エレアのゼノン――運動は矛盾を含む(アキレスと亀の逆説) — Epoché
古代 ソクラテス以前の哲学 約 19 分 本文 約 7,800 字 図 4・表 2 原典 1 節 この課の要点 何を論じたと伝えられるか(議論の中身)・なぜ論じたのか(目的をめぐる読み方)・何を後に残したか(影響)の 3 つ 何を論じたと伝えられるか(議論の中身) ゼノンは、走者は半分の地点を無限に通らねばならない、アキレスは亀に追いつけない、飛ぶ矢は止まっている、などの逆説で、運動が矛盾を含むことを示したと伝えられる(主な報告はアリストテレス『自然学』6.9)。 なぜ論じたのか(目的をめぐる読み方) 目的は「パルメニデスの一者論の擁護」と言われてきたが、それはプラトン『パルメニデス』の若いソクラテスの推測に拠る。同じ対話篇でゼノン自身は、パルメニデスを嘲る人々に「多がある」側のほうがもっとおかしいと示し返した、と答えている。解釈は分かれる。 何を後に残したか(影響) 逆説は、背理法と無限後退の論じ方を哲学に残し、アナクサゴラス(無限分割を認める)や原子論者(認めない)、アリストテレスの連続体論に、と伝えられる仕方で大きな影響を与えた。 はじめに エレアのゼノンは、南イタリアの町エレアで、前 5 世紀半ばに活動したと伝えられる哲学者です。前の課で読んだパルメニデスの、年下の仲間でした。生まれは前 490 年ごろと推定されています。プラトンの対話篇『パルメニデス』が、パルメニデスを 65 歳ほど、ゼノンを 40 歳近く、ソクラテスをまだ若者として描いていることからの推定です [1] 。 ゼノンの著作は残っていません。私たちが知る彼の議論は、プラトンやアリストテレス、そして注釈者シンプリキオスらの報告を通したものです [1] 。とくに運動についての議論は、アリストテレス『自然学』第 6 巻第 9 章の、ごく短い要約にほぼ頼っています [2] 。 ゼノンの名を今に伝えているのは、運動についての 逆説 です。走る人はゴールに着けない。足の速いアキレスは亀に追いつけない。飛んでいる矢は止まっている。どれも、明らかにおかしな結論です。ところが、その結論に至る筋道を一歩ずつ見ると、どの段もごく当たり前の考えでできています。どこが間違っているのかを言い当てるのは、思いのほか難しいのです。 この課では、アリストテレスの報告に沿って、三つの逆説を順にたどります。そのうえで、ゼノンがなぜこのような議論をしたのかという目的の問題と、逆説が後の自然学に残した「ものはどこまでも分けられるか」という問いを考えます。 この課の問い 「動く」というごく当たり前のことを、筋道どおりに考え詰めると、なぜ「動けない」という結論が出てしまうのでしょうか。そしてゼノンは、その逆説で何をしようとしたのでしょうか。 この課のことば 逆説(パラドクス) みんなが思っていること(ドクサ)に反する(パラ)結論を、もっともらしい筋道で導いてみせる議論。 背理法 相手の前提をいったん認め、そこからおかしな結論が出ることを示して、前提のほうを退ける論じ方。 無限分割 どんなに小さな長さでも、さらに半分に分けられる、という考え。 今(いま) 時間の中の、幅のない一瞬。アリストテレスは、時間をこの一瞬の寄せ集めとみる見方を退けました。 連続 長さや時間が、切れ目なくつながっていて、どこまでも分けられる、というあり方。 運動の逆説――「動く」は筋の通った考えか 前の課のパルメニデスは、「あるものはあり、ないものはない」と論じました。仲間のゼノンは、自分の説を新しく立てるよりも、相手の考えを突く道を選んだと伝えられます。ふつうの人が信じている「ものは多くあり、動く」という考えを筋道どおりにたどると、矛盾が出てしまう。それを示してみせたのです [1] 。 この章では、アリストテレスが伝える運動の逆説のうち、三つを順に読みます。四つ目の「動く列」は、表で短く触れるだけにします。 半分の半分――ゴールに着く前に無限の地点がある(二分法・競走路) 一つ目の逆説は、「二分法」または「競走路」と呼ばれます。競技場の走路を、端から端まで走ることを考えてください。アリストテレスの短い報告と前後の言及をもとに再構成すると、ゼノンの議論は次のようになります(『自然学』6.9, 239b11–13) [1] [2] 。 まず、ゴールに着くには、その前に走路の真ん中に着かなければなりません。次に、真ん中に着くには、その前に、出発点と真ん中のあいだの真ん中に着かなければなりません。この「その前に、さらに真ん中」は、どこまでも繰り返せます。すると、通らなければならない地点は限りなく多くなります。限りなく多くの地点を、限られた時間で一つずつ通り切ることはできない。ゆえに走路は走り切れず、そもそも動くことができない、というのです (図 1) 。 中間点がある ゴールの前に真ん中、その前にさらに真 ん中がある 点は限りなく多い どの中間点の前にも、まだ中間点がある 通り切れない 限りない点は限られた時間で通れない( ゼノンの前提) 動けない 走路は走り切れず、動くこともできない 後からの応答 アリストテレス:時間も長さと同じく限 りなく分けられる 図 1 二分法の流れ。ゴールの手前には必ず中間点があり、その手前にもまた中間点があります。太い枠は議論の要となる前提で、最後の段はゼノンの議論の外にある、アリストテレスの応答です。 この筋道には、アリストテレスが「誤った前提」と名指しした前提が一つあります。「限りなく多くの地点は、限られた時間では通り切れない」という段です。本教材では、ここを議論の要と見ます。ほかの段はどれも、「途中を通らずにゴールには着けない」という、誰でも認める考えから出ています。数学の知識は何も使われていません。 この議論が手ごわいことは、アリストテレス自身が認めています。彼は議論の技術を論じた『トピカ』で、「動くことも、競走路を走り切ることもできない」というゼノンの議論を挙げました。常識に反する結論なのに、どこがおかしいかを示しにくい議論の例としてです(『トピカ』8.8, 160b7–9) [1] 。 アリストテレスの最初の答えはこうです(のちに『自然学』8.8 で、より十分だとする解決を別に示します)。長さが限りなく分けられるなら、それを走る時間も同じように限りなく分けられる。だから、限りなく多くの区間を限られた時間で通っても、不思議はない(『自然学』6.2, 233a21–23) [1] [2] 。ゼノンが伝えた四つの運動の逆説を並べると、表のようになります (表 1) 。 この表で分かること: 四つの運動の逆説は、どれもおもにアリストテレスの短い要約で伝わっています。結論はどれも「運動は成り立たない」ですが、隠れた前提は少しずつ違います。 逆説 伝える箇所 結論 隠れた前提(再構成) 二分法(競走路) 『自然学』6.9, 239b11–13 走り切れない・動けない 無限の点は有限時間で通れない アキレスと亀 『自然学』6.9, 239b14–18 速い者は追いつけない 相手のいた所に先に着く必要 飛ぶ矢 『自然学』6.9, 239b5–7 飛ぶ矢は止まっている 時間は「今」の並び(アリストテレスの診断) 動く列 『自然学』6.9, 239b33–240a1 半分の時間が倍に等しい 同じ大きさを同じ時間で過ぎる 表 1 ゼノンの四つの運動の逆説 [1] [2] 。「隠れた前提」の列は、短い報告から本教材が再構成したものです。 ここで間違えやすい 「ゼノンは、距離を半分にしていく数学の議論をした」と考えがちです。しかし議論そのものは、「途中を通らなければゴールに着けない」という日常の考えだけでできています。「時間も長さと同じく限りなく分けられる」というのは、後からアリストテレスが与えた一つの応答です。ゼノンの議論の一部ではありません [1] 。 アキレスと亀――速い者は遅い者に追いつけない 二つ目が、最もよく知られた「アキレス」の逆説です。アキレスは、ギリシアの英雄の中でも足の速さで名高い人物です。アリストテレスの報告では、議論はこう始まります。いちばん遅い走者は、走っているかぎり、いちばん速い走者にけっして追いつかれない(『自然学』6.9, 239b14–18) [1] [2] 。 ここにはまだ亀は出てきません。文献で遅い走者を亀と明記するのは、のちの注釈者シンプリキオスです(ただし、下で見る前 5 世紀の杯にはすでに亀が描かれています)(『自然学注解』1014.5) [1] 。本教材でも、分かりやすさのために亀で話を進めます。 亀は、アキレスより先の地点から走り出します。アキレスが亀の出発点に着いたとき、亀はその間に少し先へ進んでいます。アキレスがその新しい地点に着いたとき、亀はまた少し先にいます。この関係は、何度繰り返しても変わりません (図 2) 。アキレスが「亀がいた所」に着くたびに、亀はもうそこにはいないのです。ゆえにアキレスは亀に追いつけない、という結論になります。 ① 出発のとき アキレス a1 亀 t0 ② アキレスが t0 に着く d1 t0 t1 ③ アキレスが t1 に着く d2 t1 t2 着くたびに亀は少し先(d1>d2>…) 図 2 アキレスと亀の追いかけっこ。アキレスが亀のいた地点に着くたびに、亀は少し先にいます。そのあいだの区間 d1、d2 は、だんだん縮んでいきます。 この議論が使う前提は、ほとんど一つだけです。追う者は、追いつく前に、まず逃げる者が走り出した地点に着かなければならない。これを否定する人はいないでしょう。アリストテレスは、この議論を二分法と同じものと見ました。違うのは、距離を半分ずつに分けない点だけだ、というのです(239b18–20) [1] 。ただし、二つが本当に同じ仕方で解けるのかには、異論も出されています [1] 。 英雄が亀に負けるという話は、古代の人々の関心も引いたようです。前 5 世紀半ばのものとされる赤絵の杯(ローマのヴィラ・ジュリア博物館蔵、ファレリイ出土)の内側には、大きな亀の前を軽やかに走る英雄が描かれています。この絵は、アキレスの逆説への最初の「応答」とも見られています [1] 。 ここで間違えやすい 「無限に続く足し算でも、和は有限になる。だからこの逆説はもう解けている」と片づけがちです。しかしそれは、後代の数学による一つの応答です。逆説の力は、「相手のいた所に着く」というごく単純な考えしか使っていない点にあります。また、二分法と同じ仕方で解けるかどうかにも、異論があります [1] 。 飛ぶ矢は止まっている――一瞬ごとに見れば動いていない 三つ目は「飛ぶ矢」です。ここでは距離を分けるのではなく、時間を一瞬ごとに区切って考えます。アリストテレスの報告によれば、ゼノンの議論は次のように再構成できます(『自然学』6.9, 239b5–7, 239b30–33) [1] [2] 。 飛んでいるあいだ、矢はいつも、ある一つの「今」の中にあります。「今」とは、幅のない一瞬のことです。どの一瞬をとっても、矢は自分の長さとちょうど同じだけの場所を占めています。自分と同じ大きさの場所にぴたりと収まっているものは、そこで静止している、とゼノンは考えます。どの一瞬もそうなのだから、矢は飛んでいるあいだ、ずっと止まっている。これが結論です (図 3) 。 一瞬で見る 幅のある時間で見る 瞬間ごとに矢は自分 と同じ長さの場所に ある 区間のはじめと終わ りで矢の位置が違う その場所にぴたりと 収まり、静止してい る 位置の違いが「動き」 として現れる どの瞬間を見ても、 同じく静止 動いているかは、時 間の幅で比べて分か る 静止の瞬間を並べると動きになるのか。アリストテレスは、 時間は「今」の寄せ集めではないと答えました。 図 3 矢の逆説を二つの見方で比べます。左は一瞬ごとに切って見る見方、右は幅のある時間で見る見方です。 本教材の作例で考えてみましょう。飛ぶ矢を連写した写真を一枚ずつ見ると、どの写真の矢も止まって写っています。では、止まった写真を何枚並べれば「動き」になるのでしょうか。この問いが、矢の逆説の手ざわりに近いものだと本教材は考えます。 アリストテレスは、この議論の弱点を、時間についての前提に見ました。時間は幅のない「今」が寄せ集まってできている、という前提です。時間はそのような「今」から成るのではない。だから議論は成り立たない、と彼は答えました(239b8–9) [1] [2] 。 一方、ゼノン自身の言葉として、ディオゲネス・ラエルティオスは「動くものは、それがある場所でも、ない場所でも動かない」という一文を伝えています(9.72 = DK29 B4) [1] [5] 。ただし、この一文がゼノンの言葉を正しく伝えているかには、疑問が出されています [1] 。 ここで間違えやすい 「時間は幅のない瞬間の寄せ集めだ」とゼノンが主張した、と読みがちです。しかしそれは、ゼノンがそういう誤った前提に頼っている、というアリストテレスの診断です。アリストテレスの報告は短く、ゼノン自身がどう論じたかを再構成するには、大きな不確かさが残ります [1] 。 歴史の注意:ゼノンは何のために論じたのか ゼノンの目的は、パルメニデスの「あるものは一つ」という説を守ることだった、とよく言われます。この見方のおもな出どころは、プラトン『パルメニデス』です。作中で若いソクラテスは、ゼノンの書物はパルメニデスと同じことを形を変えて言っているだけだ、とパルメニデスに向かって言います(128a6–b6) [1] [3] 。 ところが同じ対話篇で、ゼノンはこう答えています。自分の書物は、パルメニデスの説への一種の援護であり、その説を嘲る人々への返答だった。「多くのものがある」という彼らの前提から出発すると、もっとおかしな結論が出ることを示したのだ、と(128c6–d6) [1] [3] 。研究者のバーンズは、この答えを「ゼノンは嘲る者を嘲った」とまとめています [4] 。ゼノンが一者論を積極的に擁護したのか、相手の議論を崩すことに徹したのかは、読み方が分かれています [1] 。 原典を読む この章の逆説は、運動についてはゼノン自身の言葉では残っていません。ほぼすべてを、アリストテレス『自然学』第 6 巻第 9 章の短い要