8.154 自由論 一 — 全員が一つの意見でも — Epoché
この篇でできるようになること ★ 論の地図を本文に置く 書き方が読める。 ★ 極端な場合を作って主張する 形が分かる。 ★ 害を受けるのは誰か を数え直せる。 ★ 片づけるものを先に片づける 段取りが分かる。 前提 : 8.153 まで。型は 3.48 まで。 読む前に ★ 一八五九年のイギリス です。★ ミルは、 政府の検閲 ではなく 世の中の空気 を相手にしています。 ★ だから、 政府の話を最初に片づけます 。 ★ 8.147 読編 でロックが「扱わないこと」を書いたのと、同じ働き です。 ★ 読むときの手がかりを置きます。 ★ この篇の途中に、 論の地図 が置かれます ——★ 「二つの仮定を分けて考える必要がある」。 ★ その一文を見つけたら、 そこから先は地図のとおりに進む と思って読んでください。 ★ 9.13 論編 の「長い論の地図」の、いちばんはっきりした手本 です。 原文 原文は別の文書にあります(作品ページの「原文」)。本文は 1402 語、文は 42 本、一文の平均は 33.4 語、いちばん長い一文は 105 語です。 ★ 「意見」が 26 回、「誤りうる」に関わる語が 9 回 出ます。 全訳 原文の全訳です。この課程のために、原文に沿って訳しました。番号は原文の段落の番号で、原文と行き来できます。 腐敗した政府や暴虐な政府に対する守りの一つとして、「出版の自由」を擁護する必要があった時代は、願わくはもう過ぎ去ったと思いたいものです。利害の上で人民と一つになっていない立法府や行政府が、人民に意見を押しつけ、どんな教えや、どんな議論を聞くことを許すかを決めることを認めるべきではない、ということについては、今ではもう何の論証も要らないと考えてよいでしょう。そのうえ、問題のこの面は、先人の書き手たちによってたびたび、しかも勝ち誇るように説かれてきたので、ここでとくに言い立てる必要はありません。出版についてのイングランドの法は、今日でもテューダー朝の時代と同じくらい卑屈なものですが、それが政治の議論に対して実際に発動される危険はほとんどありません。ただし、反乱への恐れから大臣や裁判官が分別を失うような、一時の恐慌のときは別です。そして、一般的に言えば、立憲政体の国々では、政府が人民に完全に責任を負うものであってもなくても、意見の表明を統制しようとたびたび試みることは、心配するに及びません。ただし、そうすることで政府が世間一般の不寛容の代弁者となるときは別です。そこで、政府が人民とまったく一つであり、人民の声だと考えるものに沿う場合でなければ、強制の力をふるおうとは決して思わない、と仮定しましょう。しかし私は、人民がそのような強制をふるう権利を、自分たちでふるうにせよ、自分たちの政府を通じてふるうにせよ、認めません。その力そのものが正当ではないのです。最良の政府にも、最悪の政府と同じく、その力を持つ資格はありません。その力は、世論に沿ってふるわれるときにも、世論に逆らってふるわれるときと同じくらい、あるいはそれ以上に有害です。もし全人類から一人を引いた全員が一つの意見で、ただ一人だけが反対の意見だったとしても、人類がその一人を黙らせることは、その一人が、もし力を持っていたとして、人類を黙らせることと同じく、正当ではありません。もし意見が、持ち主のほかには何の値打ちもない個人の持ち物であり、それを楽しむのを妨げられることが単なる私的な損害にすぎないのなら、その損害が少数の人に加えられるのか、多くの人に加えられるのかで、多少の違いが出てくるでしょう。しかし、意見の表明を黙らせることに特有の害は、それが人類から奪うことだ、という点にあります。今の世代からだけでなく、のちの世の人びとからも奪うのです。そして、その意見を持つ人たちからよりも、その意見に反対する人たちから、いっそう多く奪うのです。もしその意見が正しければ、人びとは誤りを真理に取り換える機会を奪われます。もし誤っていれば、人びとは、それとほとんど同じくらい大きな益を失います。誤りとぶつかり合うことで生まれる、真理のより明らかな見え方と、より生き生きとした印象です。 この二つの仮定は、別々に考える必要があります。それぞれに、それに対応する議論の別の枝があるからです。私たちは、自分が押し殺そうとしている意見が誤った意見であると、決して確信することはできません。そして、たとえ確信できたとしても、それを押し殺すことはやはり害なのです。 第一に、権力によって抑えつけようとされている意見は、もしかすると正しいかもしれません。それを抑えつけたい人たちは、もちろんその正しさを否定します。しかし、彼らは誤りえない存在ではありません。彼らには、全人類のためにその問題を決め、ほかのすべての人を判断の手だてから締め出す権限はありません。ある意見が誤っていると確信しているからといって、その意見に耳を貸すのを拒むことは、自分たちの確信を絶対的な確実さと同じものだと決めてかかることです。議論を黙らせることはすべて、自分は誤りえないと決めてかかることなのです。その断罪は、このありふれた論拠に任せておいてよいでしょう。ありふれているからといって、論拠として劣るわけではありません。 人類の良識にとって不幸なことに、人が誤りうるという事実は、理屈の上ではいつも認められているほどの重みを、実際の判断の上ではとても持っていません。というのも、誰もが自分が誤りうることをよく知っていながら、自分自身の誤りやすさに対して何か用心をする必要があると考える人はほとんどおらず、自分がとても確かだと感じている意見が、自分も陥りうると認めている誤りの一例かもしれない、という仮定を受け入れる人もほとんどいないからです。専制君主や、限りない服従を受けることに慣れたほかの人たちは、たいてい、ほとんどすべての事柄について、自分の意見にこうした完全な自信を抱いています。もっと恵まれた境遇にいて、ときには自分の意見に異を唱えられるのを聞き、誤っているときに正されることにまったく慣れていないわけではない人たちは、同じ限りない信頼を、自分の意見のうち、周りの人みなが共有している意見か、ふだんから自分が従っている人たちが共有している意見にだけ置きます。というのも、人は、自分ひとりの判断に自信が無ければ無いほど、たいてい、それだけ「世間」一般の誤りえなさに、疑いもせず信をおいて頼るからです。そして世間とは、一人ひとりにとっては、そのうち自分が接している部分のことです。その人の党派、宗派、教会、社会の階級です。世間が自分の国や自分の時代ほど広いものを指す人は、比べてみれば、ほとんど自由で心の広い人と呼べるくらいです。また、ほかの時代、ほかの国、ほかの宗派、教会、階級、党派が、まさに正反対のことを考えてきたし、今でも考えているということを知っていても、この集団の権威への信頼は少しも揺らぎません。その人は、ほかの人たちの異を唱える世間に対して正しくあるという責任を、自分の世間に負わせてしまいます。そして、こうした数多くの世間のうちのどれが自分の頼る相手になるかを決めたのはただの偶然であり、ロンドンで自分を国教会の信徒にしたのと同じ原因が、北京でなら自分を仏教徒か儒者にしていただろう、ということに、少しも心を乱されません。けれども、どれほど議論を重ねて示しうるのと同じくらい、それ自体で明らかなことですが、時代は個人と同じく、誤りえないものではありません。どの時代も、のちの時代が誤っているばかりかばかげていると見なした多くの意見を抱いてきました。そして、かつて一般的だった多くの意見が今の時代に退けられているのが確かなのと同じく、今一般的な多くの意見が、未来の時代に退けられるだろうことも確かなのです。 この議論に対して出されそうな反論は、おそらく次のような形をとるでしょう。誤りが広まるのを禁じることには、公の権力が自分の判断と責任でなすほかのどんなことよりも大きな、誤りえなさの思い上がりがあるわけではない。判断は、人がそれを使うために与えられている。誤って使われるかもしれないからといって、人は、それをまったく使うべきではない、と言われなければならないのか。自分たちが有害だと思うものを禁じることは、誤りを免れていると主張することではなく、誤りうる身であっても、良心に従った確信に基づいて行動するという、自分に課された務めを果たすことである。もし自分の意見が誤っているかもしれないからといって決してその意見に基づいて行動しないのなら、私たちは自分のあらゆる利益を顧みず、あらゆる務めを果たさないままにしてしまうだろう。あらゆる行いに当てはまる反論は、どの特定の行いに対しても、有効な反論にはなりえない。できるかぎり正しい意見を形づくること、それを注意深く形づくること、そして自分が正しいとすっかり確信しないかぎり決して他人に押しつけないことは、政府の務めであり、個人の務めである。しかし、確信しているときには(こうした論者は言うかもしれません)、自分の意見に基づいて行動するのをためらい、この世であれ、あの世であれ、人類の幸福にとって危険だと本心から思う教えが、何の歯止めもなく撒き散らされるのを許すことは、良心ではなく臆病である。それも、今ほど開けていない時代に、ほかの人たちが、今では正しいと信じられている意見を迫害したことがある、というだけの理由で。同じ過ちを犯さないよう気をつけよう、と言われるかもしれない。しかし、政府や国民は、権力をふるうのにふさわしい対象であることが否定されていないほかの事柄でも、過ちを犯してきた。悪い税を課し、不正な戦争をしてきたのだ。だからといって、私たちは何の税も課さず、どんな挑発を受けても何の戦争もすべきではないのか。人も、政府も、力の及ぶかぎり最善を尽くして行動しなければならない。絶対的な確実さというものは無いが、人の生活の目的にとって十分な確かさはある。私たちは、自分の行いの導きとして、自分の意見を正しいと決めてかかってよいし、そうしなければならない。そして、私たちが誤っていて有害だと見なす意見を広めることで、悪い人たちが社会をゆがめるのを禁じるときにも、それ以上のことを決めてかかっているわけではないのだ、と。 語釈 帯の外の語は 94 語です。★ infallibility (誤りえないこと)・ fallible (誤りうる)・ coercion (力ずくで従わせること)が要 です。★ posterity (のちの世の人びと)も押さえてください ——★ この篇の主張の 射程 を決める語 です。 語(品詞) 意味 注 Buddhist en 形 仏教の The old temple followed Buddhist teachings passed down for centuries. その古い寺院は、何世紀も受け継がれてきた仏教の教えに従っていました。 Churchman en 名 英国国教会の信徒 The old churchman spoke gently to the frightened villagers. その老いた教会の人は、おびえた村人たちに優しく語りかけました。 Confucian en 形 儒教の The scholar based his teaching on Confucian ideas of duty and respect. その学者は、義務と敬意についての儒教の考えに基づいて教えました。 England en 名 イングランド London en 名 ロンドン Pekin en 名 北京 Tudors en 名 テューダー朝の人びと absurd en 形 ばかげた The old judge quickly dismissed the merchant's absurd excuse. その老いた裁判官は、その商人のばかげた言い訳をすぐに退けました。 accordance en 名 合っていること The bridge was repaired in accordance with the council's careful plan. その橋は、評議会の慎重な計画に合っていることに従って修理されました。 accustomed en 形 慣れた The fisherman grew accustomed to the smell of salt and tar. その漁師は、塩とタールの匂いに慣れていきました。 apprehended en 動 懸念される The old constable finally apprehended the thief near the harbor gate. その老いた巡査は、ついに港の門の近くでその泥棒をとらえました。 assurance en 名 確かさ(実用上の) His calm assurance convinced the frightened crew that the ship was safe. 彼の落ち着いた揺るがぬ自信は、おびえた乗組員たちにその船が安全だと確信させました。 certainty en 名 確かさ No one could speak with certainty about when the ship would return. その船がいつ戻るかについて、確かさをもって語れる者は誰もいませんでした。 coercion en 名 力ずくで従わせること The old landlord relied on coercion rather than fair persuasion. その老いた地主は、公正な説得ではなく力ずくで従わせることに頼りました。 collision en 名 ぶつかり合い A sudden collision between two carts blocked the narrow bridge for hours. 二台の荷馬車の突然のぶつかり合いは、何時間もその狭い橋をふさぎました。 condemnation en 名 断罪 The old bishop's condemnation of the practice ended it within a year. その老いた司教のその慣行への断罪は、一年以内にそれを終わらせました。 con