14.86 怠けこそ勤勉 — 弁明の作り方 — Epoché
この篇でできるようになること ★ apology が「弁明」の意味で使われる のが分かる。 ★ 語を言い直して定義する やり方が読める。 ★ 随筆の中に寸劇を入れる 作りが見える。 ★ 抽象名詞を大文字にして地名にする 比喩が読める。 前提 : 特別編に門はありません。第 5 期まで済んでいれば、どこからでも読めます(目安は 3.40 まで/4.60 まで)。 読む前に ★ 特別編はどの篇から読んでもかまいません 。★前の篇を読んでいなくても通じるように書いてあります。 ★ まず題です 。★ An Apology for Idlers は 「怠け者たちへのお詫び」ではありません 。★ apology の古い意味は 「弁明・弁護」 ——★ だから 「怠け者の弁明」 です 。★ 本文の中でも this is an apology と念を押しています 。 どちらのことか 確かめること ★ ことばのこと ★ 語は時代で意味が動きます —— apology がその一例( 9.14 論編 ) ★ 背景のこと ★ 言わないで言う、というやり方 ——この篇はほとんど皮肉で動きます( 12.9 知編 ) ★ 同じ人の 別の本 も課になっています ——★ 8.85 読編 ・ 8.86 読編 ・ 8.87 読編 ・ 8.88 読編 ・ 8.89 読編 ・ 8.90 読編 の六篇が『ジキル博士とハイド氏』(1886) 。 ★ そちらは 小説 で、 人の顔を書かずに、見た人の嫌悪だけを書きます 。★ この篇は 随筆 で、 自分の考えを正面から立てます 。★ 同じ書き手の 語りの声 を比べられます 。 ★ 昔ぶって書く手つきは 14.84 英語の名文 にも出ます ——★ あちらは 後半ぜんぶ 、こちらは 寸劇の中だけ 。★ 使う場所が違えば働きも違う 、という見比べができます。 原文 原文は別の文書にあります(作品ページの「原文」)。本文は 1859 語、段落は 21 つ、文は 78 本、一文の平均は 23.8 語です。 ★ 段落の長さがきわだって不ぞろいです ——★ いちばん短い段落が 2 語、いちばん長い段落が 687 語 。★ 短い段落は 寸劇の台詞 、長い段落は 最後のまとめ です。 どの部分か 段落の数 語数 ★ 寸劇(対話) ★ 14 つ ★ 166 語( 8.9 パーセント) ★ 地の文 ★ 7 つ ★ 1693 語 全訳 原文の全訳です。この課程のために、原文に沿って訳しました。番号は原文の段落の番号で、原文と行き来できます。 ちょうど今は、だれもがみな、体面に対する不敬の罪で欠席裁判にかけられたくなければ、何かもうかる職業に就き、熱狂にかなり近いほどの勢いでそこで働かなければならないことになっています。そんなときに、足りるだけあれば満足し、そのあいだは傍らで眺めて楽しんでいたいという反対の側の人々が声を上げると、いくらかから威張りや大ぼらのように聞こえます。けれども、そうであってはならないのです。いわゆる怠惰というものは、何もしないことではなく、支配する階級の独断的な決まり文句には認められていないことを大いにすることにあるのであって、勤勉そのものと同じように、自分の立場を述べる権利を十分に持っています。六ペンス玉を目当てにした、重さをつけた大競走に加わろうとしない人々がいることは、加わる人々にとって、侮辱であると同時に興ざめでもあることは認めましょう。立派な男が(そういう男はたくさん見かけますが)心を決めて六ペンス玉に一票を投じ、アメリカふうの力のこもった言い方で言えば、それを「取りにいく」のです。そしてそういう男が苦労して道を耕すように進んでいるときに、道ばたの草地で耳にハンカチをかぶせ、肘のそばにグラスを置いて寝そべっている涼しい顔の人々に気づけば、その男が腹を立てるのも分からないではありません。アレクサンドロスは、ディオゲネスに相手にされなかったことで、たいそう痛いところを突かれました。元老院の議場になだれ込んだあの騒がしい蛮族たちにとって、議員たちが彼らの勝利に心を動かされることもなく黙って座っているのを見たとき、ローマを取ったことの栄光はどこにあったでしょうか。苦労して進み、けわしい丘の頂をよじ登ったのに、すべてをやり終えてみると、人々が自分の成し遂げたことに無関心だと分かるのは、つらいことです。だから、物理学者は物理を知らない者をとがめ、金融家は株のことをろくに知らない者をうわべでしか大目に見ず、文人は学のない者を見下し、あらゆる仕事の人々が手を組んで、何の仕事も持たない者をけなすのです。 しかし、これがこの題目の難しさの一つではあっても、いちばん大きな難しさではありません。勤勉を悪く言ったからといって牢屋に入れられることはありえませんが、愚か者のような口をきけば仲間外れにされることはありえます。たいていの題目でいちばん難しいのは、それをうまくやることです。ですから、これが弁明であることを、どうか覚えておいてください。勤勉を支持して、思慮深く論じられることがたくさんあるのは確かです。ただ、勤勉に反対して言えることも少しはあり、今回わたしが言わなければならないのはそれなのです。一つの論を述べるからといって、ほかのすべての論に耳をふさいでいることにはなりませんし、ある人がモンテネグロの旅行記を書いたからといって、その人がリッチモンドに一度も行ったことがないはずだという理由にはなりません。 若いうちはかなり怠けるべきだというのは、きっと疑いようのないことです。というのも、ところどころにマコーリー卿のような人がいて、学校の栄誉を手にしながら才気をすっかり保ったまま抜け出すこともあるでしょうが、たいていの少年はメダルのためにあまりに高い代価を払うので、その後はもう手元に一発の弾も残っておらず、破産した身で世に出ることになるからです。そして同じことは、若者が自分で自分を教育しているあいだ、あるいは他人に教育されるのを我慢しているあいだじゅう、当てはまります。オックスフォードでジョンソンに次のようなことばをかけたのは、よほど愚かな老紳士だったに違いありません。「若い人よ、今のうちに熱心に本に励み、知識をたくわえておきなさい。年を取ると、本に読みふけるのはただ骨の折れる務めになってしまうと分かるでしょうから。」その老紳士は、人が眼鏡をかけねばならず、杖なしでは歩けなくなるころには、読書のほかにもたくさんのことが骨の折れるものになり、少なからぬことができなくなるのだと、気づいていなかったようです。本はそれなりに結構なものですが、人生の代わりとしては、ひどく血の気のない代用品です。シャロットの姫のように、現実のにぎわいと輝きのすべてに背を向けて、鏡をのぞき込んで座っているのは残念なことに思えます。そして、古い逸話が思い出させてくれるように、人があまりに熱心に読書をすると、考える時間はほとんど残らないでしょう。 自分の受けた教育をふり返ってみれば、きっと、悔やまれるのは学びをさぼった充実した、生き生きとした、ためになる時間ではないはずです。それよりも、教室で眠りと目覚めのあいだにいた、どんよりとした時間のいくらかを取り消したいと思うでしょう。わたし自身について言えば、これまでにずいぶん多くの講義に出ました。こまが回るのは運動の安定の一例だということを、今も覚えています。永借権は病気ではなく、落水権は犯罪ではないということも、今も覚えています。しかし、そうした学問のかけらを進んで手放すつもりはないにしても、学びをさぼっていたあいだに表の通りで手に入れた、ほかのいくつかのがらくたほどには、それらを大切にしてはいません。ディケンズやバルザックのお気に入りの学校であり、毎年、人生の諸相の学の名もない達人を大勢送り出している、あの偉大な教育の場について詳しく述べるのは、今はその時ではありません。こう言えば十分でしょう。若者が通りで学ばないのなら、それはその若者に学ぶ力がないからです。それに、さぼる者がいつも通りにいるとは限りません。望むなら、庭のある郊外を抜けて田舎に出ることもできるのです。小川のほとりのライラックの茂みに腰を落ち着け、石に当たる水の音に合わせて、数えきれないほどパイプをふかすこともできます。やぶの中で鳥が歌うでしょう。そしてそこで、穏やかな考えにふけり、物事を新しい目で見るかもしれません。いやはや、これが教育でないなら、何が教育だというのでしょう。世間かしこ殿がそういう若者に声をかけ、そこから次のような会話が続くさまを思い描いてみましょう。 「これ、若いの、そなたはここで何をしておる。」 「まことに、旦那さま、わたくしはくつろいでおりまする。」 「今は授業の時刻ではないか。知識を得んがため、熱心に書物に励むべきではないのか。」 「いいえ、お許しを得て申せば、わたくしはこうしても学問を追うておりまする。」 「学問とはね。して、いかなるやり方でじゃ。数学か。」 「いえ、もちろん違いまする。」 「形而上学か。」 「それでもございませぬ。」 「何かのことばか。」 「いいえ、ことばではございませぬ。」 「職の技か。」 「職の技でもございませぬ。」 「ではいったい、何なのじゃ。」 「まことに、旦那さま、わたくしにもじきに巡礼の旅に出る時が来るやもしれませぬゆえ、わたくしと同じ身の者がふつう何をするのか、そして道のどこにいちばんひどいぬかるみとやぶがあるのか、また、どのような杖がいちばん役に立つのかを、心に留めておきたいのでございます。そのうえ、わたくしがここ、この水のほとりに寝そべっておりますのは、師が平安、あるいは足るを知ることと呼ぶよう教えてくださる教えを、心の底から覚えるためでございます。」 これを聞いて世間かしこ殿はたいそう憤り、まことに恐ろしげな顔つきで杖を振りながら、こう言い放ちました。「学問とはね!」と彼は言いました。「そのようなならず者は、みな首吊り役人に鞭打たせてくれるわ!」 そして彼は、羽を広げた七面鳥のように、糊のきいたネクタイをばりばりと音を立てて逆立てながら、立ち去っていくことでしょう。 さて、このワイズマン氏の意見が、世間一般の意見です。事実も、あなたがたの学問の部門のどれかに収まらなければ、事実とは呼ばれず、うわさ話と呼ばれます。探究は何か認められた方向に向かい、通り名を持っていなければなりません。そうでなければ、それはまったく探究ではなく、ぶらぶらしているだけで、救貧院でさえもったいないというわけです。あらゆる知識は井戸の底か望遠鏡の向こうの端にあるものと思われています。サント=ブーヴは年を取るにつれて、すべての経験を一冊の大きな本と見なすようになりました。わたしたちがこの世を去る前に何年か学ぶための本です。そして彼には、微分積分である第二十章を読もうと、公園で楽隊の演奏を聞くことである第三十九章を読もうと、同じことに思えたのです。実のところ、賢い人が自分の目で見て自分の耳で聞き、そのあいだずっと顔に笑みを浮かべていれば、英雄的な徹夜を重ねて一生を送るほかの多くの人よりも、本当の教育をたくさん身につけるでしょう。形式ばった骨の折れる学問の頂には、たしかに冷たく乾いた知識がいくらか見つかります。しかし、人生の温かく脈打つ事実を身につけるのは、あなたのまわりのいたるところで、見るという手間をかけるだけでよいのです。ほかの人々が、その半分は週が終わる前に忘れてしまうようなことばのがらくたで記憶を満たしているあいだに、あなたのさぼり屋は何か本当に役に立つ技を学ぶかもしれません。バイオリンを弾くこと、よい葉巻を見分けること、あるいはあらゆる種類の人と気楽に折よく話すことです。「熱心に本に励んだ」多くの人々は、世に認められた学問のどれか一つの分野についてはすべてを知っていても、古びたふくろうのような物腰で書斎から出てきて、人生のよりよく、より明るい部分ではまるで乾いて、木のように鈍く、胃弱であることが分かります。大きな財産を築いても、最後まで育ちが悪く、哀れなほど愚かなままの人も多いのです。そしてそのあいだに、彼らと同時に人生を始めた怠け者が通っていきます。こう言ってよければ、こちらは違った絵です。彼には自分の健康と気分に気を配る時間がありました。彼は大いに戸外で過ごしてきました。戸外こそ体にも心にも何よりも健やかなものです。そして、あの偉大な本をごく奥まった箇所まで読んだことはなくても、そこを拾い読みし、ざっと目を通して、すばらしい成果を得てきました。学生はヘブライ語の語根のいくらかを、商売人は半クラウン銀貨のいくらかを差し出して、怠け者が持つ広い人生についての知識と生きる技とを分けてもらってもよいのではないでしょうか。いや、そればかりか、怠け者にはこれらよりも大事な、もう一つの性質があります。それは彼の知恵です。ほかの人々が道楽に子どもじみた満足を覚えるさまを大いに眺めてきた人は、自分自身の道楽を、ひどく皮肉な寛大さでしか見ないでしょう。彼の声が独断家たちの中に聞かれることはありません。彼は、あらゆる種類の人々と意見に対して、大きく冷静な寛容さを持つでしょう。風変わりな真理を見つけはしなくても、ひどく燃え上がるような虚偽に自分を重ねることもないでしょう。彼の道は、あまり人の通らない、けれどもたいそう平らで気持ちのよい脇道をたどり、それは「ありふれ小路」と呼ばれ、「常識の見晴らし台」へと通じています。そこから彼は、あまり壮大ではないにせよ、心地よい眺めを見渡すでしょう。そして、ほかの人々が東と西を、悪魔と日の出を見ているあいだに、彼は、月の下のこの世のすべてのものの上に一種の朝の時が来ていること、そして影の軍勢が素早く、いろいろな方向に、永遠の大きな昼の光の中へと走っていくことに、満ち足りて気づいているでしょう。影も世代も、甲高い声の学者たちも打ち鳴るように響く戦争も、行き過ぎて最後の沈黙と空虚の中へ消えていきます。けれども、そうしたすべてのものの下に、人は見晴らし台の窓から、多くの緑の穏やかな景色を見ることができます。暖炉の火のともった多くの居間を見ることができます。善良な人々が、ノアの洪水やフランス革命の前にそうしていたように、笑い、飲み、恋をしているのを見ることができます。そして、さんざしの木の下で昔話を語る年老いた羊飼いを見ることができます。 語釈 帯の外の語は