クザーヌス――知らないことを知る知がある(知ある無知・反対の一致) — Epoché
近代 ルネサンスと科学革命 約 17 分 本文 約 6,800 字 図 4・表 2 原典 1 節 この課の要点 人物・知の限り・無限の 3 つ 人物 教会法の学者で、公会議と教皇のあいだで働き、のち枢機卿になった。コンスタンティノープルからの帰りの船で着想を得た、と本人が書く『知ある無知』(1440)で、神・宇宙・キリストを一つの見取り図にまとめた。スコラの大全の問答の形によらず、たとえと数学の図で考えた。 知の限り 探究は、知っているものと比べて測ることで進む。だが無限と有限のあいだには比例がない。有限な知性と真理の関係は、円に内接する多角形と円の関係に似る。角を増やすほど円に近づくが、どれだけ増やしても円にはならない。この無知に深く学ぶほど真理に近づく(『知ある無知』I.3)。 無限 それより大きいものがない「最大」は、ありうるものすべてなので、それより小さくもありえない。だから最大と最小は一致する。無限の円の弧は直線になる、と数学のたとえで示す(I.4・I.13)。これは推論を超えた所へ考えを運ぶたとえで、数学の主張ではない。 はじめに ニコラウス・クザーヌス(1401〜1464)は、本業は教会の法律家で、のちに枢機卿になった人です。哲学と神学はほとんど独学でしたが、1440 年の『知ある無知』で、神・宇宙・キリストを一つの見取り図にまとめました。たとえと図形で考える人でした [1] 。 表題の「知ある無知」は、ラテン語で docta ignorantia といい、「学んだ無知」とも言える言葉です。私たちはふつう、知らないことを知の欠けと考えます。クザーヌスは、自分が真理を正確には知りえないことを深く学んだ状態こそ、人が真理に最も近づける知だと言います [1] [2] 。 その考えを支えるのが、二つの図形のたとえです。円に内接する多角形と、限りなく大きくなる円の弧です。目に見える図形を手すりにして、図形では捉えられないものへ考えを運ぼうとするのです。 この課の問い 前の編のエックハルトは、言葉も像も手放した魂の根底で神に至ろうとしました。人は神を、そして物ごとの本当の姿を、どこまで知ることができるのでしょうか。知りえないと分かったとき、その「分かった」こと自体は知と呼べるのでしょうか。 この課のことば 知ある無知(ドクタ・イグノランティア) 自分が物ごとの真理を正確には知りえないことを、よく学んで知っている状態です。ただの無知ではなく、学んで得る無知です。 比例(プロポルティオ) 知っているものと比べ、その割合でまだ知らないものを測ることです。クザーヌスは、探究はすべてこの比べることで進むと言います(『知ある無知』I.1)。 最大(マクシムム) それより大きいものがありえないもののことです。『知ある無知』は、神を「絶対的な最大」と呼びます(I.2・I.4)。 反対の一致(コインキデンティア・オッポシトルム) ふつうは両立しない反対のもの(最大と最小、直線と曲線)が、無限のところでは一つになることです。 縮限(コントラクティオ) 被造物が、有限で特定のあり方として存在していることです。宇宙は神の「縮限された」像とされますが、神そのものが縮んだり分かれたりするのではありません。 推測(コニエクトゥーラ) 人の知る真理はどれも、真理そのものに与りながら正確ではない、という意味での知です。当て推量のことではありません(『推測について』)。 知の限り――知らないことを知るとは何を知ることか クザーヌスの考えは、一本の論証を順に積むより、領域どうしの対応やたとえで進みます [1] 。この章では、生涯と『知ある無知』の着想、多角形と円のたとえ(知ある無知)、最大と最小の一致(反対の一致)を順に読みます。 生涯――教会の法律家が、帰りの船で着想を得る クザーヌスは 1416〜17 年にハイデルベルク大学で自由学芸を学び、パドヴァ大学で教会法を修めて、1423 年に博士となりました [1] 。1425 年からトリーア大司教に仕え、ケルンでは古い文書を調べて、「コンスタンティヌスの寄進状」が 8 世紀の偽作だと示しました [1] 。 1430 年代に司祭となり、バーゼル公会議で名を知られます。『普遍的協和について』(1433)では、合意と代表を重んじ、公会議の権威は教皇に勝ると論じました [1] 。しかし公会議が割れると、最後は教皇の側に移ります [1] 。1437 年には、ギリシアの教会とローマの和解を求める使節の一員として、コンスタンティノープルへ渡りました [1] 。 その帰りの海の上で、『知ある無知』の着想が一種の神の啓示のように訪れた、とクザーヌス自身が伝えています [1] 。本書の巻末に添えた、チェザリーニ枢機卿宛ての書簡です。長く様々な学説の道をたどっても届かなかった所へ、上からの賜物に導かれた、という趣旨です [2] 。捉えられないものを捉えられない仕方で抱くことが、そこで示されたといいます [2] 。 1401 年 モーゼル河畔のクースに生まれる 1423 年 パドヴァで教会法の博士となる 1433 年 バーゼル公会議で『普遍的協和に ついて』 1437 年 使節の帰りの船で着想を得たと 本人が書く 1440 年 『知ある無知』。没年までの 24 年の著作期へ 1442〜43 年 『推測について』 1448 年 枢機卿に就任(指名は 1446 年) 1450 年 ブリクセンの司教。『無学者』の 対話 1453 年 『神を観ることについて』 1464 年 アンコーナへ向かう途中の トーディで没 図 1 クザーヌスの生涯と主な著作(SEP の伝記による [1] )。主な哲学の著作の 24 年は、1440 年の『知ある無知』から没年までを数えたもので、1437 年の着想とは区別しています。 主な哲学の著作は、1440 年に『知ある無知』が出てから、1464 年に没するまでの 24 年間に書かれました [1] (図 1) 。『推測について』(1442〜43)、『無学者』の三つの対話(1450)、『神を観ることについて』(1453)などです [1] 。その間、1446 年に枢機卿に指名され、1448 年に就任しました。1450 年にはティロルのブリクセンの司教になりましたが、教会の改革の試みは多くが実りませんでした [1] 。 『知ある無知』の組み立ては簡潔です。第 1 巻は神、第 2 巻は宇宙、第 3 巻はキリストを扱い、三つを「最大」という一つの言葉で結びます [1] (表 1) 。神は絶対的な最大、宇宙は縮限された最大、キリストはその両方を合わせた最大です。今の私たちのように哲学と神学を分けず、一つの見取り図にまとめた本です [1] 。 この表で分かること: 『知ある無知』の三つの巻は、「最大」という一つの言葉を、神・宇宙・キリストに当てはめて組み立てられています。 巻 扱うもの どんな最大か 鍵の言葉 第 1 巻 神 絶対的な最大 反対の一致 第 2 巻 宇宙 縮限された最大 包み込みと展開 第 3 巻 キリスト 絶対的かつ縮限された最大 二つの最大の結びつき 表 1 『知ある無知』の三巻の組み立て。SEP の整理によります [1] 。 ここで間違えやすい 「ルネサンスの人」と聞いて、古典を愛でる人文主義の文人や、教会から離れた思想家を思い浮かべないでください。クザーヌスは枢機卿で、関心の中心は神と被造物の関係でした。その一方で、大全の問答の形をとらず、たとえと図形で考える点で、中世のスコラ哲学とも違います [1] 。「中世とルネサンスの境」は本教材の読み方です。 知ある無知――多角形は円に近づくが円にはならない クザーヌスはまず、知るとはどんな働きかを問います。私たちは、確かなものと比べ、その割合で不確かなものを判断します。だから探究はすべて比べることで、 比例 を使います(『知ある無知』I.1) [2] 。知らない町の広さを、よく知る自分の町の何倍かで見当をつけるようなものです(本教材の例)。SEP の整理でも、クザーヌスは人の知を「測ること」として捉えています [1] 。 ところが、無限と有限のあいだには比例がありません(I.3) [1] [2] 。有限なものどうしなら、より大きいもの、より小さいものと比べて差を詰めていけます。しかし、それより大きいものがいつもある所では、どこまで行っても最大そのものには届きません。また、二つのものはどれほど似ていても、もっと似ることができます。測るものと測られるものは、いつも違いを残すのです(I.3) [2] 。 ここで多角形と円が出てきます (図 2) 。真理は、より多くもより少なくもない、分けられない一つのものです。円でないものが円をぴたりと測れないように、真理そのものでない知性は、真理を正確には捉えられません。円に内接する多角形は、角を増やすほど円に似てきます。それでも、円と一つになるのでなければ、どれだけ増やしても円と等しくはなりません(I.3) [2] 。 知性と真理は、多角形と円に似る 角を増やすほど円に近づく 4 辺 8 辺 16 辺 64 辺 その先 まだ隙間が残る 多角形の列=私たちの知 円=真理(塗りは隙間) どこまで増やしても 円そのものにはならない 辺の数と拡大鏡は本教材の描き方 図 2 『知ある無知』I.3 の多角形と円のたとえを絵にしたものです(辺の数と拡大鏡は本教材の描き方)。円と多角形の隙間を塗っています。右へ行くほど隙間は細くなりますが、拡大すると、64 辺でもまだ隙間が残っています。 そこから出る結論はこうです。私たちが真理について知るのは、それが正確には捉えられないということです。物ごとの本当のあり方は、多くの哲学者が探しましたが、そのままの姿で見つけた人はいません。この無知に深く学ぶほど、私たちは真理に近づく、とクザーヌスは言います(I.3) [2] 。 第 1 巻の初めには、本人の例もあります。太陽を見ようとするフクロウのように、私たちの目は、最も明らかなものに対してかえって見えません。それでも知りたいという望みは、むだに与えられたのではありません。だから私たちは、自分が知らないことを知りたいと望むのだ、と言います(I.1) [2] 。図2 で言えば、隙間が細くなることと、隙間が消えないことの両方を見るのが、知ある無知です(本教材の読み方)。 ここで間違えやすい 「知ある無知」を、どうせ分からないのだから探すのをやめよ、という諦めや懐疑と取らないでください。多角形は、角を増やせば確かに円に近づきます。のちの『推測について』でクザーヌスは、人の知を、真理に与りながら正確ではない「推測」とし、深めていけるものとして扱います [1] 。また、数学の概念だけは人が自分で作るので正確でありうる、とも考えました(『無学者 精神について』) [1] 。なお今の数学では、角を限りなく増やした先の極限は円そのものとされます。たとえの要点は、角を増やしてたどり着くどの多角形も円ではない、ということです(本教材の補足)。 反対の一致――無限の円の弧はまっすぐになる 第 1 巻は、神を「絶対的な最大」と呼びます。最大とは、それより大きいものがありえないものです(I.2) [2] 。「絶対的」は、ここでは語源どおり「限りから解き放たれた」の意味です [1] 。絶対的な最大は、ありうるものすべてを現に持っています。だから、より大きくなれないのと同じ理由で、より小さくもなれません。最小とは、それより小さいものがありえないものです。すると、最大と最小は一致します(I.4) [2] 。 量で考えると分かりにくいので、クザーヌスは量を外す手順を示します。最大の量は最も大きく、最小の量は最も小さいものです。そこから「大きい」「小さい」を頭の中で取り去ると、どちらにも「最も」という最上のことだけが残り、二つが一致するのが見えてくる、というのです(I.4) [2] 。SEP は、最大も最小も、心を多い・少ないの領域の外へ連れ出し、最上という一つの意味に行き着く、とまとめています [1] 。 これが 反対の一致 です。反対のものが当てはまるのは、より大きい・より小さいを持つものだけです。最大はすべての反対を超えるので、矛盾するものを一つに結べない私たちの推論では捉えられません(I.4) [2] 。SEP は、神のあり方は矛盾律の支配する領域の外にある、という含意を読み取ります [1] 。 それでも、目に見える手がかりはあります。クザーヌスは数学の図形を三段で使います。まず有限の図形の性質を考え、次にそれを無限の図形へ移し、さらにどんな図形でもない無限そのものへ移すのです(I.12) [2] 。代表が円と直線です。大きな円の弧ほど、曲がりは小さくなります。だから、それより大きくなれない最大の円の周は、最も曲がらず、最もまっすぐです(I.13) [2] (図 3) 。 曲がりが最小=まっすぐさが最大 『知ある無知』I.13 の図にならう 数学では無限の円は描けない 無限へ考えを運ぶたとえ(SEP 2.1) 線 ab 無限の円の弧=まっすぐな線 cd 大きい円 ef 中の円 gh 小さい円 円が大きいほど曲がりが減る 図 3 『知ある無知』I.13 の図にならって、大きさの違う円の弧を一本の線に下から接するように重ねたものです。円が大きいほど弧は平らになり、無限の円の弧はまっすぐな線と一つになる、と考えを運びます。数学の主張ではなく、たとえです [1] 。 クザーヌスは、大きさの違う円の弧 cd・ef・gh と線 ab を描いた図を添えて、これを目で確かめさせます(I.13) [2] 。無限の線では、曲がりはまっすぐさに対立しません。曲がりがそのまままっすぐさなのです。曲がりが最小になる所で、まっすぐさが最大になり、反対の二つが無限の所で一つになります。 ここで間違えやすい 反対の一致を、この世界の中で矛盾が本当に成り立つという主張や、数学の定理と取らないでください。SEP が言うように、無限の円が直線と一致するのは数学では成り立たない話で、有限を超えて無限へ考えを運ぶためのたとえです [1] 。また、被造物が神と一致するのでもありません。神の中で、すべてが神として一つであるということです [1] 。 原典を読む 第 1 章の二つ目の