サルトル――実存は本質に先立つ(自由と責任・自己欺瞞) — Epoché
現代 現象学と実存主義 約 23 分 本文 約 9,700 字 図 6・表 2 原典 2 節 この課の要点 出発点・帰結・逃避の 3 つ 出発点 人間には前もって決まった本性がなく、まず存在し、その後で自分が何であるかを自分でつくっていくと考えました(実存は本質に先立つ)。 帰結 自分を選ぶことは「人間はこうあるべきだ」という像を全員に示すことなので責任は全員に及び、人は外の支えのないまま、与えられた状況の中で選ぶよう「刑に処せられて」いると見ました(自由と責任)。 逃避 その自由の重さから、人は自分を物や役割のように固めたり、事実から目をそらしたりして逃げようとする、と分析しました(自己欺瞞)。 はじめに ジャン=ポール・サルトル(1905–1980)は、パリで生まれたフランスの哲学者です。哲学の論文だけでなく、小説・戯曲・評論でも広く読まれました [3] 。1964 年には、ノーベル文学賞を辞退しています [6] 。 この編の最初の課では、フッサールの現象学を読みました。サルトルは 1930 年代にベルリンで 1 年を過ごし、その現象学を本格的に学びました。前の課で読んだハイデガーを本格的に読み込むのは、そののちのことです [3] 。 この課では、サルトルの考えを二つの著作から読みます。一つは、1945 年 10 月にパリで行った講演『実存主義とは何か』です。主著の考えを一般の聴衆に向けて平易に語り、多くの人を集めました [1] [3] 。もう一つは、その 2 年前、1943 年に出た主著『存在と無』です [2] 。第 1 章では講演から「実存は本質に先立つ」という定式と、そこから出てくる責任を読みます。第 2 章では『存在と無』に戻り、状況の中の自由と、自由から逃げようとする「自己欺瞞」を読みます。 サルトルの著作は、日本では著作権の保護期間内にあります。そのため、この課では原文も既存の日本語訳も載せず、本教材の言葉で要約して読みます。 この課の問い 人間には、生まれる前から決まった「人間らしさ」があるのでしょうか。ないとしたら、自分の生き方の責任は誰が負い、人はその重さとどう向き合っているのでしょうか。 この課のことば 実存 現にここに存在していること。サルトルでは、とくに自分のあり方を選びながら存在している人間のあり方を指します。 本質 そのものが「何であるか」を決める中身。道具なら、作られる前に決まっている用途と作り方です。 投企 自分をまだない未来へ向けて投げかけ、目指すものによって今の自分を形づくること。 事実性 身体・過去・生まれた場所など、自分では選べずにすでに与えられている事実。 自己欺瞞 自分自身に対してつく嘘。自分の自由から目をそらすために、自分をごまかすことです(原語 mauvaise foi )。 対自と即自 対自は、自分のあり方を問い、越えていく意識のあり方。即自は、ただそれであるだけの物のあり方です。 実存は本質に先立つ――人間には前もって決まった本性があるか ペーパーナイフと人間 本質が先か、実存が先か サルトルの講演でいちばんよく知られているのが、 実存は本質に先立つ という定式です(『実存主義とは何か』、無神論的実存主義の定義の論点) [1] 。言っていることは、人間には作られる前に描かれた設計図がない、ということです。人間はまず存在し、そのあとで自分が何であるかを自分で決めていきます。この定式は、人間についての主張です。机や石についての主張ではありません。 ここで「本質」と「実存」は、中世のスコラ学以来の哲学の語です。サルトルはそれを、日常の道具の話に置き換えて説明しました。講演は一般の聴衆に向けたもので、『存在と無』の難しい術語はほとんど使いません。この章でも、日常の語で読んでいきます。 講演の筋は、三段で追えます。第一に、職人が作る道具は、何に使うものか、どう作るかという観念が先にあり、それに従って作られます。道具では、本質が実存に先立ちます。第二に、神を職人のような創造者と考えると、人間も神の頭の中の観念に従って作られたことになります。そのとき「人間本性」が、一人ひとりの人間より先にあることになります。サルトルによれば、18 世紀の無神論者たちは神を退けましたが、この人間本性の考えは手放しませんでした。第三に、神がいないなら、人間を前もって構想する者もいません。だから人間はまず実存し、世界に現れ、そのあとで自らを定義します [1] (図 1) 。 ペーパーナイフ 職人の頭の中の観念 用途・作り方 作られたナイフ 観念どおりの品物 本質が実存に先立つ 人間 まず存在する 選び、行為を重ねる 何であるかが 後から決まる 実存が本質に先立つ 図 1 道具と人間の順序の違い。左では観念(本質)が先で品物(実存)が後、右では存在が先で「何であるか」が後に来ます。 サルトルがたとえに使うのは、紙を切るペーパーナイフです(同講演) [1] 。用途を知らずにペーパーナイフを作る人はいません。作る前から、それが何のためのもので、どんな形になるかは決まっています。サルトルは、人間の場合だけこの順序が逆になると言います。 講演でサルトルは、実存主義者を二つに分けています。ヤスパースやマルセルのようなキリスト教的な実存主義者と、ハイデガーや自分のような無神論的な実存主義者です。そのうえで、自分の定式を後者の立場として示しました [1] 。神の否定から人間本性の否定へ進む一歩が、この定式の要です。 ここで間違えやすい 「人間には何の制約もない」「何にでもなれる」という意味ではありません。否定されているのは、前もって決まった本性です。身体や、置かれた状況まで否定しているのではありません。状況の重みは、第 2 章で扱います。 選ぶことは人間の像を描くこと 責任は全員に及ぶ 講演は、定式から責任の話へ進みます。人間とは、自分の行いによって自分をつくっていく存在です。そして自分を選ぶことは、同時に 「人間はこうあるべきだ」という像を選ぶこと でもあります。だから責任は、自分一人にとどまりません(同講演、主体性と責任の論点) [1] 。 筋道を順に追ってみます (図 2) 。人間は、自分をまだない未来へ投げかける存在です。サルトルはこれを投企と呼びます。投企より前に、人間を決めるものは何もありません。だから人間は、自分のあり方を自分で選びます。次に、私たちは何かを選ぶとき、それを悪いものとしてではなく、善いものとして選びます。そして、善いとして選ぶことは、自分にとってだけでなく、誰にとっても善いと示すことになります。こうして、一人の選択が人間全体の像を描きます。だから責任は、自分のあり方だけでなく、人類全体に及びます。 1 私が選ぶ 自分のあり方を決める 2 善いとして選ぶ 悪いと思って選ぶ人はいない 3 人間の像を示す 「人間はこうあるべき」 4 責任が全員に及ぶ 一人の選択が人類にかかわる もし皆が そうしたら? と自分に 問う 図 2 一人の選択が人類全体の像になるまで。右の破線の囲みは、選ぶ人が自分に向けるべき問いです。 サルトルは講演で、身近な二つの例を挙げます [1] 。一つは労働組合です。共産党系ではなく、キリスト教系の組合に入る人がいるとします。その人は、自分の身の振り方を決めただけのつもりかもしれません。しかしサルトルによれば、その人は「人間には諦めがふさわしい」と、人類全体について言ったことになります。もう一つは結婚です。自分の事情から結婚を決めた人も、一夫一婦という生き方へ、人類全体を引き込むことになります。 ここから、サルトルは選ぶ人に一つの問いを求めます。「もし皆がそうしたらどうなるか」と自分に問うことです。 ここで間違えやすい 「自分の選択を他人に押しつけよ」という意味でも、「皆がまねるだろう」という予測でもありません。カントの普遍化の考えと似ていますが、サルトルは前もって従うべき規則を与えません。そのことは、次の節の学生の例ではっきりします。 不安・見捨てられていること・絶望 頼れる基準はどこにもない 神も、前もって書かれた道徳もありません。そうであれば、人は自分の選択を正当化してくれる外の支えをもちません。サルトルは、人がその中で選ぶ状態を、 不安・見捨てられていること・絶望 の三つの語で表しました(同講演、三つの語の論点) [1] 。 一つ目の不安は、自分の選択が人類全体についての立法になると知る者が、その重さに覚える感情です。サルトルはここで、キルケゴールの名を挙げて、アブラハムの例を引きます。二つ目の見捨てられていること( délaissement )は、価値を書き込んだ天がないことです。サルトルは、ドストエフスキーの言葉として「神がいなければすべてが許される」を引き、それを実存主義の出発点だと述べます。三つ目の絶望は、自分の意志にかかる範囲を超えた可能性を当てにせず、希望をもたずに行動することです。 サルトルが挙げる学生の例が、この三つをよく示します (図 3) 。占領下のフランスで、ある学生が迷っています。自由フランス軍に加わるか、自分だけを頼りに生きている母のそばに残るかです。キリスト教の教えに尋ねても、カントの道徳に尋ねても、どちらの道を取るべきかは決まりません。どちらの思いが強いかという感情の強さも、答えを決めてはくれません。サルトルの答えは、既成の教えは答えを与えないので、自分で選び、その選択によって答えをつくるほかない、というものでした [1] 。 占領下の学生の迷い 母のそばか、戦いに出るか 母のそばに残る 自由フランス軍 に加わる どれも決めない 既成の教えと感情 キリスト教・カント・感情の強さ 選ぶことで答えをつくる 選んだ道が、そのまま自分の答えになる 図 3 学生の例(『実存主義とは何か』の要約)。中央の破線の囲みは、どちらの道も選ばせてくれない既成の基準です。答えは、両側の矢印のように、選ぶことそのものから生まれます。 講演は、この三つの語が人を何もしない方向へ導くという批判に答える形で語られています。サルトルはこの批判を「静寂主義」と呼び、自分の考えはその逆で、行為のほかに現実はないと説くものだと述べました [1] 。 ここで間違えやすい 「神がいなければすべてが許される」は、サルトルがドストエフスキーの言葉として引くものです。小説の作中人物の言葉で、ドストエフスキー本人の主張でも、サルトル自身の倫理の結論でもありません。また、不安は何もしないことの言い訳ではなく、行動の条件です。絶望も「投げやり」ではなく、当てにならないものを当てにしないという意味です。 自由と自己欺瞞――人は自分の自由から逃げられるか 第 1 章の講演は、人間に決まった本性がないことから、自由と責任を説きました。しかし私たちは、現に身体をもち、過去を負い、職業や役割の中で生きています。そうした事実と自由は、どう両立するのでしょうか。また、自由の重さから逃げようとするとき、人は自分に何をしているのでしょうか。この章では、講演より 2 年前の主著『存在と無』(1943 年)に戻って読みます。 状況の中の自由 同じ岩が障害にも足場にもなる この課では、ここで初めて術語を使います。『存在と無』でサルトルは、意識のあり方を 対自 、ただそれであるだけの物のあり方を即自と呼びます。石は即自で、石であるだけです。意識は対自で、まだないものを目指し、今のあり方をいつも越えていきます(序論・第 2 部ほか) [2] 。 ここから、自由の考え方が変わります。自由とは、望んだものを手に入れる力ではありません。与えられた事実にどんな意味を与え、どう行動するかを選ぶことです(第 4 部第 1 章 I・II) [2] [3] 。サルトルの筋道を、四つに分けて見ます。まず、意識は今のあり方を越えて、まだないものへ向かいます。次に、苦しさや貧しさという事実だけでは、行為は決まりません。それを「欠けている」と捉え、別のあり方を目指したときに、初めて行為の動機になります(同 I)。さらに、ある事実が障害かどうかも、その人の企てとの関係で決まります(同 II)。最後に、だから人は、自由であることをやめる自由をもちません。 三つ目の段の例が、岩です (図 4) 。同じ岩が、動かそうとする人には深い抵抗を示す障害になり、登って景色を見渡したい人には貴重な足場になります [2] 。岩そのものは変わりません。変わるのは、岩が私の企ての中で占める意味です。 動かせない 障害だ よい足場だ 動かしたい人 同じ岩 登りたい人 障害かどうかは、企てが決める 図 4 岩の例(『存在と無』第 4 部第 1 章 II の要約)。せりふは本教材の言い換えです。岩は同じでも、どんな企てをもつかで、障害にも足場にもなります。 サルトルは、山歩きの途中で疲れて座り込む人の例も挙げています(同 I) [2] 。疲れは事実です。しかし、それを「もう歩けない」理由にするかどうかは、その人が歩くことにどんな意味を与えているかで変わります。こうした議論から、サルトルは人間を、自由であるよう 「刑に処せられて」いる と言います。この言い回しは『存在と無』第 4 部第 1 章にあり、講演の見捨てられていることの論点でも繰り返されます [1] [2] 。 どんな状況でも人は等しく自由だ、という主張の強さには批判があります。メルロ=ポンティは『知覚の現象学』第 3 部第 3 章「自由」で、状況から切り離された絶対的な選択という考えを退けました。そして自由を、状況とのやりとりの中に置き直しました [4] 。 ここで間違えやすい 「何でも思いどおりにできる」という意味ではありません。自由は成功とは別で、選んだことが実現するとは限りません。また、状況の制約を否定しているのでもありません。制約の意味が、企てとの関係で決まると言っているのです。 自己欺瞞 自分に嘘をつく 自由がそれほど重いなら、人はそこから逃げたくなります。その逃げ方を、サルトルは 自己欺瞞 と呼びました。自己欺瞞とは、自分自身に対してつく嘘です(『存在と無』第 1 部第 2 章 I・II) [2] [3] 。 サルトルはまず、普通の嘘と比べます。普通の嘘では、真実を知っている者が他人をだまします。だます者とだまされる者は、別の人です。ところが自己欺