8.2 田舎の児、桜の散るを見て泣く事(宇治拾遺物語) — Epoché
この篇でできるようになること 二百三十字の説話を、語釈だけで最後まで読み通せる。 会話の切れ目を「と」「とて」で見つけ、誰の言葉かを言い当てられる。 尊敬語の「〜せ給ふ」から、その文の主語が誰かを補える。 係助詞「ぞ」があっても結びの形が変わって見えない場合があることを、実例で確かめられる。 前提 : 8.1 まで。 読む前に 前の篇と同じ『宇治拾遺物語』巻第一から、もう一つ、比叡山の児の話を読みます。「田舎のちご桜のちるを見てなく事」——教科書では「田舎の児、桜の散るを見て泣く事」と書かれます。話は二百三十字あまり、この課程で読むもののうち最も短いものの一つです。説話集がどういう本かは 世編 1課 に戻って確かめてください。 登場するのは二人だけです。 田舎から出てきた児 と、その様子を見た 僧 。山の桜が満開のところへ強い風が吹き、児がさめざめと泣き出します。僧は「花が散るのが惜しいのだろう」と思って慰めにかかります。ところが児の答えは、まったく別のところから返ってきます。 二つの会話がすれ違う ——それだけの話です。 この話が面白いのは、語り手の立ち位置がはっきり出ているところです。最後の一言 うたてしやな は、話の中の誰の言葉でもなく、語り手が「やれやれ、興ざめなことだ」と口をはさんだ言葉です。都の風流を解さない田舎者を笑う、という平安・鎌倉の貴族の目線が、そのまま残っています。いまの読者から見れば、麦の実りを案じる児のほうがまっとうにも思えますが、 そう読めることと、書かれた当時どう読まれたかは別 です。説話を読むときは、この二つを分けておくと、話が立体的になります。 語釈 ここまでの課程に出ていない語を全部挙げます。読みは現代仮名です。 ゐ中 ja いなか 田舎。都から離れた土地 家族 「ゐ」の読み 音編 1課 ちご ja ちご 寺に預けられ、僧に仕えた少年 家族 身分の語 ひえの山 ja ひえのやま 比叡山。天台宗の総本山 家族 地名 めでたし ja めでたし すばらしい。見事だ 家族 古今異義語 語編 1課 やはら ja やわら そっと。静かに 家族 副詞 などか ja などか どうして。下に疑問・反語をつれる 家族 呼応の副詞 かう ja こう このように。「かく」のウ音便 家族 長音の読み 音編 4課 せ給ふ ja せたまう 尊敬を二つ重ねた言い方。高い敬意 家族 敬語(敬編) おしう ja おしゅう 「惜しく」のウ音便。惜しい 家族 長音の読み 音編 4課 おぼゆ ja おぼゆ 自然とそう思われる。感じられる 家族 古今異義語(語編) 給か ja たまうか 「給ふか」の「ふ」を書かない形。底本のまま 家族 送り仮名の省略 はかなし ja はかなし もろい。あっけない。頼りない 家族 古今異義語(語編) ほどなく ja ほどなく まもなく。すぐに 家族 副詞 うつろふ ja うつろう 色があせる。花が散る 家族 古今異義語(語編) 候ふ ja さぶらう 丁寧の補助動詞。〜ます、〜ございます 家族 敬語(敬編) さのみ ja さのみ それほど。ただそれだけ 家族 副詞 あながちに ja あながちに 無理に。強いて 家族 古今異義語(語編) いかがせん ja いかがせん どうしようもない。「いかが」に「せむ」が応じた形 家族 呼応の言い方 くるしからず ja くるしからず 差し支えない。かまわない 家族 打消の「ず」 辞編 4課 てて ja てて 父。「ちち」のくだけた言い方 家族 人の語 実のいる ja みのいる 実が入る。実る 家族 四段活用 形編 2課 わびし ja わびし つらい。やりきれない 家族 古今異義語 語編 1課 さくりあぐ ja さくりあぐ しゃくりあげる 家族 下二段活用 形編 3課 よよと ja よよと 声をあげて泣くさま 家族 擬態の語 うたてし ja うたてし 情けない。興ざめだ 家族 古今異義語(語編) 述語の印 述語を出てくる順に並べます。 終止形・命令形なら文が切れ、それ以外なら続く ——この見方だけで読めます。 第一段落の述語 のぼりたりける — 児が。連体形に「が」が付いて続きます。 さきたりける — 桜が。連体形+「に」で続きます。 ふきける — 風が。連体形+「を」で続きます。 みて (一つめ) — 児が。連用形。風が吹くのを見たのは児です。 なきける — 児が。連体形+「を」で続きます。 みて (二つめ) — 僧が。連用形で、そのまま第二段落へつながります。同じ「みて」でも主語が入れかわっているところが、この話でいちばん間違えやすい場所です。 第二段落の述語 よりて — 僧が。連用形。 なかせ給ふ — 児が。僧の言葉の中の述語で、文末の「ぞ」を受けています。 ちる — 花が。連体形。 おぼえさせ給 — 児が。下の「か」で問いかけになり、ここで会話の一文が終わります。 うつろひ候なり — 桜が。「なり」の終止形で、会話の一文が終わります。 さぶらふ — 「ぞ」を受けた結びです。ここで僧の言葉が終わります。 なぐさめければ — 僧が。已然形+「ば」で、次の段落へ続きます。 第三段落の述語 ちらん — 桜が。連体形+「は」で続きます。 いかがせん ・ くるしからず — 児が。「くるしからず」の終止形で、会話の一文が終わります。 作たる — ててが。連体形で「麦」にかかります。 ちりて — 花が。連用形。 いらざらん — 実が。打消「ず」+推量「む」の連体形です。 おもふ — 児が。連体形+「が」。 わびしき — 連体形のまま言い切って、会話が終わります。言いさした余情が残る形です。 いひて ・ なきける — 児が。「なきける」も連体形のまま終わり、余韻を残します。 うたてしやな — 語り手が。話の外から口をはさむ一言で、ここで話が終わります。 助動詞と係り結び 過去は前の篇と同じく「けり」だけで、「き」は一度も出ません。 のぼりたりける 、 さきたりける 、 ふきける 、 なぐさめければ 、 なきける ——五つとも「けり」です。最初の二つは完了の「たり」に「けり」が重なった形で、「登っていた」「咲いていた」という続いている状態を表します。「たり」は状態が続いていることを示す助動詞で、動作が終わった一点だけを言う「つ」「ぬ」とは働きが違います。 打消は二つ。 くるしからず の「ず」と、 いらざらん の「ざら」です。後者は下に推量の「む」を続けるための形で、「ずむ」とは言えないので「ざらむ」になります。「実が入らないだろう」と、まだ起きていないことを打ち消しています。 係り結びは三つ隠れています。 などかうはなかせ給ふぞ の「ぞ」、 さのみぞさぶらふ の「ぞ」、そして いかがせん の「か」です。ところが結びの語は「給ふ」「さぶらふ」「せん」——どれも終止形と連体形が同じ形の語なので、 結んでいることが目に見えません 。 切編 4課 で「音で聞き分ける」と言いましたが、四段活用の動詞とサ変では音でも分かりません。係り結びが見えるのは、結びの語が下二段・上二段・形容詞・助動詞「き」「けり」「つ」などのときだけです。次の篇では、その見える例が出てきます。 敬語にも注目してください。僧は児に対して なかせ給ふ おぼえさせ給か と、尊敬語を二重に使っています。児のほうは僧に対して敬語を使いません。 誰が誰に敬語を使うかは、そのまま身分の上下の地図 です。児は貴族の子、僧はその世話をする側——主語が書かれていなくても、敬語のある述語は児の動作だと決められます。 読み上げと音読 原文の文書を開いて、読み上げを聞いてください。この話で読み替えが起きるのは、 ゐ中 がいなか、 給ふ がたまう、 おしう がおしゅう、 うつろひ がうつろい、 候 と さぶらふ がさぶらう、 おもふ がおもう、 いひて がいいて。 おしう は「おしう」と読まずに「おしゅう」と伸ばします。「惜しく」の「く」がウ音便で「う」になり、そのあと「しう」がひとまとまりに溶けた形だからです。 音読では、 僧の言葉と児の言葉を声で言い分けて ください。僧の言葉は丁寧で、語尾に「候」「さぶらふ」が付きます。児の言葉には敬語も丁寧語もなく、「くるしからず」「わびしき」と短く切れます。この差が、そのまま二人のすれ違いです。声に出すと、目で追うより早く分かります。 練習 練習 1 — 述語を囲む 原文の第一段落を書き写し、述語を全部囲んでください。そのうえで、二つある みて の主語をそれぞれ書いてください。 練習 2 — 現代語に直す 児の言葉 我てての作たる麦の花ちりて実のいらざらんおもふがわびしき を、現代語に直してください。「ざら」と「ん」が何を表しているかが分かるように訳すこと。 練習 3 — 音読 原文を三回、声に出して読んでください。三回目は、僧の言葉をゆっくり丁寧に、児の言葉を早口で、言い分けて読んでみてください。 この篇のまとめ 会話の切れ目は「と」「とて」で見つかる。この話では、僧の言葉が「となぐさめければ」、児の言葉が「といひて」で閉じられている。 尊敬語の付いた述語は児の動作。 敬語は主語を教えてくれる 。 係助詞「ぞ」「か」があっても、結びの語が四段活用やサ変だと、形が変わって見えない。 最後の うたてしやな は語り手の一言。話の中の人物の言葉ではない。 次の篇へ 8.3 は「尼、地蔵を見奉る事」です。地蔵に会いたい一心の老尼を、博打打ちがだまして着物を巻き上げる——ところが話はそこで終わりません。七百字あまりと長くなり、会話が十を超えます。誰の言葉かを追う練習として、この課程でいちばん歯ごたえのある一篇です。「こそ」の係り結びが、はっきり形に出る例も出てきます。 答え 練習 1 の答え : のぼりたりける / さきたりける / ふきける / みて / なきける / みて 。一つめの みて の主語は児、二つめは僧です。一つめは「風が激しく吹くのを見て(児が泣いた)」、二つめは「児が泣いたのを見て(僧が近寄った)」となります。 練習 2 の答え : 「私の父が作った麦の花が散って、実が入らないだろうと思うのが、つらいのです」。「ざら」は打消の「ず」で「入らない」、「ん」は推量の「む」で「〜だろう」。二つ合わせて「まだ起きていないことへの心配」を表します。 練習 3 の答え : 読みの目安は、これもいまはむかし、いなかのちごのひえのやまへのぼりたりけるが、さくらのめでたくさきたりけるに——のようになります。 参考文献 『宇治拾遺物語』巻第一「田舎のちご桜のちるを見てなく事」(ja.wikisource.org の校訂本)。パブリックドメイン。漢字は通行の字体に改め、踊り字を開き、会話に「」を補った。出所: https://ja.wikisource.org/wiki/宇治拾遺物語