アウグスティヌス――時間は心の広がりである(時間論・自由意志) — Epoché
中世 教父哲学と初期スコラ 約 25 分 本文 約 10,300 字 図 6・表 2 原典 2 節 この課の要点 時間・悪・意志の 3 つ 時間 過去はもう無く、未来はまだ無く、現在には幅が無い。それでも私たちは時間を測る。測っているのは心の中の記憶・直観(注意)・期待であり、時間は心の広がりではないか、とアウグスティヌスは考えた(『告白』11.20.26・11.26.33)。神は時間の中におらず、時間そのものを造った。 悪 マニ教は悪を光と争う闇の実体と考えた。新プラトン主義の書物を読んだアウグスティヌスは、存在するものはみな善く、悪は実体ではなく善の欠けだと考えた(『告白』7.12.18)。 意志 不正の正体は、最高の存在である神から背き、低いものへねじ曲げられた意志のゆがみである(『告白』7.16.22)。悪い行いの責任は造り主ではなく、選ぶ人の側にある。向きを正すには神の恵みが要るとも説いた。 はじめに アウグスティヌス(354–430)は、ローマ領北アフリカの町タガステに生まれ、弁論術の教師として身を立てた人です。384 年にミラノの弁論術教授となり、そこで司教アンブロシウスと新プラトン主義の書物に出会って、386 年夏に回心しました [1] 。 この課では、自伝の形をとった著作『告白』(397〜400 年ごろ)から、二つの問いを読みます。一つは第 11 巻の「時間とは何か」です。過去はもう無く、未来はまだ無いのに、私たちは「長い時間」と言い、時間を測ります。いったい何を測っているのでしょうか。アウグスティヌスは、時間は心の広がりではないか、と答えを探ります [2] 。 もう一つは第 7 巻の「悪はどこから来るのか」です。若い彼は光と闇が争うと説くマニ教に答えを求め、やがて離れました。たどり着いたのは、悪は実体ではなく善の欠けであり、悪い行いの原因は意志のゆがみにある、という考えです [1] [2] 。 二つの問いは、時間に散らされる心と神から背く意志という形で、どちらも心がどこへ向かうかに関わります(本教材の読み方)。前の編のプロティノスから何を借り、何を入れ替えたのかにも注意しましょう。 この課の問い 過去はもう無く、未来はまだ無いのに、私たちは何を測って「長い時間」と言うのでしょうか。そして、善い神が善いものだけを造ったのなら、悪はどこから来るのでしょうか。 この課のことば 心の広がり({la:distentio animi}) 心が記憶・直観(注意)・期待の三方向に引き伸ばされていること。時間の定義にいちばん近い言い方です(11.26.33)。 記憶・直観・期待 過去のものの現在・現在のものの現在・未来のものの現在。どれも心の中にあります(11.20.26)。直観( contuitus )は、歌の例(11.28.38)では「注意( attentio )」と呼ばれます。 永遠 過ぎることも来ることもない、いつも全体が今であるあり方。とても長い時間ではありません(11.13.16)。 マニ教 光と闇の二つの原理が争うと説く、ペルシアに起こった宗教。北アフリカではキリスト教の一つの形として広まりました。 善の欠如 悪は独立した実体ではなく、善が欠けていることだという考え(『告白』7.12.18)。 自由意志 自分で選ぶ力( liberum arbitrium )。悪い行いの原因はこの意志の向きにあるとされます(『告白』7.3.5)。 時間と記憶――無いはずの過去と未来を、私たちは何で測るのか 時間は、毎日使っているのに、説明しようとすると手から逃げていく言葉です。アウグスティヌスは『告白』第 11 巻で、聖書の「初めに神は天と地を造った」を読みながら、この問いに一人称で向き合います。哲学事典 SEP(スタンフォード哲学百科事典)は、ここでのねらいは宇宙の時間の定義ではなく、時間の中に生きる私たちが自分と神にどう関わるかにある、と読みます [1] 。この章では、時間の謎、三つの現在と心の広がり、時間の外にいる神、の順に読みます。 問われなければ知っている――時間の謎 アウグスティヌスは、時間ほど身近な言葉はないと言います。私たちは話すとき「時間」と言い、人が言うのを聞いて意味が分かります。ところが、彼はこう告白します。「では時間とは何か。誰も私に問わなければ、私は知っている。問う人に説明しようとすると、私は知らない」(『告白』11.14.17) [2] 。 なぜ説明できないのでしょうか。ふつう私たちは、時間を過去・現在・未来に分けます。けれども、過去はもう無く、未来はまだ無いのです。では現在はどうでしょうか。もし現在がいつまでも現在で、過去へ移っていかないなら、それは時間ではなく永遠です。現在が時間であるのは、過去へ移っていくからです。すると時間は、無くなろうとしていることによってしか「ある」と言えなくなります(11.14.17) [2] 。 現在にも幅がありません。一年は過ぎた月とこれからの月に分かれ、一日も一時間も、過ぎた部分と来る部分に分けられます。もう分けられない一瞬まで縮めると、そこには長さが残りません(11.15.20) [2] 。三つの「部分」のどれも、ちゃんとはないのです [1] 。 過去 もう無い 未来 まだ無い 現在 幅が無い(過ぎる部分と来る部分に 分かれる) それでも測る 長い・短い・二倍だと比べる 問い では、何を測っているのか 答えの方向 心の中の記憶・直観・期待 図 1 時間の謎の流れ(本教材の整理)。三つの「部分」のどれもちゃんとはないのに、私たちは時間を測ります。点線の段は、次の節で出る答えです(『告白』11.14.17〜11.16.21)。 それでも私たちは時間を測ります。「長い時間」「短い時間」と言い、こちらはあちらの二倍だ、同じだと比べます(11.16.21) [2] 。しかし、無いものは測れないはずです (図 1) 。では、私たちはいったい何を測っているのか。これが第 11 巻を動かす問いになります。 本教材の作例で考えてみましょう。友だちを待って「ずいぶん待った」と言うとき、待った 20 分は今どこにもありません。もう過ぎてしまったからです。それなのに私たちはその長さを知っていて、「さっきの 10 分より長かった」と比べることまでできます。 ここで間違えやすい 「時間は分からない」を、アウグスティヌスが説明をあきらめて投げ出した、と取らないようにしましょう。彼は謎を立ててから、測るという身近な経験を手がかりに、時間が心の中でどうあるかを第 11 巻の続く節で細かく調べていきます。分からないと認めることが、探究の出発点なのです。 三つの現在――記憶・直観・期待 過去の出来事そのものは、もうありません。けれども、それが心に残した像は今あります。少年時代はもう過ぎましたが、それを思い出すとき、私はその像を今見ています(11.18.23) [2] 。 そこでアウグスティヌスは言い直します。三つの時とは、正しくは過去のものの現在、現在のものの現在、未来のものの現在であり、どれも心の中にしか見当たりません。それぞれ記憶・直観・期待です(11.20.26) [2] (表 1) 。 この表で分かること: ふつうの「過去・現在・未来」を、アウグスティヌスは心の中の三つの働きに言い直しました。三つとも「今」心にあるのが要点です。 ふつうの言い方 言い直すと(11.20.26) 心の働き 歌を唱える例(11.28.38) 過去 過去のものの現在 記憶 唱え終えた部分 現在 現在のものの現在 直観(11.20.26)・注意(11.28.38) いま唱えている言葉 未来 未来のものの現在 期待 これから唱える部分 表 1 三つの現在(『告白』11.20.26・11.28.38) [2] 。現在を受け取る働きは、箇所によって呼び名が違います。 アウグスティヌスはまた、時間は天体や物体の運動そのものではないと論じます。ある人の祈りで太陽が止まり、その間に戦いが行われたという聖書の話があります。太陽が止まっても、戦いの時間は過ぎていきました(11.23.30〜11.24.31) [2] 。 では何を測っているのか。長い音節と短い音節を比べるとき、音はもう鳴り終わっています。測っているのは、音が過ぎ去るときに心に残した印象です(11.27.36) [2] 。その手前の 11.26.33 で、彼は時間とは広がりであり、それは心そのものの広がりではないか、と考えます(11.26.33) [2] 。言い切らず、探りながら述べている点が大切です。 知っている歌を唱えるとき 『告白』11.28.38 の本人の例 記憶(過去) 唱え終えた部分 注意 期待(未来) まだ唱えない部分 未来が注意を通って過去へ 唱える人 始め 途中 終わり 期待だけ 半々 記憶だけ 歌の例は原典にある本人の例 帯と色分けは本教材の描き方 図 2 知っている歌を唱えるときの心の中(本教材の絵)。言葉は期待の側から注意を通って、唱え終えた部分の記憶へ移ります。下の三つの目盛りは、始め・途中・終わりで期待と記憶の割合が入れ替わる様子です。歌の例は本人のもので、帯と色分けは本教材の描き方です。時間を測る経験を心の働きから説明する図で、宇宙の時間が幻だという意味ではありません。 本人の例を見ましょう(11.28.38)。知っている歌を唱えようとするとき、始める前は、期待が歌全体に向かっています。唱え始めると、唱え終えた部分が記憶へ移り、心の働きは記憶と期待に引き伸ばされます。その間も注意は今ここにあり、未来だったものが注意を通って過去になります [2] (図 2) 。進むほど期待は短く、記憶は長くなります。同じことは人の一生にも、人類の歴史全体にも起こる、と彼は言います。 SEP は、三つに分かれながら一つにつながっているからこそ、私たちは自分の生涯を思い出し、自分が誰かを知ることができる、と読みます [1] 。 ここで間違えやすい 「時間は心の中にある」を、時間は気のせいで、人によって好き勝手に伸び縮みする、と取らないようにしましょう。アウグスティヌスが問うたのは、私たちが時間を測るとき何を測っているか、です。答えは「心の広がりではないか」という探る形で示され、宇宙の時間がすべて幻だと決着したわけではありません。第 11 巻の別の所では、時間は被造物とともに造られたとも言います [1] 。 時間の外にいる神――天地を造る前の問い 「天地を造る前に、神は何をしていたのか」と問う人がいました。ある人は冗談で「深いことを詮索する者のために地獄を用意していた」と答えたと伝えられます(11.12.14) [2] 。アウグスティヌスはそうは答えません。問いを笑ってかわすより、知らないことは知らないと言う方がよい、と退けます。 そのうえで、彼は問いの前提を外します。「造る前」と言うとき、私たちは創造の前にも時間が流れていたと思っています。けれども時間そのものを神が造ったのなら、時間の前に「その時」はありません。だから「その時、神は何をしていたか」という問いは成り立たないのです(11.13.15) [2] 。 神は時間の中ではなく、永遠の内にいます。神の年は来ることも去ることもなく、神の今日は明日に譲らず、昨日を継ぎません。神の今日は永遠です(11.13.16) [2] 。時間と永遠のこの区別は、プラトン『ティマイオス』とプロティノス『エンネアデス』III.7 にさかのぼります [1] 。 歌の例は神と比べるためにも使われます。私たちは歌を唱えるとき、期待と記憶に引き伸ばされます。神は移り変わりなしにすべてを知り、天地を働きの広がりなしに造りました(11.31.41) [2] 。永遠は「とても長い時間」ではなく、過ぎることも来ることもない、別のあり方なのです。 第 11 巻の終わりで、アウグスティヌスは、時間の中でばらばらになる心が、パウロの言う「前のものに向かって身を伸ばす」ように神へ向かうことを願います(11.29.39〜11.31.41) [2] 。SEP は、ここに心の広がりと対になる「神への向き」を読み取ります [1] 。時間論は、時間に散らされた心がどこへ集まるかという問いで閉じられます。 ここで間違えやすい 「神は時間の中にいない」を、神は大昔にいて今はいない、あるいはとても長く生きている、と取らないようにしましょう。永遠は時間の長さではなく、時間とは別のあり方です。また、地獄の冗談はアウグスティヌス自身の答えではなく、彼が退けた答えです。 悪と意志――善い神が造った世界に、悪はどこから来るのか 第 1 章の終わりでは、時間に散らされた心が神へ集まることを願う姿を見ました。この章で見るのはその逆、神から背く心の向きです。時間の謎と並んで、若いアウグスティヌスを長く苦しめたのが、悪はどこから来るのかという問いでした(『告白』7.5.7) [2] 。19 歳のころから約 9 年間、彼は光と闇が争うと説くマニ教の側にいました。ミラノで読んだ新プラトン主義の書物が、別の答えへの道を開きます。この章では、マニ教を離れるまで、悪は善の欠けだという考え、悪い行いの原因は意志の向きにあるという考え、の順に読みます。 マニ教を離れる――悪は闇の実体か マニ教は、ペルシアに起こった二元論の宗教です。北アフリカではキリスト教の一つの形として広まり、国からは異端として迫害されていました [1] 。アウグスティヌスは 373 年ごろその「聴聞者」となり、約 9 年とどまります [1] 。 なぜ惹かれたのでしょうか。悪を神とは別の闇の力のせいにすれば、善い神が悪を造ったことにはなりません。善い神を守る説明に見えたのです。ただしその見方では、神も魂も物体のようなものとして考えられ、魂は闇の世界に落ちた神の一部とされました [1] 。 物体でしか考えられないあいだは、悪も「何かの物」として思い描くしかありません。マニ教を離れかけたころの彼は、造られた世界全体を、限りない海に浮かぶ、大きいが限りのある海綿のように思い描きました。その隅々に、神という海がしみ込んでいると考えたのです(7.5.7) [2] 。そう思い描いたまま「では悪はどこから」と問うても、答えは出ませんでした。 354 年 北アフリカのタガステに生まれる 373