バークリ――存在するとは知覚されることである(非物質論) — Epoché
近代 イギリス経験論 約 18 分 本文 約 7,700 字 図 4・表 2 原典 1 節 この課の要点 批判・知覚・常識の 3 つ 批判 観念は観念にしか似ることができない。だから、心の外の物質に私たちの観念が「似ている」とは言えない。形や動きも色と同じく感覚から引き離せず、知覚から切り離した「存在」は作れない抽象観念だ、とバークリはロックを退ける(『人知原理論』§5・8〜10、序論)。 知覚 私が書いているこの机が存在するとは、私がそれを見て触れているということである。りんごは、色・味・匂い・形・手ざわりの観念がいつも一緒に現れる集まりに付けた名前である。感覚の物の存在は知覚されることだ(esse is percipi、§1・3)。 常識 誰も見ていない中庭の木も、神という永遠の精神が知覚しているので在り続ける、と『三つの対話』でバークリは論じる(『原理』§6・48 も参照)。物質を否定しても石も木も消えず、本物と夢の区別も残るので、非物質論は常識に反しない、とバークリは言う。 はじめに ジョージ・バークリは 1685 年、アイルランドのキルケニーの近くに生まれ、15 歳でダブリンのトリニティ・カレッジに入りました [1] 。20 代の半ばに『人知原理論』(1710 年)と『ハイラスとフィロナスの三つの対話』(1713 年)を出します。この二冊が、この課で読む非物質論の主な舞台です [1] 。 バークリは、私たちがじかに知覚するのは観念だ、というロックの出発点を受け継ぎつつ、まったく違う結論を引き出します。観念しか知覚しないなら、その向こうに「心の外の物質」を立てる理由はない、というのです。 この課では、ロックへの批判、「存在するとは知覚されること」という主張、誰も見ていない物の問いを順に読み、最後に『人知原理論』の一節を本教材の訳で読みます。 この課の問い この編のロックの課では、形や固さ(一次性質)は物そのものにあり、色や味(二次性質)は、物の一次性質が私たちの感覚に働いて観念を生む力だ、と読みました。では、私たちがじかに知覚しているのが観念だけなら、観念の向こうに心の外の物があると、どうして言えるのでしょうか。誰も見ていないとき、中庭の木はそこにあるのでしょうか。 この課のことば 観念 心が知覚する相手です。見える色、触れて感じる固さ、聞こえる音、思い浮かべた像などを指します。その種類は第二節で見ます。 物質 バークリが退けるものです。心から独立に、誰も知覚していなくても在り続けるとされる、考えない実体を指します [1] 。 一次性質と二次性質 ロックらの区別です。一次性質は広がり・形・動き・固さ・数など、物そのものにあるとされた性質です。二次性質は色・音・味などで、ロックでは、物の一次性質が私たちの感覚に働いて観念を生む力とされました。バークリはこの区別を退けます。 抽象観念 個々の物の観念から、その物だけの特徴を取り除いて作る、と考えられた一般の観念です。たとえば、どの形でもない「三角形一般」の観念です。バークリは、そんな観念は作れないとします [1] 。 精神 観念を知覚し、意志し、想像する、働くものです。観念は受け身で、精神は能動です(§2) [1] [2] 。 非物質論 心から独立の物質は存在しない、という説です。石や木や本は在りますが、それは観念の集まりだとされます(§1) [1] 。 非物質論――知覚されない物は在るのか バークリは、物質を信じることが懐疑論と無神論を招くと考えました [1] 。そこで、20 代の半ばに書いた『人知原理論』と、同じ考えを対話の形で示した『三つの対話』で、心の外の物質を退けます [1] 。この章では、ロックの区別と抽象観念への批判、「存在するとは知覚されること」という主張、誰も見ていない木と常識の問題を、順に読みます。 ロックへの批判――形や広がりも心の中にある バークリが相手にするのは、デカルトやロックの考え方です。私たちがじかに知覚するのは心の中の観念で、観念が心の外の物質を表すので、私たちは観念を通して物を間接に知覚します。この考えを 表象の説 と呼びます [1] 。二人をこう読むのはバークリの読み方で、当否には論争があります [1] 。 では、観念はどうやって物を表すのでしょうか。いちばん自然な答えは、観念が物に似ているから、というものです。バークリはここに切り込みます。「観念は観念にしか似ることができない。色や形は、別の色や形にしか似ることができない」(『人知原理論』§8) [2] 。心が比べられるのは自分の観念だけなので、観念と心の外の物を比べて「似ている」と言うことはできないのです (図 1) 。 ロック バークリ 観念の向こうに 物質がある 知覚されるのは 観念だけ 形の観念は物に 似ている 観念は観念にしか 似ない(§8) 色の観念は物に 似ていない 形も色と切り離せず 心の中に 三角形一般の 抽象観念を作れる 一つの三角形が 全部を代表する ロックを表象の説と読むのはバークリの読み方で、 当否には論争があります。 図 1 観念と物の関係を、ロックとバークリで比べた図です(本教材の整理)。上から、知覚の向こうに何があるか、似ているか、形と色、三角形の観念の順です。 次の矢は一次性質に向かいます。ロックは、形や広がりの観念は物に似ているが、色の観念は物に似ていない、と考えました。バークリは、色の無い広がり、色も手ざわりも無い形を思い浮かべてみよ、と言います。それはできない、とバークリは考えます。形は色や手ざわりから引き離せないので、色が心の中にあるなら、形も心の中にあるのです(§10) [2] 。さらに、大きい・小さい、速い・遅いは、見る人の位置や器官で変わります(§11) [2] 。『三つの対話』でも、この相対性の議論が形や大きさに向けられます [1] 。 教材の作例で試しましょう。色も手ざわりも無い、ただの「丸」を思い浮かべてください。黒い線の丸か、指でなぞった丸か、どれかになるはずです。 最後の矢は 抽象観念 に向かいます。『人知原理論』の序論でバークリは、個々の観念から特徴を取り除いて一般の観念を作る、という考えを退けます [1] 。直角でも鋭角でもなく、どの形でもある「三角形一般」の像は、心に浮かびません。一つの三角形の観念がほかの三角形を代表する、とバークリは考えます。物質論者が最後に持ち出す「存在一般」や「ただの広がり」も抽象観念で、使えない、とバークリは言います [1] (表 1) 。 この表で分かること: バークリは、似ている、引き離せない、相対的、抽象の批判の四つの道で、一次性質も心の中の観念だと論じ、物質の居場所を奪います。 論の道 言い分 箇所 向かう先 似ている原理 観念は観念にしか似ない §8 観念が物質を写すことを退ける 引き離せない 色の無い形は考えられない §10 一次性質も心の中に 相対性 大小・速さは見る位置で変わる §11・『対話』第一 一次性質も見る人による 抽象の批判 知覚と切り離した存在は抽象 §5・序論 物質の考えそのものを退ける 表 1 ロックの区別に向けたバークリの批判の道(本教材の整理)。箇所は『人知原理論』 [1] [2] 。 ここで間違えやすい バークリが、ロックの区別を逆にして、一次性質こそ心の中にあり二次性質は物にある、と説いたと取るのは誤りです。バークリは両方とも心の中の観念だとして、区別そのものを退けます(§10) [2] 。また、一般の語や一般の知識まで否定したわけでもありません。退けるのは、一般の観念を心の中に作れる、という説です。 存在するとは知覚されること――物は観念の集まり 批判の次は、バークリ自身が描く世界です。『人知原理論』の本論は、人の知識の相手を見渡すところから始まります。それは、感覚に押された観念か、心の働きに気づいて得る観念か、記憶と想像で組み合わせた観念のどれかです。目は光と色を、手は固さと柔らかさ、熱さと冷たさを、鼻は匂いを、舌は味を、耳は音を心に運びます(§1) [1] [2] 。 そのうえでバークリは、身近な果物を例にします。ある色、ある味、ある匂い、ある形、ある手ざわりがいつも一緒に現れるのに気づくと、私たちはそれを一つの名で呼び、「りんご」という一つの物と見なす、というのです(§1) [2] 。本文が挙げるのは色や味といった種類だけです。本教材の補足で具体にすると、赤い色、手に持った重さと固さ、甘酸っぱい味、香りがいつも一緒に来る、ということです。石・木・本も、同じく観念の集まりです。バークリは石や木を否定せず、観念の束として説明するのです [1] 。 感覚 目・手・鼻・舌・耳が、 色・固さ・匂い・味・音の観念を運ぶ (§1) 観念の集まり いつも一緒に現れる観念に「りんご」と 名を付ける(§1) 核の議論 物は感覚で知覚する物で、知覚するのは 観念だけ。だから物は観念(§4) 実体は精神だけ 観念は、知覚しない実体の中には 在りえない(§7) 図 2 『人知原理論』§1・§4・§7 の流れです(本教材の整理)。感覚の観念から出発し、物は観念の集まりで、実体は精神だけだ、という結論に至ります。 核になる議論は §4 にあります。家・山・川は、私たちが感覚で知覚する物です。私たちが知覚するのは、自分の観念だけです。だから、それらが知覚されずに存在するというのは、はっきりした矛盾です [1] [2] (図 2) 。表象の説は、物はじかにでなく観念を通して知覚される、と言ってこの議論を止めようとします。そこには、一つ目の節で見た批判が待っています [1] 。 観念のほかに、もう一つ在るものがあります。観念を知覚し、意志し、想像し、思い出すもの、つまり心・精神・魂・私です(§2) [2] 。観念は受け身で、精神は働きます [1] 。色や形の観念が、知覚しない実体の中にあると言うのは矛盾です。観念を持つとは知覚することだからです。こうしてバークリは、精神のほかに実体はない、と結論します(§7) [2] 。 物質論者には、もう一つ手が残っています。私が部屋に入るたびに椅子の観念を持ち、同僚も同じ部屋で椅子の観念を持ちます。それを説明するには、一つの椅子が物質として在り続けると考えるのがいちばんではないか、という返しです [1] 。バークリは、物質論者自身も、物体がどうやって心に観念を押すのかは説明できないと認めている、と答えます(§19) [1] 。物質を立てても立てなくても説明の難しさは同じなので、観念の説明は物質を立てる理由にならない、というのです。その中心の言葉が「それらの存在は知覚されることである」(§3)で、この課の原典の章で原文から読みます。 ここで間違えやすい バークリが、りんごも石も本当は無い、すべては夢か幻だ、と説いたと取るのは誤りです。否定されるのは心から独立の「物質」だけで、りんごや石は観念の集まりとして確かに在ります [1] 。また、「存在するとは知覚されること」がすべてのものに当てはまるわけでもありません。知覚する側の精神の存在は、知覚することにあります [1] 。 誰も見ていない木――神と常識 ここで当然の反論が出ます。存在が知覚されることなら、夜中の三時、誰もいない大学の中庭には木が無く、私が部屋を出て扉を閉めれば机も無くなるのではないでしょうか [1] 。この反論は、中庭の木を歌う有名な戯れ歌でも知られます。ただし、戯れ歌はバークリ自身の言葉ではありません [1] 。 『人知原理論』には、答えの芽が二つあります。一つは、§3 の「書斎にいれば知覚できる」という言い方です。存在するとは、しかるべき場にいれば知覚される、ということだと読む答えです。神が決まった法則で観念を起こすので、扉を開ければ机が見えます [1] 。ただしこの答えでは、知覚されないあいだ、机は規則正しく消えたり現れたりすることになり、常識とぶつかります [1] 。もう一つは、§3 と §48 の「ほかの精神が実際に知覚している」という言い方です [1] 。§6 は、天の星々も地の物も、造られた精神が知覚していないあいだは、まったく存在しないか、ある永遠の精神の心の中に在るかのどちらかだ、と述べます [2] 。 誰も見ていないとき 神が知覚している 木は在り続ける (『三つの対話』の答え) 見ているとき 緑の葉 葉ずれの音 ざらざらの幹 色・手ざわり・音の観念の集まり (『人知原理論』§1) 図 3 中庭の木を、誰も見ていないときと見ているときで描いた絵です(本教材の絵)。一つ目は夜の無人の中庭で、神という永遠の精神が木を知覚しています。二つ目は昼の中庭で、木は二人の学生に、緑の葉・ざらざらの幹・葉ずれの音として知覚されています。中庭の木は後の戯れ歌の例で、バークリ本人の例は書斎の机(§3)です。 『三つの対話』のバークリは、この二つ目の道をはっきり取ります [1] (図 3) 。『人知原理論』では、感覚の観念を起こす原因として神の存在を論じました。観念は受け身で何も起こせず、感覚の観念は私の意志どおりにならないので、原因はほかの、賢く善い精神、すなわち神だ、という論証です(§25〜33) [1] 。『対話』では一歩進んで、私たちが知覚していない観念は神の中に在る、と論じます [1] 。ただ、神は何も感じないはずなので、私たちと同じ感覚の観念を神が持つと言えるのか、という難しさが残り、研究者の読みが分かれます [1] 。 本物の物と夢の区別も残ります。感覚の観念は意志によらず、想像の観念より確かで生き生きとし、何より自然の法則に従う秩序を持ちます(§30) [1] 。『三つの対話』のフィロナス(「精神を愛する者」の意で、バークリの代弁者)は、物質を信じるハイラスを説き伏せた後、この哲学が常識とよく合うことを示そうとします [1] 。火が温める、と言ってかまいません。学者と共に考え、俗人と共に話せばよい、というのです(§51) [1] 。 後代の伝えも一つ見ておきましょう。ボズウェル『ジョンソン伝』によれば、教会を出た後、バークリの説は論破できないと話すボズウェルに、サミュエル・ジョンソンは大きな石を力いっぱい蹴って、「こうして論破する」と答えました [3] 。しかしバークリは、石の固さも足の痛みも否定しません。どちらも確