カント――自分の理性を使う勇気をもて(啓蒙・永遠平和) — Epoché
近代 カント 約 17 分 本文 約 6,800 字 図 4・表 2 原典 1 節 この課の要点 勇気・公開・平和の 3 つ 勇気 啓蒙とは、自分のせいで陥っている未成年状態から抜け出すことである。抜け出せないのは知性が足りないからでなく、怠けと臆病のためで、だから標語は「自分の知性を使う勇気をもて」になる(「啓蒙とは何か」8:35)。 公開 一人で抜け出すのは難しいが、公衆が自分を啓蒙することは、自由さえあればほぼ避けられない。要る自由は、学者として読者全体に向けて論じる、理性の公的使用の自由である。持ち場では従い、書いて論じる場では自由に批判する(「啓蒙とは何か」)。 平和 国と国は、上に立つ法のない自然状態にあり、そこから抜け出す義務がある。カントは、戦争の種を除く六つの予備条項と、共和的な体制・自由な国家の連合・訪問の権利という三つの確定条項を示した(『永遠平和のために』8:343〜360)。 はじめに この編のこれまでの課では、カントの認識の話、道徳の法則、美の判断を読んできました。この課では、同じカントの、政治と歴史をめぐる小さな著作を読みます。 1784 年、カントは「世界市民的な見地からの普遍史の理念」と「啓蒙とは何か、という問いへの答え」を出しました [4] 。後者は雑誌『ベルリン月報』の 12 月号に載った短い文章で、啓蒙を、一人ひとりが自分の理性を使うこととして論じます [1] [2] 。フランス革命の後の 1795 年には『永遠平和のために』を、1797 年には法論を含む『人倫の形而上学』を出しました [4] 。 二つの著作は、一人の頭の中の話と国と国の話で、題材が違って見えます。けれども、どちらも、人が導き手も法もない状態から、自分たちの理性でどう抜け出すかを問うています(本教材の読み方)。 この課の問い 道徳の法則を自分に与える理性を、人は実際に自分で使えているでしょうか。誰かに考えてもらう方が楽なとき、人はどうすれば自分で考えるようになるのでしょうか。そして、国と国が戦いをやめない世界で、理性は平和への道筋を描けるのでしょうか。 この課のことば 啓蒙({de:Aufklärung}) 人が、自分のせいで陥っている未成年状態から抜け出すこと。知識を配ってもらうことではなく、自分で自分の知性を使うようになることを言います。 未成年状態({de:Unmündigkeit}) ほかの人の導きなしには、自分の知性を使えない状態。年齢のことではなく、自分で考えようとしない大人の状態も指します。 後見人 人々の代わりに考え、判断してやると買って出る者。カントは、人々を未成年のままにしておく役として描きます。 理性の公的使用・私的使用 公的使用は、学者として、読者の世界全体に向けて書いて論じること。私的使用は、任された役職や持ち場の中で理性を使うことです。今の日本語の公・私とは向きが逆です。 共和的な体制 法をつくる力と、法を実行する力が分けられた国のしくみ。誰が治めるかではなく、どう治めるかの区別で、反対は専制です。 国家の連合 国々が自分から加わり、戦争でなく話し合いで争いを解く集まり。強制の力は持たず、抜けることもできます。 啓蒙と永遠平和――自分で考える人々は、戦争のない世界を築けるか この編の道徳の課で、カントは、道徳の権威は外からの命令でなく、自分の理性から来ると論じました。この章では、その理性を、人が社会の中で実際に自分で使うにはどうすればよいか(啓蒙)、そして国と国の間に理性の法を持ちこむにはどうすればよいか(永遠平和)を読みます。 啓蒙とは何か――自分のせいで陥った未成年状態から抜け出す 「啓蒙とは何か」は、短い定義から始まります。啓蒙とは、人間が、自分に責めのある未成年状態から抜け出すことだ、とカントは言います(8:35) [1] [2] 。未成年状態とは、ほかの人の導きなしには、自分の知性を使えない状態です。 ここでの「未成年」は、年齢のことではありません。自然はとうに人を他人の導きから自由にしたのに、多くの人が一生、好んで未成年のままでいる、とカントは書きます [2] 。体は大人でも、判断は人任せという状態です。 では、なぜそれが「自分のせい」なのでしょうか。原因が知性の不足にあるなら、その人を責めることはできません。カントは原因を、導きなしに知性を使う決心と勇気の不足に置きます [2] 。だから啓蒙の標語は「自分自身の知性を使う勇気をもて」になります。そして、多くの人がとどまる原因として、怠けと臆病の二つを挙げます。 未成年状態は、上から押しつけられるだけではありません。代わりに知性を持ってくれる本、良心を受け持つ牧師、食事を決めてくれる医者がいれば、自分で骨を折らずにすみます。払えさえすれば考えなくてよい、とカントは皮肉ります [2] 。楽だから、人は自分からそこにとどまるのです。 未成年状態と後見人 一人で歩くと転ぶよ 自分で歩き出す =啓蒙 後見人 歩行器の子 後見人 歩けた子 歩行器と、転んで覚える話は本人の例。 二人の大人・扉・奥の子は本教材の描き方。 図 1 「啓蒙とは何か」の歩行器のたとえを絵にしたものです(本教材の絵)。歩行器の中の子は、歩く力がないのでなく、後見人の脅しと楽さから枠を出ません。奥の子のように、何度か転べば人は歩けるようになります [2] 。 後見人を買って出る人々は、この楽さにつけこみます。カントは、彼らが人々を歩行器( Gängelwagen )の中に囲い、一人で歩けば危ないと脅す、と描きます。けれども実際の危なさは、何度か転べば歩けるようになる程度のものだ、と言います [2] (図 1) 。 一人で抜け出すのは難しい、とカントは認めます。それでも、公衆が自分で自分を啓蒙することは、自由さえ与えられれば、ほぼ避けられないと言います。後見人の中にも、自分で考える人が必ず現れ、その考えを広めるからです [2] 。ただし、革命では足りません。革命は一人の専制を倒せても、考え方の本当の改革はもたらさず、新しい偏見が古い偏見と同じように群衆を引く綱になる、とカントは書きます [2] 。啓蒙は、ゆっくりとしか進まないのです。 ここで間違えやすい 啓蒙を、学者が知識を人々に教えて広めること、つまり賢い人に導いてもらうことだ、と取らないようにしましょう。カントの定義では、啓蒙は人が自分で自分の知性を使うことです。誰かの指図にそのまま従うなら、それが正しい指図でも、未成年状態のままです [2] 。他方、人の話を聞くなという意味でもありません。手放してはならないのは、自分で判断する決心のほうです(本教材の読み方)。 理性の公的使用と私的使用――持ち場では従い、書いて論じる場では自由に カントは、当時あちこちで聞こえた声を並べます。将校は「議論するな、教練せよ」と言い、財務の役人は「議論するな、払え」と言い、聖職者は「議論するな、信じよ」と言います [2] 。どこにも自由の制限があります。では、どの制限が啓蒙を妨げ、どの制限は妨げないのでしょうか。 カントの答えは、理性の二つの使い方の区別です。公的使用とは、学者として、読者の世界全体に向けて理性を使うことです。私的使用とは、任された役職や持ち場の中で理性を使うことです [1] [2] 。公的使用は常に自由でなければならず、それだけが人々に啓蒙をもたらします。私的使用は、狭く制限されてもかまいません [2] 。 言葉の向きに注意が要ります。今の日本語なら、職務は「公」、自宅は「私」です。カントは逆に、役職の中での使用を「私的」と呼びます。教会の会衆や軍は、どれほど大きくても限られた集まりで、そこでの仕事は他人から任されたものだからです [2] (図 2) 。 朝・教会の説教壇 私たちの教会は こう教えます 理性の私的使用 任された持ち場で、教会の名で語る (制限されてよい) 夜・自分の机 教えのこの点は 改めるべきでは? 理性の公的使用 学者として、読者全体に向けて書く (常に自由) 図 2 同じ一人の牧師の、二つの理性の使い方です(本教材の絵)。一つ目は、朝の教会で教会の名で説教する私的使用、二つ目は、夜の机で読者に向けて教えの誤りを問う公的使用です。牧師の例は本人のもので、朝と夜・ろうそく・窓の家々は本教材の描き方です [2] 。 例は三つです。将校は、勤務中に命令の当否を論じず、従わねばなりません。けれども学者として、軍務の欠陥を公衆に示すことは拒めません。市民は課された税を払いますが、その不当さを公に論じることはできます。牧師は教会の教えどおりに説教しますが、学者としては、その教えの誤りや改善の案を世に問う自由があります [1] [2] 。 ただし、持ち場での服従にも限りがあります。カントは、教えが自分の内なる宗教に反すると確信するなら、牧師は良心に従って職を辞すべきだ、とも書きます [2] 。持ち場の中で従うのは、その務めを引き受けている間のことなのです。 公的使用は、教会の教えだけでなく、法や国の行いにも及びます。主権者も誤りうるので、市民は、何が国への不正と思えるかを公に知らせる権限を持つべきだ、とカントは後の論文「理論と実践」で言います。このペンの自由は、人民の権利の唯一の守りだというのです(8:304) [1] 。 ここで間違えやすい 公的使用を「公務員として職務で使うこと」、私的使用を「家で個人的に考えること」だと、今の公・私の感覚で取らないようにしましょう。カントの言葉の向きはほぼ逆で、職務の中が私的、読者全体に向けて書くことが公的です [1] 。また、命令や税への服従を説いたから批判を抑える思想だ、と一言でまとめるのも早すぎます。カントは、従いながら公に論じることを、主権者の誤りを正す道と考えています [1] 。 永遠平和のために――国と国の自然状態から抜け出す三つの条項 『永遠平和のために』は、墓地の絵に「永遠の平和へ」と書かれた、オランダの宿屋の看板の話から始まります [3] 。カントが描くのは、その墓地の静けさではない平和です。 国々の上には争いを裁く制度がないので、国々は互いに自然状態、つまり戦争の状態にあり、個人と同じく、そこから抜け出す義務があります [1] (図 3) 。 国と国の自然状態 上に立つ法がなく、戦争の状態にある 六つの予備条項 戦争の種を除く「するな」の法 第一確定条項 各国の体制は共和的であれ 第二確定条項 自由な国家の連合(世界共和国の 代わり) 第三確定条項 世界市民法は訪問の権利にかぎる 永遠平和 最高の政治的善(『人倫の形而上学』) 図 3 『永遠平和のために』の組み立てです(本教材の整理)。予備条項で戦争の種を除き、三つの確定条項で、国の中・国と国・国と外の人の三つの関係に法を持ちこみます。点線の段は、まだ先にある目標です [1] 。 カントはまず、戦争の種を除く六つの予備条項を置きます(8:343〜347) [1] [3] 。次の戦争を見こんだ講和、国の併合、対外のための国債、他国の内政への干渉、後の信頼を壊す戦い方を禁じ、常備軍はやがて廃止せよ、と言います。 次に三つの確定条項が来ます (表 1) 。第一は、各国の体制が共和的、つまり立法と行政が分かれていることです(8:348・8:352) [1] 。戦争を決める人々が、税と血でその代価を払う人々と同じなら、国は戦争を大いにためらうはずです [1] 。 この表で分かること: 三つの確定条項は、国の中・国と国・国と外国の人という三つの関係に、一つずつ法を持ちこみます。どれも善意の勧めでなく、権利の話です。 確定条項 どの関係か 求めること ねらい 第一(8:348) 国の中の市民どうし 共和的な体制 戦争に市民の同意を要する 第二(8:354) 国と国 自由な国家の連合 話し合いで争いを解く 第三(8:357) 国と外国の人 訪問の権利にかぎる 交わりを許し、征服を退ける 表 1 『永遠平和のために』の三つの確定条項(本教材の整理。頁は SEP の挙げるアカデミー版第 8 巻による) [1] [3] 。訪問の権利は、無条件に入国や滞在を許すものではありません。 第二は、自由な国家の連合です(8:354)。理想は強制の力を持つ諸国家の国家、つまり世界共和国ですが、国々はそれを望まないので、抜けることもできる連合が、その「消極的な代わり」になります(8:357) [1] 。 第三は、訪問の権利です(8:357)。人は地球という限られた球の面を分け合うので、よそに来た人を敵として扱ってはなりません。ただしそれは住みつく権利でなく、交わりを申し出る権利で、来た人の破滅を招かない限り、国は来訪を断れます [1] [3] 。カントはここで、ヨーロッパ諸国の植民地支配を不正として退けます(8:358〜360) [1] 。 カントはさらに、自然そのものが平和を保証する、と言います [1] [3] 。ただし、世界共和国と国家の連合のどちらがカントの本当の答えかは、研究者の間で分かれています [1] 。 ここで間違えやすい カントが、世界を一つの国にまとめれば平和になると主張した、と取らないようにしましょう。カントは世界国家を、国々の別々の存在を溶かすものとして退けます [1] 。また、共和制は民主制のことではありません。選挙で選ぶ代表制を最善としつつも、それを共和制の条件にはしていません(8:353) [1] 。 原典を読む 第 1 節の啓蒙の定義を、論文の書き出しで読みます。ドイツ語の原文を本教材が訳しました。 カント「啓蒙とは何か」冒頭 自分自身の知性を使う勇気をもて 書き出しの八つの文は、定義から標語へ、人が未成年にとどまる理由へと進みます。 1 啓蒙とは、人間が、自分に責めのある未成年状態から抜け出すことである。 2 未成年状態とは、他人の導きなしには、自分の知性を用いることができない状態である。 3 この未成年状態が自分に責めのあるものだというのは、その原因が知性の欠けにではなく、他人の導きなしに知性を用いる決心と勇気の欠けにある場合である。 4 「あえて賢くあれ!」自分自身の知性を用いる勇気をもて!――これが、だから、啓蒙の標語である。 5 怠けと臆病こそが、自然がとうに他人の導きから解き放った(自然においては成年である)のに、これほど多くの人々が、それでも