アリストテレス――悲劇は模倣を通して感情を浄める(ミメーシス・カタルシス) — Epoché
古代 アリストテレス 約 18 分 本文 約 7,500 字 図 4・表 2 原典 1 節 この課の要点 模倣・悲劇・カタルシスの 3 つ 模倣 人は子どものころから模倣して最初のことを学び、模倣されたものを見て喜ぶ。実物は見るのもつらい死体や卑しい動物も、精確に描かれた絵なら楽しく見る。描かれたものが何かを推し量って分かるからだ(『詩学』4 章、1448b4–17)。SEP は、詩の起源を神の霊感でなく人の本性に求める点にプラトンとの違いを読む。 悲劇 悲劇は、立派で完結した行いの模倣であり、演じる人々によって、あわれみと恐れを通して、そうした感情のカタルシスを成し遂げる(6 章、1449b24–28)。部分のうち最も大事なのは筋であり、本当らしく結ばれた筋の転換・発見・苦難があわれみと恐れを生む。 カタルシス アリストテレスは悲劇の定義に出るこの語を説明していないので、医学的な排出、過剰を除いて適度にすること、明晰化、慰め、緊張の解放、感情の発露など、読みが分かれる。SEP は、大きな読みには本文の裏づけが乏しく、もっと控えめな読みの方が本文に合うとする(SEP の一つの見方)。 はじめに アリストテレスは、前 384 年ごろ北ギリシアのスタゲイラに生まれ、前 322 年ごろに没しました [1] 。論理学から生物学、倫理学、政治学まで広く論じた彼は、詩と劇についても一冊の講義の書を残しました。それが『詩学』です。現存するのは主に悲劇を論じた部分で、喜劇を扱ったはずの部分は伝わっていません。 当時のアテナイでは、祭りのたびに市民が野外の劇場に集まり、悲劇と喜劇を見ました。悲劇は、神話の英雄たちが取り返しのつかない不幸に落ちていく劇です。観客は身震いし、涙を流しました。それでも人々は、毎年わざわざその劇を見に出かけたのです。 師のプラトンは、こうした劇の力を警戒しました。詩人の模倣は、魂の理性でない部分を育ててしまうと考えたからです [1] 。アリストテレスは、同じ現象をまったく別の向きから見ます。模倣することも、模倣を見て喜ぶことも、人の本性に根ざしていると考えたのです。 SEP の執筆者は、『詩学』の狙いを、詩人に書き方を教えることよりも、読者や観客が、ある劇がなぜよいのかを理由とともに見分けられるようにすることだと読みます [1] 。この課では、模倣の喜び、悲劇の定義、そして定義の中に一度だけ置かれた謎の語「カタルシス」を順に読みます。 この課の問い 死体や卑しい動物は、実物を見るとつらいのに、よく描かれた絵だとなぜ見て楽しいのでしょうか。そして、あわれみや恐れという本来つらい感情を味わう悲劇を、人はなぜわざわざ見に行き、悲劇はその感情に何をする(カタルシス)のでしょうか。 この課のことば 模倣(ミメーシス) 人や出来事のありさまを、言葉・身ぶり・絵・音楽などで写して表すこと。子どものものまねも、絵も、劇も含む広い語です。 悲劇(トラゴーディアー) 立派な人の重大な行いを、役者が演じて見せる劇。語りでなく演技で見せ、韻律と歌をもちます。 筋(ミュートス) 劇の出来事の組み立て。たとえば「使者が来て、正体が明かされ、王が不幸に落ちる」という並びです。アリストテレスは悲劇の部分のうち最も大事なものとします。 筋の転換と発見 筋の転換(ペリペテイア)は、成り行きがめざしたのと反対へひっくり返ること。発見(アナグノーリシス)は、相手との関係などに気づき、無知から知へ移ることです。 あわれみと恐れ(エレオス・ポボス) あわれみは、受けるいわれのない不幸を見て起こる気持ち。恐れは、自分に似た人に取り返しのつかないことが起こりそうなときの気持ちです。 カタルシス もとは「きれいにすること」。宗教の清め、医学の排出、汚れ落としにも使う語です。悲劇の定義に出ますが、アリストテレスは意味を説明しておらず、解釈が争われています。 詩と悲劇――人はなぜ模倣を喜び、悲劇は感情に何をするのか この編の前の課では、人間は本性上ポリス的動物だと見ました。そのポリスの真ん中には劇場がありました。アリストテレスは、劇の力を警戒した師とは違い、模倣を人の本性から説明し、悲劇がどう働けばよい悲劇になるのかを考えます。模倣の喜び、悲劇の定義、カタルシスの順に読みます。 人は模倣して学び、模倣を喜ぶ――詩の二つの自然な原因 『詩学』第 4 章は、詩を生んだ原因を二つ挙げ、どちらも自然によるとします(1448b4–5) [2] 。一つは模倣することです。模倣することは子どものころから人に生まれつき備わっており、人は動物のうち最も模倣を好み、最初の学びを模倣を通して行います(1448b5–8) [2] 。もう一つは、模倣されたものを誰もが喜ぶことです (図 1) 。 まねて、最初のことを学ぶ まねる 人は最初の学びを模倣で行う(4 章) 実物はつらい、絵なら楽しい 実物:見るのもつらい 推し量って分かる 精確な絵:喜んで眺める 見たことがなければ色や仕上げを楽しむ 図 1 詩を生んだ二つの自然な原因を絵にしたものです(本教材の絵)。一つ目の絵では、子どもたちが父と母の手つきをまねて学んでいます。二つ目の絵では、実物の死骸には顔をそむける人が、精確な絵の前では何が描かれているかを見分けて喜んでいます(『詩学』4 章、1448b4–19)。 その証拠に挙げられるのが絵です。最も卑しい動物の姿や死体は、実物を見るのはつらいものです。ところが、きわめて精確に描かれた絵なら、人は喜んで眺めます(1448b10–12) [2] 。学ぶことは哲学者だけでなく誰にとっても最も快く、人は絵を見ながら描かれたものが何かを推し量り、「これはあの人だ」と分かるから喜ぶのです(1448b12–17) [2] 。 ただし、すぐ後に限定が続きます。描かれたものを前に見たことがなければ、模倣としては喜ばず、仕上げや色で喜ぶというのです(1448b17–19) [2] 。SEP は、ここでの「分かる」は新しい知識の獲得ではなく、知っているものを見分ける程度だ、という反論を紹介します [1] 。また少し後で調べとリズムの本能も挙げられるので(1448b20–21)、何を「二つ」と数えるかには争いがあります [1] [2] 。 アリストテレスによれば、詩は、こうした素質に生まれつき最も恵まれた人々が、即興から少しずつ作り出したものです(1448b22–23) [2] 。SEP は、詩人を神の霊感を受けた人とは見ず、模倣の技を人の本性の一部として扱う点に、プラトンとの違いを読みます [1] 。 ここで間違えやすい 「模倣」を、本物より劣った写しを作ること、と取らないようにしましょう。アリストテレスは模倣を、人が学ぶ道であり喜びの源として、人の本性の側に置きます。また、死体の絵の例から、芸術の快はすべて新しい知識を得る喜びだ、と広げるのも行き過ぎです。悲劇に固有の快は、模倣を通してあわれみと恐れから来るとされます(14 章、1453b10–13) [2] 。 悲劇とは何か――あわれみと恐れを通して成し遂げる模倣 第 6 章は悲劇をこう定義します。悲劇とは、立派で完結した、一定の大きさをもつ行いの模倣です。それは語りでなく演じる人々によって、あわれみと恐れを通して、そうした感情のカタルシスを成し遂げます(1449b24–28) [2] 。叙事詩は語りで、悲劇は演技で模倣する点が違います。この定義は「原典を読む」の章で原文から読みます。 定義の中心は「行い」です。行いの模倣が筋、つまり出来事の組み立てです(1450a3–5) [2] 。だから筋は悲劇の目的であり、部分のうち最も大事だとされます(1450a22–23) [2] 。性格をよく表す台詞を巧みに並べても、よく組まれた筋の代わりにはなりません(1450a29–31) [2] (図 2) 。 ① 行い 立派で完結した行い。並に立派な人物が なす ② 筋 出来事の組み立て。一つから次が生じる ③ 転換・発見・苦難 成り行きの反転、無知から知、身内の 間の苦難 ④ あわれみと恐れ 模倣を通して、本物の危険なしに味わう ⑤ カタルシス 定義に出るが、意味は説明されていない 図 2 悲劇の筋が感情を生む流れです(本教材の整理)。①②は 6 章、③は 10・11・14 章、④は 14 章によります。10 章は転換も発見もない単純な筋も認めるので、これはよい複雑な筋の代表の流れです。最後の段は意味が争われているので点線にしました。 よい筋の条件として、SEP は全体・統一・一般性を挙げます [1] 。出来事は単に後に続くのでなく、一つから次が生じるように見えるべきです(10 章、1452a18–21) [2] 。詩人の仕事は、起きたことでなく、本当らしさか必然によって起こりうることを語ることです。だから詩は歴史より哲学的だとされます(9 章、1451a36–38、1451b5–7) [2] 。 感情を生む山場は三つです。成り行きが反対へ転じる筋の転換(11 章、1452a22–23)、無知から知へ移る発見(1452a29–33)、死や大きな痛みをもたらす苦難(1452b11–13)です [2] 。苦難は、兄弟が兄弟を、息子が父を、母が息子を手にかけようとするように、身内の間で起こるときに最も強く働きます(14 章、1453b19–22) [2] 。『オイディプス王』では、王を安心させに来た使者が王の素性を明かし、反対の結果を生みます(11 章、1452a24–26) [2] 。発見が転換と同時に起こる、最もよい例です。 ここで間違えやすい 悲劇を、悪人が罰を受ける劇と取らないようにしましょう。あわれみは受けるいわれのない不幸に、恐れは自分に似た人に向かいます。だから主人公は、並はずれた善人でも悪人でもなく、悪徳でなく過失から不幸に陥る人がよいとされます(13 章、1453a3–12) [2] 。また『詩学』を、書き方の手引きとだけ読むのも狭すぎます。よい詩作には生まれつきの才か熱狂が要るとされ(17 章、1455a32–33) [2] 、SEP は観客の見る目を育てることに狙いを読みます [1] 。 カタルシスとは何か――分かれる読み 定義の「そうした感情のカタルシス」(1449b27–28)を、アリストテレスは『詩学』で説明していません [1] 。語はもとは「きれいにすること」で、宗教の清め、医学の排出、汚れ落としのどれも指しえます [1] 。17 章にはオレステスの清めの儀式としてこの語が出ますが、これは宗教の清めで、感情の働きの説明ではありません(1455b14–15) [2] 。 手がかりは『政治学』第 8 巻です。激しい音楽は興奮しやすい人に治療のようなカタルシスをもたらし、あわれみや恐れを感じやすい人も「ある種のカタルシスと快い軽さ」を受ける、とされます(VIII.7、1342a11–15) [3] 。ただし論じられているのは音楽で、詳しくは詩作の論で述べると予告されています(1341b38–40) [3] 。 そこで読みが分かれます (表 1) 。SEP によれば、ベルナイスは 19 世紀に医学的な排出の読みを強く唱え、ヤンコは過剰を除いて適度にすることと読みました [1] 。ヌスバウムは明晰化、リアは慰め、フェラーリは緊張の解放と読みます [1] 。SEP の執筆者は、大きな読みには本文の裏づけが乏しいとし、劇場であわれみと恐れを外へ出すことかもしれない、という控えめな案を示します [1] (図 3) 。 この表で分かること: カタルシスの読みは、医学的な排出から明晰化や慰めまで大きく分かれます。SEP は大きな読みには本文の裏づけが乏しいとし、控えめな読みの方が本文に合うとみます。 読み カタルシスとは 主な論者 SEP の見方 浄化 感情を医学的に排出する治療 ベルナイス(19 世紀) 悲劇を治療に縮めると批判 純化 過剰を除き適度にする ヤンコ(1992) 強い感情の快と合わない 明晰化 人の境遇が明らかになる ヌスバウム 本文の裏づけがない 慰め 最悪を経て恐れが消える リア(1988) 本人が述べた形跡がない 緊張の解放 高まった緊張がほどける フェラーリ 語句の説明としては足りない 感情の発露 泣き叫び、感情を外へ出す SEP 執筆者の試案 悲劇の働きの説明に合う 表 1 カタルシスの主な読み。論者と評価は SEP の整理によります [1] 。どれも確定した説ではありません。 恐れ、あわれみ、そして軽さ 恐れ・あわれみ 泣いて外へ出す 帰り道の軽さ 排出 適度に整う 明晰化 外へ出す カタルシスはどこの何か(読みは分かれる) 図 3 『オイディプス王』を見る観客の一日を描いた本教材の作例です。劇場で恐れとあわれみを覚え、劇の終わりに泣いて声を上げ、帰り道には胸が軽くなっています。カタルシスをこの流れのどこに置き、何と読むかで読みが分かれます。SEP は、快を劇の後の安堵だけに置く見方を退け、劇場で感情を外へ出すことかもしれないとします。アリストテレス自身はどれとも書いていません。 SEP はさらに、悲劇の快を劇の後の安堵だけにするのはおかしいとします [1] 。観客は本当に身震いし涙を流しますが、模倣の中にいると知っているので、恐れそのものを味わえます。それはプラトンが『ピレボス』48a で触れた、苦と快の混じり合いに近い快だと SEP は読みます [1] 。 ここで間違えやすい カタルシスを、アリストテレスが「心の浄化」として説明した確かな学説だと取らないようにしましょう。悲劇の感情の働きとしては定義に出るだけで、そこでの意味は説明されていません。17 章には宗教の清めの用例があります。表1の読みは確定した同義語の一覧ではなく、解釈の対立です。題の「浄める」も、本教材の言い方として読んでください。 資料の注意:『詩学』の本文と校訂 『詩学』は講義のための覚え書きと考えられ、説明の飛ぶ所が多い書です。この課の原文は、カッセル編の校訂本(1965 年)による電子版です [2] 。校訂者は、写本にあっても後の書き込みとみる語句を印で外しています。原典を読むの章では、その語句を〔 〕に入れて訳しました。 原典を読む 第 1 章の二つ目の節で見た悲劇の定義を、その前後ごと原文で読みます。カタル