クワイン――知識は全体として経験に向き合う(全体論・二つのドグマ) — Epoché
現代 科学哲学と認識論 約 17 分 本文 約 7,200 字 図 4・表 2 原典 1 節 この課の要点 区別・全体・網の 3 つ 区別 語の意味だけで正しい分析的な文と、経験で確かめる総合的な文とを分ける線は、引かれていない。同義性・定義・意味論の規則のどれで説明しても、分析性と同じほど不明な概念に戻ってくる、とクワインは論じた(「経験主義の二つのドグマ」1951)。 全体 外の世界についての文は、一つずつではなく、一つの団体として感覚の経験の法廷に立つ。経験への含みを持つのは理論のまとまりであり、どの文を直すかには幅がある。論理の法則でさえ、直されないとは言えない、とクワインは言う。 網 知識は縁でだけ経験に触れる布のようなもので、算術は網の中心近くにあるので、捨てることが想像できず必然に見える。言語の選択も理論の変更も同じ種類の正当化を持つので、カルナップの寛容の原理は成り立たない、とクワインは論じた。 はじめに クワインはアメリカの論理学者・哲学者で、ハーヴァード大学で学び、そこで 40 年あまり教えました [1] 。最も大きな影響を与えたのは、カルナップをはじめとする論理経験主義者でした [1] 。 論理経験主義は、文を二つに分けます。語の意味だけで正しい文と、世の中の事実を述べ、経験で確かめる文です。経験に左右されないように見える論理と数学の真理は、前の側に置かれました。 クワインは 1951 年の論文「経験主義の二つのドグマ」で、この立場を支える二つの前提を疑いました [2] 。一つは、意味だけで正しい文と経験の文とのあいだに、はっきりした線が引けるという前提です。もう一つは、文は一つずつ経験に確かめられるという前提です。クワインは、この二つを、経験主義者が経験によらずに信じ込んでいる教え、つまりドグマだと呼びました。そして、それに代えて、知識は一つ一つの文ではなく全体として経験に向き合う、という見方を示しました。 この課では、その議論を三つの段階で読みます。線への疑い、全体として経験に向き合う知識、そして網のたとえです。 この課の問い 「独身の男は結婚していない」は、誰かに確かめなくても正しいと分かります。「この部屋は暖かい」は、部屋に入ってみなければ分かりません。この区別は当たり前に見え、カルナップは論理と数学の文を前の側に置きました。けれども、その線は本当にはっきり引けるのでしょうか。また、私たちの文は一つずつ経験に確かめられるのでしょうか。 この課のことば 分析的な文と総合的な文 分析的な文は、含まれる語の意味や言語の規則だけで正しい文です。総合的な文は、言葉の外の事実を述べ、経験で知られる文です。 全体論(ホーリズム) 多くの文は、ほかの文から切り離すと経験への含みを持たず、含みを持つのは理論のより大きなまとまりだ、という考えです。 寛容の原理 正しい言語はただ一つではなく、言語の選び方は観察では決まらないので、哲学者は言語を分析し、別の言語を提案するだけだ、とするカルナップの考えです。 信念の網 知識の全体を、縁でだけ経験に触れ、中心に算術や論理がある網にたとえる言い方です。経験と食い違えば、網のどこかを組み直します。 経験主義の二つのドグマ――文は一つずつ経験に確かめられるのか この課程のカルナップの課では、確かめる道筋の無い文は何も言っていない、とする議論を読みました。そこでは、論理と数学の文は意味と論理だけで正しい文として別に扱われていました。前の課のポパーは、科学の理論は外れうる予言をしなければならない、としました。そして、予言が外れたとき、法則と補助仮説のどちらを疑うかは一つに決まらない、という批判を受けました。 クワインは、論理経験主義の土台そのものに問いを向けます [1] 。この章では、分析と総合の線への疑い、全体として経験に向き合う知識、網のたとえと算術が必然に見える理由、を順に読みます。 第一のドグマ――分析と総合の線は引かれていない 論理経験主義者は、論理と数学がなぜ経験に左右されないように見えるのかを、分析性で説明しました。分析的な文を受け入れることは、その言語を話すことに伴う、というのです [1] 。経験主義を保ったまま論理と数学を説明するための、要の区別でした。クワインは「二つのドグマ」で、分析性を定めるのに使えるほど明確な意味の概念があるかを疑い、いくつかの提案を調べて、どれも足りないとしました [1] [2] 。 論文の初めで、クワインは分析的な文を二種類に分けます [2] 。「結婚していない男は誰も結婚していない」は、語をどう読みかえても正しい論理の真理です。「独身者は誰も結婚していない」は、「独身者」を同じ意味の「結婚していない男」に置き換えれば、前の文になります。だからこちらも分析的だ、と言いたくなります。問題は、この「同じ意味」をどう説明するかです (図 1) 。 ① 分析的 意味だけで正しい文。同じ意味の語に 置き換えれば論理の真理 ② 同義性 では「同じ意味」とは何か。それを 説明しなければならない ③ 定義(辞書) それまでの使い方の同義を 報告するだけで、同義を前提する ④ 入れ替え 入れ替えても真偽が変わらない、と 言うには「必然的に」が要る ⑤ 必然性 その「必然的に」は分析性を前提する。 ①へ戻ってしまう ⑥ 意味論の規則 どの文が分析的かを並べるだけで、 分析的とは何かを言わない 図 1 分析性を説明しようとする試みをたどると、⑤から①へ戻ってしまいます。点線の⑥は輪の外の試みです。疑いの向きはクワインのもので [1] [2] 、段の並べ方と言い方は本教材の整理です。 辞書の定義に頼っても、定義はそれまでの使い方での同義を報告するだけで、同義を前提にしています。入れ替えても真偽が変わらないことで説明するには、「必然的に」を含む言い方が要りますが、その「必然的に」が分析性を前提にしています。人工の言語に意味論の規則を定めても、どの文が分析的かを並べるだけで、分析的とは何かは説明しません [1] [2] 。こうして答えは出発点に戻ります。線がはっきり引けると信じることは、経験主義者が経験によらずに抱く信仰だ、とクワインは結びます [2] 。 この疑いには、もう一つの面があります。カルナップの寛容の原理は、意味の変化を伴う変更(言語の変更)と、そうでない変更(言語の中の理論の変更)を、いつでも分けられることを前提にしていました [1] 。けれども、区別が引けたとしても、分析的な文を捨てる理由がありえます。「力は質量と加速度の積に等しい」のような文を考えると、それを捨てる理由は、総合的な文を捨てる理由と同じ種類になりえます(パトナム 1962 の指摘) [1] 。 ここで間違えやすい クワインが「独身者は結婚していない」を誤りだ、疑わしいと言った、と取らないようにしましょう。疑ったのは文の正しさではなく、「意味だけで正しい」を説明に使えるほど明確な意味の概念です。後年のクワインはかぎられた分析性を認めましたが、認識の上では意味の無い区別だとし、数学は含めませんでした(1991) [1] 。また、意味への懐疑は、意味のある話ができないという主張ではありません。疑われたのは「意味というもの」で、語が有意味であることではありません [1] 。 第二のドグマと全体論――文は一つずつ経験の法廷に立つのではない 第二のドグマは還元主義です。意味のある文はどれも、一つ一つ、それを確かめる経験と反駁する経験の範囲が決まっている、という考えです。文の意味はそれを確かめる経験で与えられる、という一見明らかな見方も、確証が文ごとに決まることを前提にしています [1] 。 クワインはこれを退けます。外の世界についての私たちの文は、一つずつではなく、一つの団体として感覚の経験の法廷に立つ、と言うのです (図 2) 。経験に照らして意味を持つ単位は、一つの文ではなく科学の全体だ、とクワインは第 5 節で述べます [2] 。判決が「経験と食い違う」と出ても、団体の中の誰が責めを負うかは、判決そのものからは決まりません。これは本教材の言い換えですが、法廷のたとえが言おうとしているのはこの点です。 一つ目:一つずつ裁かれる 感覚の経験 この一文を確かめる 順番を待つ 札:水は 100 度で沸く 温度計は正常 ここは 1 気圧 90<100 法廷のたとえはクワイン。札は作例 二つ目:団体として裁かれる 感覚の経験 経験と食い違う 科学の全体 ? ? 水は 100 度で沸く・温度計は正常 ここは 1 気圧・90<100 誰が責めを負うかは決まらない 法廷と団体のたとえはクワイン。札は作例 図 2 一つ目は、一つの文がそれだけで証言台に立つ還元主義の見方、二つ目は、文が団体として経験の法廷に立つ全体論の見方です。二つ目では判決が団体全体に下り、誰を入れ替えるかは判決からは決まりません(法廷と団体のたとえはクワインのもの [2] 。札と人の姿は本教材の作例)。 多くの文は、ほかの文から切り離されては経験への含みを持たず、含みを持つのはたいてい理論のより大きなまとまりです。これが全体論で、それ自体はそれほど争われる説ではありません。カルナップも 1934 年にこれを受け入れていました [1] 。ある観察がある理論の主張を確かめる、と言うとき、私たちは暗にほかの理論の知識を前提しています。クワインによれば、例外はその場の刺激に直に結びつく観察文だけです [1] 。 ここからクワインは、ある主張の正しさは、その主張についての経験の証拠だけでは決まらない、と論じます。その主張が理論全体の効率と単純さにどう寄与するかが効くのです [1] 。これは、カルナップが言語の選択にだけ認めた実用の考慮でした。クワインは、それが知識の全体に働くとする「より徹底したプラグマティズム」をとります [1] [2] 。 そのため、経験と食い違ったとき、どの文を直すかには幅があります。どの文も、ほかの所を十分大きく直せば保てます。逆に、どの文も直されないとは言えません [1] 。前の課のポパーの課で見た「法則と補助仮説のどちらを疑うか」の問題を、クワインは論理と数学を含む知識全体に広げた、と本教材は読みます。 ここで間違えやすい 全体論を、「何でも好きなように直せるので、経験は何も決めない」という主張と取らないようにしましょう。直し方は、経験をうまく扱い予言する方法としての、理論全体の効率と単純さで選ばれます [1] 。また、どの文も同じだけ経験から遠い、というのでもありません。全体論の強い言い方は多くの文について原理の上でだけ成り立ちます。実際には、どんな経験で考えを変えるかがおおよそ分かる文も多いのです [1] 。 網の中心と縁――算術はなぜ必然に見えるのか 論文の最後の第 6 節で、クワインは知識の全体を、縁でだけ経験に触れる人の作った布、あるいは経験を外枠とする力の場にたとえます [2] 。縁で経験と食い違えば、内部のどこかの真偽を割りふり直します。のちに「信念の網」の名でよく知られるたとえです [1] (図 3) 。 知識は縁でだけ経験に触れる網 経験 経験 論理 2+2=4 物理の法則 100 度で沸く 気圧と沸点 温度計は正常 湯が煮立つ 窓の外は雪 どこを直す? 食い違う経験:煮立つのに 90 度 布と力の場のたとえと算術の位置はクワイン 論理を中心に置く描き方・札は本教材の作例 図 3 経験は網の縁にだけ当たり、食い違いの揺れは縁から内側へ伝わって、中ほどで薄れます。糸の多い中心の算術や論理は、直せば網全体が崩れるので直されにくく、必然に見えます(布と力の場のたとえと、算術が中心近くにあることはクワインの論点 [1] [2] 。論理を中心に置く描き方と札は本教材の作例)。 縁の近くの文は特定の経験と強く結びつき、直されやすい文です。中心に近い文ほど多くの部分と結びつくので、直せば体系の大きな作り直しになります (表 1) 。初等の算術は体系的な知識のほとんどあらゆる部分に関わるので、網の中心の近くにあります [1] 。それを捨てることは、知識の体系全体を、まだ思い描きもしない別の体系に替えることなので、想像できません。だから算術は必然に見えます。また、どの特定の経験も「2+2=4」を確かめないので、先験的に見えます [1] 。 本教材の作例で考えましょう。台所で鍋の湯が煮立っているのに、温度計は 90 度を指しています。「水は 100 度で沸く」と信じる人は、どこを直すでしょうか。「この温度計は正常だ」という信念を、狂っているかもしれないと改めるかもしれません。気圧の法則を持ち出すことも、法則を「1 気圧なら」と言い直すこともできます。けれども、「90 は 100 より小さい」を直す人はまずいません。 この表で分かること: 縁の文ほど特定の経験と直に結びつき直しやすく、中心に近い文ほど多くの部分と結びつき、直せば体系の大きな作り直しになります。違いは種類でなく程度です。 網の中の文(作例) 網の中の位置 経験との結びつき 直すと何が起きるか 「この温度計は正常だ」 縁 その場の経験に直に 狂っているかもと改める 「水は 1 気圧で 100 度で沸く」 中ほど 多くの観察とつながる 化学や物理の一部を直す 初等の算術「2+2=4」 中心の近く どの特定の経験も確かめない 知識の体系全体を作り直す 論理の法則 中心 経験全体を通してだけ ほぼすべてを作り直す 表 1 台所の温度計の作例を網の位置で並べたもの。算術が中心近くにあることは SEP の整理によります [1] 。論理を中心に置く並べ方は本教材の整理です。 クワインにとって、言語を新しく作ることも小さな理論の変更も、同じ種類の正当化を持ちます。だから寛容の原理は成り立たず、哲学に科学の外の特別な立場は無い、とされます [1] 。 ここで間違えやすい 「どの文も直されうる」を、「算術も論理も気軽に直してよい」と取らないようにしましょう。中心の文を直すのは体系の作り直しで、実際にはほとんど想像もできません [1] 。また、この主張だけでカルナップと決定的に対立した、とも言えません。カルナップにとっても、どの文も直されえました。ただ、それは言語を変えることだとされました。対立の要は寛容の原理です [1]