言論の自由――危害原理はどこまで守るか — Epoché
思想 自由・平等・正義 約 28 分 本文 約 12,800 字 図 3・表 2 資料 1 節 この課の要点 原理・根拠・線引きの 3 つ 原理 社会が個人に強制してよいのは、他人への危害を防ぐためだけで、本人のためは理由にならない(ミルの危害原理)。 根拠 黙らせた意見は真かもしれず、一部の真理を含みうる。真の通説も反論が無ければ死んだ教えになる。だから言論は特に守られる。 線引き 線は「話し返す時間があるか」で引く立場と、平等な尊厳などの価値と比べて引く立場に分かれ、権力への不信も論点になる。 はじめに SNS で、ある店が値上げで貧しい人を苦しめていると書く人がいます。特定の国の出身の人々を「出て行け」とののしる投稿もあります。議員の不正を名指しで暴く書き込みもあります。どれも誰かを傷つけたり、怒らせたりしうる言葉です。このうち、法で止めてよいのはどれでしょうか。それとも、どれも止めてはならないのでしょうか。 この課程の『自由』の課では、干渉されないことを自由と見る見方を扱いました。その代表が言論の自由です。日本国憲法 21 条は、集会、結社、言論、出版その他一切の表現の自由を保障し、検閲を禁じています [3] 。ところが刑法は、人の名誉を傷つける言葉を罰しています [4] 。保障は無制限ではないのです。では、守られる言葉と止められる言葉の線は、どこに、どんな理由で引かれるのでしょうか。 この課では、イギリスの思想家 J. S. ミル(1806–1873)が 1859 年に出した『自由論』を手がかりにします。ミルは、社会が個人に強制してよいのは他人への危害を防ぐためだけだ、という原理を立てました。これを危害原理と呼びます。そのうえで、言論は害があっても広く守るべきだと論じました。ただし、意見が害のある行為への直接の煽動になる場面では、止めることを認めています [2] 。 ミルの議論は、160 年以上前のイギリスで書かれたものです。それでも、いまの言論の自由の議論で繰り返し参照されます [1] 。言論を止めてよいかを問うとき、多くの人は「誰かを傷つけるかどうか」を手がかりにしようとします。ミルは、この手がかりを「他人への危害の防止」に絞り、本人への害や本人のためという理由を外して、強制が正当とされる唯一の目的として明確に定式化しました [2] 。ただし、「傷つける」の中身は人によって大きく違います。名誉を傷つけることも、怒らせることも、差別に加担させることも、人によっては危害と呼ばれます。危害原理を使うには、何を危害に数えるのかを決めなければなりません。この課の後半は、その争いを扱います。 現代の議論は、この線をどこに引くかで分かれています。ヘイトスピーチのように、人々の対等な地位を損なう言葉も止めるべきだとする立場があります。他方、止める権限を国に与えること自体が危ういとする立場もあります。本教材は、どちらが正しいかを決めません。それぞれの理由を並べ、日本の法がどの考えに近い形をとっているかを確かめます。 この課の問い 人を傷つけたり怒らせたりする言葉でも、法で止めてはならないのでしょうか。ミルの危害原理は、どこまでの言論を守り、どこで止めることを認めるのでしょうか。 この課のことば 危害原理 社会が個人の行為に強制を加えてよいのは、他人への危害を防ぐためだけだ、という原則です(ミル)。「本人のため」という理由では強制できません。 パターナリズム 本人のためを思って、本人の意に反して行為を止めたり強いたりすることです。親が子の夜ふかしを禁じるようなものです。 煽動 その場の人々を、害のある行為へ直接駆り立てることです。意見を述べるだけのこととの違いが、言論の自由の大きな争点になります。 対抗言論 害のある言葉に、禁止ではなく、言い返す言葉で応えることです。誤った主張に反論の記事を書くのがその例です。 ヘイトスピーチ 出身・人種・宗教などで人々の集団を、劣った者や危険な者として攻撃する表現です。 言論の自由の限界――危害原理はどこで線を引くか この章では、まずミルの危害原理の中身を確かめ、次にミルが言論を特に守った理由を見ます。そのうえで、ミル自身が止めてよいとした場面と、現代の「もっと広く止めるべきだ」という立場、「止める権限こそ危うい」という立場を比べます。それぞれの立場が何を重く見ているかを整理していきます。 危害原理――強制してよい理由は一つだけ ミルは『自由論』の第 1 章で、社会が個人に強制や統制を加える場合を律する「一つのきわめて単純な原理」を掲げます。強制の手段には、法の罰という物理的な力だけでなく、世論による道徳的な強制も含まれます [2] 。その原理とは、人々が個人としてであれ集団としてであれ、誰かの行為の自由に干渉してよい唯一の目的は自己防衛だ、というものです。言い換えると、文明社会の成員に、本人の意に反して力を正当に行使できる唯一の目的は、他人への危害を防ぐことです [2] 。 この原理がまず退けるのは、「本人のため」という理由です。ミルによれば、その方が本人のためになる、本人が幸せになる、他人から見て賢明だ、正しい、といった理由では、強制はできません。それらは本人をいさめ、説き、説得し、頼む理由にはなりますが、強制する理由にはなりません [2] 。人が社会に責任を負うのは、行為のうち他人に関わる部分だけです。自分だけに関わる部分では、本人の独立は絶対であり、ミルは「自分自身に対して、自分の身体と精神に対して、個人は主権者である」と書きます [2] 。本人のための強制をパターナリズムと呼ぶなら、危害原理はパターナリズムを強制の理由から外す原理です (図 1) 。 他人に関わる行為か 自分だけに関わる部分では個人が主権者 他人への危害か 本人のためという理由では強制できない 罰する一応の理由 法の罰か、世論の非難で応えうる 統制の害は大きくないか より大きな害を生むなら責任を問わない 図 1 ミルの危害原理による判定の順(本教材の整理)。他人への危害は強制の「一応の理由」で、統制がより大きな害を生むなら責任を問わないこともあります [2] 。 なぜこの原理が正しいのかについて、ミルは抽象的な権利の考えに頼らないと断っています。倫理の問いのすべてで、究極の訴えは効用だとします。ただしそれは、進歩する存在としての人間の恒久的な利益に基づく、最も広い意味での効用だと言います [2] 。快楽の足し算だけで自由を守るのではなく、人が自分で考え、選び、成長していくことの長い目での利益に訴えているのです。効用に訴えて政治を考える考え方は、後の課『功利主義と公共の利益』で詳しく扱います。 注意したいのは、他人への危害があれば必ず罰してよい、とは言っていないことです。ミルは、他人を害する行為には、法で、あるいは法の罰が安全に使えない所では世論の非難で、罰する「一応の理由」があると言います [2] 。そのうえで、責任を問わない十分な理由がありうるとも述べます。本人の裁量に任せた方が全体としてよく行動しそうな場合や、統制しようとすると、防ぐはずの害より大きな別の害が生じる場合です [2] 。危害は強制の必要条件であって、十分条件ではありません。また、ミルは干渉をすべて嫌ったのでもありません。裁判で証言すること、共同の防衛に公平な分担を負うことのように、他人のための積極的な行為も強制してよいとしています [2] 。 日本の刑法に当てはめてみましょう。刑法 230 条は、公然と事実を示して人の名誉を傷つけた者を、その事実の有無にかかわらず、3 年以下の拘禁刑または 50 万円以下の罰金に処すると定めます [4] 。名誉は本人以外の人の利益なので、危害原理の枠の中で説明しやすい罰です(本教材の整理)。ところが 230 条の 2 は、その行為が公共の利害に関わる事実についてのもので、目的がもっぱら公益を図ることにあり、真実だと証明されたときは罰しない、と定めます。公務員や公選の候補者についての事実なら、真実の証明があれば罰しません [4] 。名誉への害があっても、公共の議論のために罰を控える場合を法が定めた例として読めます(本教材の読み)。 ここで間違えやすい 危害原理を「害を与える言動はすべて罰してよい」という原理と読むのは誤りです。ミルにとって他人への危害は強制の必要条件で、統制がより大きな害を生むなら控えるべき場合があります。逆に、「害が無ければ何をしても非難されない」という意味でもありません。本人のためなら、いさめ説得することは認めています。 なぜ言論を特に守るのか――ミルの四つの根拠 第 2 章「思想と討論の自由」で、ミルは政府が人民と完全に一致していて、人民の声だと思うことしか強制しない場合を考えます。それでも、人民が自分で、あるいは政府を通じて意見を強制する権利を否定し、その権力そのものが不当だと言います。最良の政府にも最悪の政府と同じく、その資格はありません [2] 。一人を除く全人類が同じ意見でも、その一人を黙らせることは正当化されない、という有名な一文はここにあります(資料で確かめるの文 4)。 ミルによれば、意見の表明を黙らせることに特有の悪は、人類全体から、つまり今の世代だけでなく後の世代からも、奪うことにあります。しかも、その意見を持つ人より、反対する人からより多くを奪います。意見が正しければ、誤りを真理と取り換える機会を失います。意見が誤っていれば、誤りとの衝突によって生まれる、真理のより明瞭な理解と生き生きとした印象を失います [2] 。黙らせて損をするのは、黙らされる人だけではない、という論の立て方です。 第 2 章の終わりで、ミルは意見の自由と表現の自由が必要な理由を、四つの根拠にまとめています (表 1) [2] 。第一に、黙らせた意見は、確実に知りうるかぎり、真であるかもしれません。それを否定するのは、自分の無謬を仮定することです。第二に、黙らせた意見が誤りでも、一部の真理を含んでいることがあり、しかもそれはよくあることです。通説が真理の全部であることはまれなので、反対の意見がぶつかってはじめて、真理の残りが補われます。第三に、通説が真で、しかも真理の全部であっても、激しく真剣に争われないかぎり、受け入れる人の多くはそれを偏見のように持ち、理由をほとんど理解しません。第四に、その教えの意味そのものが失われるか弱まり、人格や行いへの力を失って、形だけの告白になってしまいます [2] 。 この表で分かること: 四つの根拠のうち、後の二つは、黙らせた意見が誤りでも成り立ちます。 根拠 黙らせた意見は 失われるもの 無謬の否定 真かもしれない 誤りを真理と取り換える機会 部分の真理 一部の真理を含みうる 真理の残りを補う機会 生きた理解 誤り(通説が全部の真理) 理由の分かった理解 意味の保持 誤り(通説が全部の真理) 教えの意味と行いへの力 表 1 ミルが『自由論』第 2 章の終わりにまとめた四つの根拠(名前は本教材の整理) [2] 。 表1 の後の二つは、黙らせた意見が誤りの場合でも成り立つ根拠です。たとえば、教室で「地球は丸い」と覚えている生徒と、地球が平らだという議論に一つずつ答えたことのある生徒を比べてみます。二人とも正しい答えを持っていますが、後の生徒は、なぜそう言えるのかを知っています(本教材の作例)。ミルが恐れたのは、反論が消えた社会で、正しい考えまでが理由の分からない決まり文句になることでした。 スタンフォード哲学百科事典(SEP)の「言論の自由」の項目は、言論の自由を正当化する理論の一つとして、聞き手の側の利益に訴える理論を挙げます。そのうえで、ミルの議論を、聞き手が得る知識上の利益に訴える道具的な正当化として位置づけます [1] 。同じ聞き手の側でも、国が聞かせる意見を選ぶこと自体が、自分で判断する大人としての市民を軽んじる、と考える理論もあります(スキャンロン 1972 など) [1] 。ミルが結果のよさに訴えるのに対して、こちらは自律の尊重に訴える点が違います。 ミルの議論は、「思想の自由市場」で正しい意見がいずれ必ず勝つ、という考えと結びつけられることがあります。SEP によれば、そうした強い主張を持つ論者は現代には少なく、人間の合理性に限界があることを示す行動経済学や社会心理学の知見とも合いません。ただし、ミル自身がその強い主張を持っていたかは疑わしいとされます(ゴードン 1997)。ミルの要点は、自由な議論が必ず真理に至ることではなく、誰か裁き手が真偽を決めて偽を押さえ込むやり方よりは、真理を確かめるのにましな仕組みだ、ということだったと解説されます [1] 。 SEP はさらに、第 2 章が第 1 章の原理をそのまま言論に当てはめたものではないと指摘します。言論は無害だから危害原理に触れにくい、という議論ではありません。むしろ、言論については危害原理を部分的に修正して、害のある言論の多くもなお認めるべきだとする議論だ、という読みです(ジェイコブソン 2000 など) [1] 。言論を守る理由が、行為を守る理由より一段強く立てられているのです。 ここで間違えやすい ミルの議論を「自由に議論させれば必ず正しい意見が勝つ」という楽観と読むのは誤りです。SEP の解説では、ミルの要点は、真偽を決める裁き手に任せるよりも、自由な議論の方が真理を確かめる仕組みとしてましだ、という比較にあります。 どこで線を引くか――穀物商の家の前の群衆 ではミルは、言論をまったく止めてはならないと考えたのでしょうか。第 3 章の冒頭で、ミルは、行為が意見と同じほど自由であるべきだと主張する者はいないと述べます。それどころか、意見でさえ、表明される状況が、害のある行為への積極的な煽動となるようなものであれば、免除を失うと言います [2] 。そこで挙げるのが穀物商の例です。穀物商は貧しい者を飢えさせる者だ、という意見は、新聞で流されるだけなら妨げられるべきではありません。しかし、穀物商の家の前に集まった興奮した群衆に口頭で語られたり、ビラの形でその群衆に配られたりすれば、正当に罰しうる、とします [2] (図 2) 。 新聞で流す 穀物商は貧者を飢えさせる? 読んで考え、言い返せる 店の前の群衆に叫ぶ 穀物商 あの店のせいだ! 言い返す前に手