニデスの巻物は残らず、シンプリキオスの注解書に書き写された部分が、写され、校訂され、訳されて届きました。どの段でも、選び、直し、訳す人の判断が入ります。 パルメニデスの詩の中心部分は、後 6 世紀のシンプリキオスが、アリストテレス『自然学』の注解書に書き写したので残りました。彼は「パルメニデスの書は手に入りにくいので」と断ってから書き写しています(144.25–29) [4] 。注解書は手で写されて伝わり、1882 年にディールスが写本を見比べて校訂本を出しました。いま画面で読む原文は、この長い道のりの終わりにあります。 伝え手を見るときは、誰が、いつ、何のために引いたかを確かめます。賛成するために引いたのか、論駁するために引いたのかで、引く範囲も言い回しも変わりうるからです。伝え手が本人の言葉をまとめ直した文は、本人の断片ではなく伝え手の言葉です。この課程の本文では、そうした所に「と伝えられます」「〜は…と伝えます」と書き分けます。 ヘラクレイトスの川の言葉が、よい例です。「同じ川に入る者には、次々と違う水が流れてくる」は、エウセビオスの本が引くアレイオス・ディデュモスの文の中に残る断片(B12)です。一方、よく知られた「同じ川に二度入ることはできない」は、プラトンが『クラテュロス』で、ヘラクレイトスはこう言うとまとめた形に近いものです(402a) [6] 。プルタルコスの本にも同じ形の文があり、DK は断片 B91 に数えますが、これも後の言い換えと見る研究者がいます。「万物は流れる」という決まり文句は、断片の中にはありません。詳しくは、この編のヘラクレイトスの課で読みます。 ここで間違えやすい B の断片なら本人の言葉に間違いない、と考えないようにしましょう。断片も、伝え手の写し、後の写本、校訂者の判断を経ています。どこからどこまでが引用かを決めるのも、校訂者の判断です。また、近代の哲学者では、デカルトの「AT VI 32」のように、全集の巻と頁で箇所を示すのが普通です。番号の付け方は、人と時代によって変わります。 訳を比べ、部分と全体を行き来する――答えない言葉の読み方 最後に、書かれた言葉そのものの難しさを考えます。この課の原典で読むように、『パイドロス』のソクラテスは、書かれた言葉を絵に描かれた人物にたとえます(275d) [2] 。絵の人物は生きているように立っていますが、何かを尋ねても黙っています。書かれた言葉も、学ぼうとして尋ねると、いつも同じ一つのことを示すだけだ、というのです。 本教材の作例で、二つの場面を見比べてみます (図 3) 。「書かれた言葉」の場面では、読者が壁の絵に問いかけても、絵の人物は何も答えません。書いた人も、その場にはいません。「生きた言葉」の場面では、パイドロスの問いに、ソクラテスが例を挙げて言い直し、さらに問い返します。 書かれた言葉 どういう意味 ですか? いつも