平等――何の平等を求めるのか — Epoché
思想 自由・平等・正義 約 29 分 本文 約 13,000 字 図 3・表 2 資料 1 節 この課の要点 平等の形・何の平等・関係の 3 つ 平等の形 「等しいものは等しく扱え」は形だけの原理で、どの違いを考えに入れるかを決めて初めて中身が出ます。全員に同じ量を配る数的平等は、比例的平等の特別な場合です。 何の平等 何を等しくするかで、厚生・資源・機会・潜在能力の立場が分かれ、それぞれに批判があります。 関係 分ける量ではなく、人々が対等な者として関わり合えるかを問う関係の平等があります。 はじめに 文化祭の準備で、学級に配られた予算を三つの班で分ける場面を考えてみましょう。ある人は「三つの班に同じ額を配るのが平等だ」と言います。別の人は「人数の多い班に多く配るのが平等だ」と言い、また別の人は「材料費のかかる展示の班に多く配るのが平等だ」と言います。三人とも「平等」という同じ言葉を使っていますが、求めている分け方はまったく違います(本教材の作例)。 政治の場でも同じことが起きます。選挙では、一人に一票を配ります。ところが税や社会保障や教育の支援では、人によって負担や受け取る量を変えることがよくあります。どちらも「平等」の名で語られますが、そろえているものが違います。平等を求める声は多くても、何をそろえるかで意見が分かれるのです。 日本の議論では、平等はしばしば「結果の平等か、機会の平等か」という二択で語られます。しかし、この二択だけでは見えないことがあります。たとえば、同じ額のお金を受け取っても、それで実際にできることは、体の状態や住んでいる町によって違います。また、お金の量はそろっていても、ある人々がいつも見下され、意見を聞いてもらえないなら、その社会を平等と呼ぶのはためらわれるでしょう。何をそろえるかの候補は、二つよりずっと多いのです(本教材の整理)。 アマルティア・セン(Sen)は、この問題を「何の平等か(Equality of What?)」という問いにまとめました。1980 年に公刊された、同じ題の講演です [7] 。現代の平等論は、平等を求める主張は、どんな平等を求めるのかを言って初めて中身を持つ、と考えます [1] 。この課では、まず平等という考えの形を見て、次に何をそろえるかの候補を比べ、最後に、分ける量ではなく人どうしの関係を問う考えを見ます。読み終えたときに、ある制度や主張が「平等」の名で何をそろえようとしているのかを、自分の言葉で見分けられるようになることが、この課の目標です。 この課程の『自由』の課では、干渉されないことと、自ら治めることという、自由の二つの考え方を見ました。自由と平等はしばしば対立すると言われますが、この課ではまず平等そのものの中身を確かめます。社会の利益と負担をどんな原理で分けるかは、後の課『分配的正義』で詳しく扱います。 この課の問い 「平等であるべきだ」と言うとき、私たちは何を、どの点で等しくしようとしているのでしょうか。等しくするものの選び方で、正しい分け方はどう変わるのでしょうか。 この課のことば 形式的平等 「等しいものは等しく扱え」という、形だけの決まりです。何が「等しい」かは別に決める必要があります。同じ違反をした二人を、髪の色で違うように罰してはいけない、というのがその一例です。 比例的平等 人を、その人が当然受けるべきものに比例して扱うことです。全員に同じ量を配る「数的平等」は、その特別な場合にあたります。 厚生 暮らしの良さ、幸福、望みがかなうことを指す言葉です。経済学では「福祉」と訳すこともあります。 資源 お金や財、使える手段のように、何にでも役立つものです。ロールズの「基本財」や、ドゥオーキンの「資源の束」がこれにあたります。 潜在能力 セン(Sen)の用語で、人が実際に「できること・なれること」の幅を指します。同じ資源をそれに変える力は、人と環境によって違います。 関係の平等 何をどれだけ分けるかよりも、人々が対等な者として関わり合えているかを正義の中心に置く考えです。 平等の中身――何を、どの点で等しくするのか 「平等であるべきだ」という主張を、三つの段に分けて見ていきます。第一に、平等という考えがもともと持っている形です。第二に、その形に入れる中身、つまり何をそろえるかです。第三に、分けるものではなく、人と人との関係に目を向ける考えです。どの立場が正しいかを本教材が決めることはしません。それぞれの理由と、それに向けられた批判を並べます。 「同じに扱う」とは何か――形式的平等と比例的平等 平等の考えのいちばん基本の形は、「等しいものは等しく扱え」という原理です。古代ギリシアのアリストテレスがプラトンに触れながら述べたもので、『ニコマコス倫理学』第 5 巻や『政治学』第 3 巻に見られます [1] 。この原理は、今日でも広く受け入れられています。これを形式的平等と呼びます。 ただし、この原理は形だけで、中身を決めません。決定的な問いは、どの点が規範の上で関係があり、どの点が関係ないかです [1] 。たとえば、同じ罪を犯した二人の刑の重さを髪の色で変えてはいけない、ということには誰もが同意するでしょう。けれども、犯行の動機や前科を考えに入れるべきかどうかでは、意見が分かれえます(例は本教材の作例)。 では、なぜ等しいものを等しく扱うべきなのでしょうか。一つの見方は、これを合理性の決まりと考えます。十分な理由なしに等しい場合を違うように扱うのは、一貫していないから不合理だ、というのです(バーリン)。もう一つの見方は、これを正義の原理と考えます。扱いの違いは、本人の好みと矛盾しないだけでは足りません。影響を受ける人々に対して、その状況の客観的な特徴だけにもとづいて正当化できなければならない、というのです [1] 。 数的平等 比例的平等 全員に一人あたり 同じ量を配る 当然受けるべき ものに比例して扱う 人の違いを考えに 入れない どの違いを 考えるかで中身が 決まる 正しいのは、 関係する点で人々が 等しいときだけ 能力主義や 貴族主義にも 組み込める 例:公職選挙法の 一人一票 数的平等はその 特別な場合 図 1 数的平等と比例的平等。アリストテレスの区別(SEP「Equality」 [1] の整理をもとに本教材が作図)。 アリストテレスは、平等に二つの種類を区別しました。数的平等と比例的平等です [1] 。数的平等は、すべての人を区別せずに扱い、一人あたり同じ量を配ることです。比例的平等は、関係のある人を、それぞれが当然受けるべきものに比例して扱うことです。数的平等は、いつも正しいわけではありません。それが正しいのは、人々が関係のある点で等しく、受けるべき割合も等しいという特別な場合だけです。その意味で、正しい数的平等は比例的平等の特別な場合にあたります (図 1) [1] 。 比例的平等の形は、平等を唱えない立場にも組み込めます。貴族主義者、完成主義者、能力主義者は、人をそれぞれの功績、つまり広い意味で何かの基準を満たしていることに応じて評価すべきだと考えます。報酬と罰、利益と負担は、功績に比例すべきだというわけです [1] 。この形は、誰が何を受けるべきかを空けたままにしているので、その埋め方しだいで大きな不平等も正当化されえます。プラトンとアリストテレス自身の議論にも、その傾向がはっきり見られます [1] 。 ここから重要な結論が出てきます。正義をめぐる論争はすべて、どの場合が等しく、どの場合が等しくないかをめぐる論争として理解できます(アリストテレス『政治学』1282b) [1] 。だから、「人は平等に扱われるべきだ」という主張は、どんな種類の平等が求められているかを言われて初めて、中身のある主張になるのです [1] 。 日本の制度にも、二つの形が並んでいます。公職選挙法第 36 条は「投票は、各選挙につき、一人一票に限る」と定めます [4] 。所得や学歴や納める税の額が違っても、票の数は同じです。投票では、そうした違いを考えに入れないことが平等だとされているわけで、数的平等のわかりやすい例です。他方、後の「資料で確かめる」で読む日本国憲法第 26 条は、教育を受ける権利を「その能力に応じて、ひとしく」と書きます [3] 。同じ国の法の中に、考えに入れる違いの異なる平等の書き方が並んでいることになります(本教材の整理)。 ここで間違えやすい 「平等」と聞くと、全員に同じ量を配ることだと考えがちです。しかしアリストテレス以来の整理では、全員に同じ量を配る数的平等は、人々が関係のある点で等しいときにだけ正しい、特別な場合です [1] 。平等を論じるときは、まず「どの違いを考えに入れ、どの違いを無視するのか」を問う必要があります。 何をそろえるのか――厚生か、資源か、機会か 形式的平等に中身を入れるには、何をそろえるのかを決めなければなりません。センが「何の平等か」と問うたのは、まさにこの点です [7] 。どんな規範の理論も、何らかの平等の考えを含んでいます [1] 。主な候補は、厚生(暮らしの良さ)、資源、機会、そして次の節で見る潜在能力です (図 2) 。 何の平等か 形式的平等に入れる中身 厚生 暮らしの良さ・望みのかない方 資源 基本財・資源の束(ロールズ、 ドゥオーキン) 機会 手に余る不利をそろえる(アーネソン、 コーエン) 潜在能力 できること・なれることの幅(セン) このほか、分けるものより人の関係を問う「関係の 平等」がある 図 2 「何の平等か」の主な候補(SEP「Equality」 [1] の整理をもとに本教材が作図)。 第一の候補は厚生の平等です。政治の倫理で本当に大事なのは一人ひとりの暮らしの良さなのだから、正義の中心の基準は厚生の水準をそろえることだ、という直観に支えられています [1] 。けれども厚生を「望みがかなうこと」と考えると、難しい問題が出てきます。他人を傷つけたいという望みまで、正義の上で同じ重さに数えるのはおかしいでしょう(不快な嗜好の議論)。また、厚生をそろえようとすると、ぜいたくで高くつく好みを持つ人に、より多くの資源を回すことになります。ドゥオーキン(Dworkin)らは、これは道徳の直観に反すると批判します。この高価な嗜好の議論は、ドゥオーキンが 1981 年の論文で示したものです [1] [8] 。 本教材の作例で考えてみます。同じ額の生活費で、A さんは図書館の本と公園の散歩で十分に満足し、B さんは高価な食事でないと満足できないとします。厚生をそろえるなら、B さんにより多くのお金を回すべきことになります。しかし多くの人は、自分で育てた高い好みの費用を社会が払うのは筋が違う、と感じるでしょう。厚生の平等には、功績も、自分の暮らしに対する本人の責任も考えに入れられない、という問題があると指摘されています [1] 。 第二の候補は資源の平等で、代表はロールズ(Rawls)とドゥオーキンです [1] 。この考えは、人に自分の決定と行動の責任は負わせますが、人種、性別、肌の色、知能、社会的な位置のように、本人の手に余る事情の責任は負わせません。生まれつきの才能も、社会的な境遇と同じく道徳の観点からは偶然のものだとして、分配の基準から外します [1] 。ロールズは、何にでも役立つ「基本財」について、人々が等しい出発点の見込みを持つべきだと考えました。その後の経済的な決定によって持ち分が違ってくることは認めます。ただしその不平等は、公正な機会の平等のもとで誰にでも開かれた地位に結びつき、しかも最も不利な人々に最大の利益をもたらす場合(格差原理)に限られます [1] 。この二つの条件の中身は、後の課『分配的正義』で詳しく見ます。 ドゥオーキンは、平等そのものにより強くこだわりました。彼は仮想の競売を考えます。全員が同じだけの支払い手段を持って資源の束を競り落とし、最後に誰も他人の束をうらやまなければ、資源は平等に分けられたことになります(うらやみテスト) [1] 。その後、各人の野心と選択から生まれた差は、本人が引き受けるべき「選択の運」の結果として認められます。他方、生まれつきの才能の違いや、自分では選べない「自然の運」による不平等は、仮想の保険の仕組みで補うべきだとされます。保険料は現実には税として集められます [1] [8] 。 第三の候補は機会の平等です。ここでの機会の平等は、厚生と資源の両方の考えを手直ししたものと読めます。本人の手に余る原因から生じた結果の差はそろえ、自分の選択や野心から生じた結果の差は認める、という考えです [1] 。アーネソン(Arneson)は、理想的によく考えた後に人が持つはずの好みを基準にして、厚生を得る実際の機会をそろえるべきだとしました(厚生への機会の平等)。コーエン(Cohen)は「利点への接近の平等」を唱えました。コーエンによれば、足が麻痺した人には、その人の厚生の水準がどうであれ、平等主義者は車椅子で補おうとします。能力を失っていなくても痛みに苦しむ人には、高価な薬の費用を払おうとします。だから資源と厚生の両方の観点が必要で、どちらか一方にはまとめられない、とコーエンは論じました [1] 。 これらの考えには、共通の芯があります。テムキン(Temkin)の言い方では、自分の落ち度でも選択でもないのに、ある人が他の人より悪い状態にあるのは悪い、つまり不正だ、という考えです [1] 。この考えをとる人々は「運の平等主義者」と呼ばれます。運の平等主義者は、平等と並んで、選択と責任を特に重い価値と見ます [1] 。 ここで間違えやすい 「機会の平等」と聞くと、スタートラインをそろえれば結果はどうなってもよい、という意味だと考えがちです。しかし、ここで見た機会の平等の考えは、本人の手に余る原因から生じた結果の差はそろえようとし、本人の選択から生じた差だけを認めようとします [1] 。どこまでが本人の選択かを決めることが、この立場の大きな争点になります。 資源を生かす力の違い――センの潜在能力アプローチ 資源の平等に対して、センは別の角度から批判を向けました。基本的な手段を平等に分けることに限る理論は、手段そのものに目を向け、人がその手段で何を得るかを見ていません。その意味で「物神崇拝」(モノそのものを崇めること)だ