見取り:ムーア・論理実証主義/オースティンと言語行為/指示の議論とクリプキ — Epoché
解説 日常の確かさと、哲学的分析 ムーアは、手があるなど日常の確かだと思われる知識を重んじた。ただし、日常の主張が正しいことと、その分析が正しいことは別である。 二つの手を示す議論だけで、懐疑論や、物の経験からの独立性が全て決着したとはしない。 出典2 経験から、何を確かめられるか ウィーン学団は、論理・数学の形式的な正当化と、経験科学の主張への経験的な支持を分けた。意味のある主張を分ける検証の基準は、科学の一般法則も認めるため緩められた。 全員同じ思想ではない。今すぐ観察できないものは全て無意味、という基準でもない。科学を残して形而上学を排する基準には難問が残った。 出典4 言う内容、行うこと、生じた効果 オースティンは、言葉で述べる内容、約束や警告として行うこと、その結果相手を説得することを区別した。同じ内容でも、約束と報告では行為が違う。 発音するだけで儀式や約束が必ず成立するわけではない。状況や資格なども関わり、記述と行為を文の形で完全に二分もしない。 出典1 名前は、その人の説明と同じか クリプキは、人名をその人についての説明と同じ意味にする考えを批判した。ソクラテスがプラトンを教えなかったとしても、別人になるとは限らない。名前の伝わり方も指示を考える手がかりとなる。 意味から知れることと、別様でもありえないことは別問題。記述が誤れば必ず指示が失敗するわけでも、名前の理論が一つに決まったわけでもない。 出典3 同じ言語への関心でも、区別する点は違う 論者・流れ 注目する区別 ムーア 日常の知識と、その分析 ウィーン学団 形式的正当化と、経験的支持 オースティン 内容・行為・結果の効果 クリプキ 名前が指す人と、その人の説明 共有する問いと違う焦点の見取り。歴史が一方向に進歩する図ではない。 参考文献 [1] Guy Longworth「John Langshaw Austin」。 出典 [2] Tom Baldwin「George Edward Moore」。 出典 [3] Sam Cumming「Names」。 出典 [4] Thomas Uebel「Vienna Circle」。 出典