国民とナショナリズム――想像された共同体 — Epoché
基礎 権力と国家 約 31 分 本文 約 14,200 字 図 4・表 2 資料 2 節 この課の要点 定義・起源・区別の 3 つ 定義 ルナンは国民を、人種や言語ではなく、共有された記憶と共に生きる意志で定義した 起源 近代論では、国民は識字と印刷物が広がった近代に生まれた「想像の共同体」である 区別 ナショナリズムは信念の束、愛国心は性格の特徴として区別でき、法の上の国民(国籍)ともずれうる はじめに オリンピックやサッカーの国際大会になると、多くの人が、会ったこともない選手を「私たちの代表」と呼んで応援します。同じ国に住む大勢の人のうち、一人の人が一生で知り合えるのは、ほんの一握りです。それでも私たちは、知らない人々を「同じ国の仲間」だと感じます。考えてみると、これは不思議なことです。 この課程の『国家』の課では、国家を暴力の独占と主権で定義しました。『社会契約』の課では、国家の力がなぜ正当化されるのかを見ました。けれども、国家を「自分たちの国」と感じるには、その国家を担う「私たち」というまとまりが要ります。このまとまりを、英語では nation(ネイション)と呼びます。 ネイションを大切にし、自分たちのことを自分たちで決めようとする考えが、ナショナリズムです。ナショナリズムは評判の分かれる言葉です。物理学者のアインシュタインは、ナショナリズムを幼い病気、「人類のはしか」と呼んだとされます [1] 。その一方で、民主主義が「誰が人民か」という問いに答えるとき、ネイションの考えがその答えを与えてきた、という見方もあります [1] 。 ここには、古くからある問いが隠れています。国民は、言葉や血筋を同じくする人々として、昔から自然にあるものでしょうか。それとも、ある時代に人々の思いと仕組みによってつくられたものでしょうか。これは国民の起源をどう説明するかという問いです。これとは別に、ある人がどの国民に属するかを何で決めるのか、という所属の問いもあります。生まれで決めるのか、本人の意志や同意で決めるのか、という問いです。二つの問いは関わり合いますが、起源の答えから所属の答えが自動的に決まるわけではありません(本教材の整理)。この課では、二つの問いを分けながら、誰を仲間に数えるか、誰が自分たちの国家を求めてよいか、という政治の問いを考えます。 この課では、まず日本語の「国民」と「民族」という二つの訳語から入り、法の上の国民と心の上の国民を分けます。次に、19 世紀フランスの思想家ルナンの答えを中心に、国民を何で定義するかを考えます。さらに、国民は近代に生まれた「想像された共同体」だという見方と、それへの異論を見ます。最後に、ナショナリズムを愛国心と区別します。資料では、ルナンの講演の一節と、日本の国籍法の条文を読みます。 読み終えたとき、「国民とは何か」という問いに、少なくとも二つの答え方があることを、自分の言葉で説明できるようになることが、この課の目標です。 この課の問い 人々は何によって一つの「国民」になるのでしょうか。そして、ナショナリズムとは何を求める考えなのでしょうか。 この課のことば ネイション 英語の nation。日本語では「国民」とも「民族」とも訳されます。たとえば「日本人」というまとまりを、法の資格ではなく人々の思いの面から見るときの言葉です。 ナショナリズム ネイションの成員は互いに特別な責務を負い、自分たちのことを自分たちで決める資格がある、という信念の束です。独立運動も、その例の一つです。 自己決定 集団が自分たちの事柄を自分たちで決めることです。独立した国家をもつ形も、国の中で自治をする形もあります。 想像の共同体 アンダーソンの言葉です。互いに会ったこともない人々が、心の中で同じ仲間だと思い描くことで成り立つ共同体を指します。 国籍 人が特定の国の構成員であるための法の上の資格です。日本では国籍法が、誰が日本国民かを定めています。 愛国心 自分の国への忠誠や誇りを含む性格の特徴です。ナショナリズムとは区別して論じられます。 ネイション――人々は何によって一つの国民になるのか この章では四つの節で、ネイションの定義と起源を考えます。日常の言葉の使い方から始め、ルナンの定義、近代論と想像の共同体、ナショナリズムと愛国心の区別へと進みます。国民を「法で決まるもの」と見るか「人々の思いで成り立つもの」と見るかに注意して読んでください。 「国民」と「民族」――一つの語の二つの顔 日本語では、英語の nation を「国民」とも「民族」とも訳します。たとえば、ゲルナーの本 Nations and Nationalism の邦訳は『民族とナショナリズム』という題です。一方、ルナンの講演の邦訳は『国民とは何か』という題です。同じ nation が、本によって違う日本語になっています。 本教材の整理として言えば、「国民」は国の構成員という面を、「民族」は文化や出自を共にするという面を強く響かせます。どちらの訳語も nation の一面しか伝えません。そこでこの課では、心のまとまりとしての nation を「ネイション」とも書きます。 まず、法の上の国民から見ましょう。日本国憲法第 10 条は「日本国民たる要件は、法律でこれを定める。」と書きます [5] 。それを受けて、国籍法第 1 条が「日本国民たる要件は、この法律の定めるところによる。」と定めます [4] 。法務省は、国籍を「人が特定の国の構成員であるための資格」と説明しています [6] 。どの範囲の人を国民と認めるかは、国の歴史や伝統、政治・経済の情勢によって異なり、それぞれの国が自ら決めることができる、とも書いています [6] 。日本国籍を得る原因は、出生・届出・帰化の三つです [6] 。帰化は、日本国籍を望む外国人の意思表示に対して、法務大臣が許可を与えることで国籍を与える制度です [6] 。法の上の国民は、生まれで決まるのが基本ですが、本人の意思と国家の許可で加わる道も開かれているのです。 次に、心の上の国民です。ナショナリティ(国民であること)の考えによれば、ネイションとは、互いに特別な責務を負い、政治の上で自分たちのことを自分たちで決める資格を主張する人々の集まりです [1] 。その自己決定は、自分たちの国家をもつ形のこともあれば、別の形の自治のこともあります [1] 。こうした主張は、しばしば拒まれます。そのため、ある集団がネイションに当たるかどうか自体が、争いになることがあります [1] 。ウクライナが独立したネイションなのか、ロシアの一地方にすぎないのか、というウクライナとロシア政府の争いはその一例です [1] 。 法の上の国民 (国籍) 心の上の国民 (ネイション) 国籍法の定める 要件で決まる 共有の記憶と共に 生きる意志 国の構成員である ための資格 特別な責務と 自己決定を求める 人々 条文で線がはっきり 引かれる 線そのものが 争われうる 図 1 法の上の国民と心の上の国民(本教材の整理)。上から、何で決まるか・何であるか・線の引き方の順にそろえています。 二つを分けると、何が見えるでしょうか。法の上の国民は、条文で線がはっきり引かれます。心の上の国民は、線そのものが争われることがあります。そして二つの線は、いつも重なるとは限りません(本教材の整理)。国籍をもちながら、別のネイションへの帰属を強く感じる人もいます。逆に、ある国で育ち、その国の仲間だと感じていても、国籍をもたない人もいます。また、どの範囲を国民とするかは各国が自分で決めるので、一人の人が二つの国の国籍をもつこともあります [6] 。法の線は国ごとに引かれ、互いにぴったりつながってはいないのです。 日本の例を見ましょう。2019 年に公布されたアイヌ施策推進法の第 1 条は、アイヌの人々を「日本列島北部周辺、とりわけ北海道の先住民族」と書いています [7] 。そのうえで、「アイヌの人々が民族としての誇りを持って生活することができ」る社会と、「全ての国民が相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する社会」の実現を、法律の目的に掲げます [7] 。一つの国の国民の中に、民族としての誇りをもつ人々がいることを、法律そのものが前提にしているのです。ここでは「国民」と「民族」が、一対一には重なっていません(本教材の整理)。 ここで間違えやすい 「国民」という語は、国籍をもつ人という法の意味でも、心のまとまりという意味でも使われます。どちらの意味で話しているかを確かめないと、議論がすれ違います。この課でも、法の意味のときは「国籍」「法の上の国民」と言い分けます。 客観か主観か――ルナンの答えと残る問い では、人々は何によって一つのネイションになるのでしょうか。一つ目の答えは、目に見える特徴で決めるものです。人種・言語・宗教など、一つかいくつかの特徴を共有していれば、それがネイションの必要十分な条件だ、という考えです [1] 。ナショナリズムの擁護者の中には、こうした特徴の一つを重く見る人がいるので、人種ナショナリズムや言語ナショナリズムといったものがありえます [1] 。 この考えを退けたのが、フランスの思想家エルネスト・ルナンです。ルナンは 1882 年 3 月 11 日、ソルボンヌで「国民とは何か」という講演をしました [2] 。そこで彼は、人種・言語・宗教などの客観的な特徴を、ネイションの本質ではないとして脇に置きました [1] 。代わりに挙げたのは、豊かな記憶の遺産を共にもつことと、現在の同意、つまり共に生きたいという願いの二つです [1] [2] 。この部分は、資料 1 で本人の言葉を読みます。 言語についてのルナンの論じ方を見てみましょう。彼によれば、言語は人々が集まるよう誘いますが、集まることを強いはしません [2] 。アメリカ合衆国と英国、スペイン語圏のアメリカ大陸とスペインは、同じ言語を話しても一つの国民ではありません [2] 。逆にスイスは、三つか四つの言語をもちながら、各部分の同意によってつくられたので、よくまとまっていると彼は言います [2] 。人の中には言語より上のものがある、それは意志だ、というのがルナンの結論です [2] 。講演の結びでは、人は人種にも言語にも宗教にも、川の流れにも山脈の向きにも縛られた奴隷ではない、と述べます [2] 。 J. S. ミルも、少し違う形で同じ問題を考えました。ミルは、国民の感情はさまざまな源から生まれると論じました [1] 。人種と血統の同一、言語の共通、宗教の共通、地理的な境界、そして「最も強い」源として、政治の前歴の同一です [1] 。政治の前歴とは、国民の歴史をもち、過去の同じ出来事について誇りと屈辱、喜びと悔いを共にすることです [1] 。ミルは具体例を挙げて、これらのどれも、ネイションの必要条件でも十分条件でもないことを示しました [1] 。 国民の条件 何があれば一つのネイションと 言えるか 客観の基準 人種・言語・宗教などの特徴を共にする 主観の基準(ルナン) 記憶の遺産の共有と、共に生きる意志 第三の見方 記憶と意志に、近隣との政治的な違いの 信念を足す 図 2 何があれば一つのネイションか――三つの見方(本教材の整理)。上は人種・言語・宗教などの客観的な特徴を重く見る見方、中は記憶の共有と共に生きる意志という主観的な条件を重く見る見方、いちばん下はルナンの条件に一つを足す見方です。 では、ルナンの主観の条件だけで十分でしょうか。SEP の著者は、ここで第三の見方もありうると論じます [1] 。記憶の共有と、共に生き続ける意志は、ネイションの必要条件ではあっても十分条件ではない、という見方です [1] 。たとえば、アーミッシュのような宗教集団も、記憶と共に生きる意志をもっています [1] 。ネイションであるには、自分たちが近隣の人々と政治的に意味のある点で違う、と信じていることが要ります。しかもその信念は、違いを誇張することはあっても、まったくの誤りではありえない、とこの見方は考えます [1] 。 自己決定を望む意志さえあればネイションだ、と言えるでしょうか。それは緩すぎる、と SEP の著者は論じます [1] 。もしテキサスの住民の大多数が米国からの独立を望むと宣言したら、それだけでテキサスがネイションだと決まってしまうからです [1] 。ギルバートは、ネイションとは国家をもつ(推定上の)権利をもつ集団だ、と定義しました。この定義は、ネイションかどうかを規範の問題に変えます [1] 。これに対しては、スコットランドの例で反論できます。まずスコットランドの人々が文化や集団の記憶でほかの英国の人々とどう違うかを調べ、そのうえで、その違いが独立の要求を正当化するほど大きいかを問うほうが自然だ、というのです [1] 。 本教材の整理として言えば、客観の基準は分かりやすい代わりに、反例が多くあります。主観の基準は柔軟な代わりに、意志さえあればどんな集団でもネイションなのか、という問いを残します。現在の議論の多くは、この二つの間のどこかに立っています。 ここで間違えやすい ルナンの「日々の人民投票」は、国民が実際に毎日投票しているという意味ではありません。ルナン自身が「この比喩を許していただきたい」と断っています [2] 。国民のまとまりが、生まれで一度決まるのではなく、人々の同意で確かめ続けられるものだ、というたとえです。 想像された共同体――国民はいつ、どう生まれたか ルナンは講演の中で、ネイションは永遠のものではなく、始まりがあり、やがて終わる、とも述べています [2] 。では、ネイションはいつ生まれたのでしょうか。社会科学では、この問いに大きく二つの見方があります [3] 。 一つ目は近代論です。ナショナリズムは近代に、国民国家とともに生まれたと考えます [3] 。現代でこの見方を切り開いたのは、ゲルナーです [3] 。ゲルナーにとって、ナショナリズムと国民国家は時を同じくして現れ、どちらも近代化と産業化の産物です [3] 。ほかにも、近世の国家の役割を強調したティリー、絶対王政の国家による行政の集中を重く見たギデンズ、そしてホブズボームが、近代論の重要な著作を書きました [3] 。この課程の『近代国家の成り立ち』の課で見た、戦争が国家をつくったという議論